3章

 堤井がピアノを始めたのは三歳の時だった。四歳上の兄が弾いているを見て、自分もやりたいと親にねだったことを朧げながら覚えている。兄は何をやるにしても自分より上手かった。今思えば、兄の方が特別に優れた能力を持っていたというわけでもない。単に生きてきた年数が四年長い、ただそれだけで彼は常に自分の先を歩いていた。そのことに対して劣等感を抱くこともなく、兄は幼い自分の憧れであった。

 そんな兄が中学生に上がる頃、ピアノを辞めた。別に挫折とかそういった大げさなことは何もなかった。中学に入ればテストや部活などで忙しくなる。そのために小学生までやっていた習い事を辞めるというのはよくあることだ。彼もピアノに未練はなさそうだったし、悲観するようなことじゃない。しかし当時小学三年生だった自分には衝撃だった。

 それまで堤井は、一度始めたことはずっと続けていくのだと思っていた。テレビの中の戦隊ヒーローにはなれなくとも、パティシエになりたいと言っていた子はパティシエになるのだと思っていたし、アイドルになりたがっていた子はずっとアイドルを目指しているのだと思っていた。だって、実際にそれを叶えた人もいる。ならばそれは叶わぬ夢なんかじゃなく、現実だろう。だから自分の中では、兄は当然のようにピアノを続けるはずだったのだ。そんな兄がピアノを辞めたことは、堤井には手酷い裏切りのように感じられた。

 これが堤井の人生における、初めての失望だった。


 それからは家にあるピアノを弾くのは自分だけになった。兄が弾かなくなったため、自分がピアノを使える時間が増えたのだ。ついでに遊びに付き合ってくれていた彼が学校で忙しくなってしまったこともあって、独りになった堤井はこれまで以上にピアノにのめり込んだ。  

 だから割とすぐに、堤井は兄よりピアノが上手くなった。四年生になる頃には辞める前の兄と同等か、それ以上の実力を得ていたと思う。兄はそんな自分の演奏を聴いて、心の底から嬉しそうに「誠二には才能がある」と言った。それを聞いて堤井は悲しくなった。もう兄にとってピアノは、追い越されようが悔しさを持たないほど、過去のものなのだと気付いたからだ。堤井はピアノが好きだからピアノを弾いている。けれどほんの少し、ピアノを辞めた兄に対する当てつけのような気持ちもあったのかもしれない。だがそんな些細な復讐は彼に一つの傷もつけなかった。彼を再びピアノの世界に引き摺り戻すことなど不可能なのだと、堤井はここでようやく理解した。もう彼は自分の憧れではなかった。

 憧れを失うのは辛かった。しかし諦めがつくのもまた早かった。なにせ自分はもう兄より上手くピアノを弾ける。兄が見られなかった景色――彼は初めから見るつもりもなかったのだろうけど――それは、自分が見に行けばいいのだ。兄にできて自分にできないことなどあるものか。自分にできることを敢えて人に託す必要なんかない。もう指針は要らなかった。ここから先は一人でも歩ける。堤井が明確にピアニストを目指すようになったのは、おそらくこの時だ。

 ただの趣味や習い事としてピアノを弾くのとプロを目指すのとでは、かなり話が変わる。この年から堤井は先生をプロ育成専門の教師に切り替えた。新しい先生は優しかったが、技術には厳しかった。練習時間も倍だ。ここまでやれば当然、ある程度には上手くなる。小五からはコンクールにも出場し始めた。良い成績を残せば学校で表彰されることもあった。しかしその世界に慣れ始めると段々分かってくる。

 夢を追う人は現実が見えていない、なんて言われがちであるが、それは違った。夢を追えば否応なく現実の壁にぶつかる。現実の形を、身をもって知ることになる。そのせいで堤井も知ってしまった。

 堤井には、才能なんかない。

 周りのクラスメイト達は堤井のことをよく褒めた。時には無邪気に「天才じゃん!」なんて言ったりもする。お願いだから黙ってくれと思った。堤井のピアノは大して良いものじゃない。なのに褒められるというのは、見向きもされないよりよっぽど惨めだ。

 堤井は彼らを物の価値がわからない馬鹿だと見下した。でなければ思ってもないことを言う嘘つきだと。堤井はそのどちらも嫌いだった。お世辞を嘘つき、と断じてしまうのは彼らの気遣いを無下にする行為かもしれない。ただその正しい受け取り方が、どうしても分からなかった。


 やがて堤井の小学校生活も、あと少しで終わりというところまで来た。堤井が通っていた小学校では、卒業式のピアノ伴奏は児童の中からオーディションで選ばれる。だがオーディションを受ける気はなかった。もう部外者に適当に褒められるのはこりごりだ。堤井がプロになって、部外者が客になるまでは、堤井に向けられるのはピアノ教室やコンクールでの厳正な審査の目だけでいい。それに伴奏の練習をする時間も惜しかった。

 そして何より、卒業式の伴奏なんかはやりたい人がやるのが一番だと堤井は思っている。大体こういうのは思い出作りのためのものだ。技術を求めるのなら極論、音楽教師に弾いてもらえばいいという話になってしまう。けれどそうじゃない。オーディションなんて形だけで、弾きたい子の中でついでに上手い子がいたら良いよね、ぐらいの緩さなのだ。そこに本気の実力勝負のテンションを持ち込むのは違う。子どもの砂場にショベルカーで突っ込むようなものだ。そんなのあんまりにも風情がない。

 そんな理由から、このオーディションは自分には関係ないと考えていた。だがそうはいかなかった。堤井がピアノを弾けることは、自分が思っていたよりも広く周りに知られていたのだ。オーディション参加に手を挙げなかった堤井を目敏く見つけ、クラスメイトのとある女の子が言った。

「なんで弾けるのに弾かないの?」

 彼女もピアノを習っていて、またオーディションにエントリーもしていた。多分それなりに腕に自信があったのだと思う。気の強い子だったから「堤井に勝つ」ぐらいの気持ちもあったかもしれない。それなのに当の堤井にオーディションを受ける気がないというのが、どうも彼女のプライドを傷付けたらしかった。不戦勝でも嬉しくない。そう言って彼女は、堤井に半ば無理やりオーディションを受けさせた。

 結果、堤井はオーディションに合格してしまった。当たり前だ。凡才だろうがなんだろうが、ピアノに向き合ってきた時間が違う。そんじょそこらのピアノを習っていてちょっと得意、ぐらいの小学生に技術で劣ることはまず有り得ない。手加減をすることも考えた。わざと間違えるとかすれば、合格を回避することはできただろう。でも、できなかった。もしこの場ですら本当に見向きもされなかったらどうしよう?彼らの賞賛を煩わしく思いながらも、堤井はそれを失うことが恐ろしかった。嘘だとしても自分を認めてくれる、その声を完全にシャットアウトできるほど堤井は強くなかった。だから本気で弾いた。そして後悔した。

 オーディションの結果が発表された後、堤井は例の彼女が泣いているのを見た。泣くぐらいなら堤井に挑まなきゃ良かったのに。なんでこっちが罪悪感を抱かないといけないのだろう?最初からオーディションに出ていたら、こんな風に泣かれるようなことはなかったのだろうか。だが堤井は卒業式の伴奏なんかしたくなかったのだ。できるからって、したくないことはある。この時の堤井はノブレス・オブリージュなんて言葉は知らなかった。しかし今はこう思う。ノブレス・オブリージュなんかクソ喰らえだ。こんな義務、堤井には到底背負えるものではなかった。なのに学校という小さな世界の中で、堤井は凡才でありながら天才の振る舞いを求められた。


 ずっと自分に言い聞かせてきた。したくないことはしなくていい。辞めたきゃ辞めればいい。できるからって何でも求められるままにやる必要なんかない。

 そうだ。だから堤井だけは、一音がオルガンを辞めたことを否定してはならないのだ。それはなにも一音が可哀想だからじゃない。そうやって生きてきた自分自身を認めるためだ。あるいは役目という縛りから逃れるためだった。同じように求められることに苦しんできた堤井だけは、今の彼を認めてやらなくては。でなきゃこの世って最悪だ。堤井は世界にまで失望したくはなかった。

 ノブレス・オブリージュを否定すること、それは堤井の唯一の美学だ。美学を失ってしまえば、堤井は堤井である意味がない。美学を捨てるとは、何者でもないただの一人になり下がることだった。それが今、一音という才能を前にして揺らいでいる。

 だが何者でもないことがそんなに悪いことだろうか?何者でもない大人なんてこの世にごまんといる。むしろ美学という名の融通の効かない拘りと折り合いをつけていくことが大人になっていくということなのかもしれない。

 誰しもが産まれてから今まで、大量に諦めながら生きていく。親の胎内で自動的に栄養を得ていた赤子が、胎外に出て自分の口でものを食べるようになるのだってそうだ。そうしなければ生きていけないから諦めて受け入れたに過ぎない。しかしそれを普通、諦めとは呼ばない。成長と呼んでいいものだ。

 堤井が今抱えている美学だって同じとは言えないだろうか。手放して初めて、これに縋って生きていたのが馬鹿だったと気付きやしないか。この葛藤が成長痛のようなものなら、堤井は耐えて前に進むべきだ。

 自分は一体どうするべきなのだろう。――なんて悩みそうになったが、考えても意味のないことだ。だって一音は堤井が何を言おうがオルガンを辞めた後だ。堤井が干渉する余地なんか存在しない。

 存在しないはずだったのだ。まさか今更になって一音の人生を左右する選択肢が堤井に降りかかることになるとは、思いもしなかった。


「堤井くん、ちょっといいか?」

 数日のお盆休みが終わり、再び毎日の部活が始まった。帰宅しようとする堤井を石爪が呼び止めたのは、そんな日だった。

「? 、はい」

 なんだろうと思い彼を見やる。外では、風はさほど強くないまでも黒い雲から大粒の雨が降っていた。嫌な空気だ。石爪はいつも通り笑顔を浮かべてはいるものの、どこか思いつめたような表情をしていた。

 他の部員たちは次々に音楽室を出ていく。それを待ってから、彼は堤井に向き直った。

「ごめんな。コンクールのことなんだけど」

 悪い知らせの気配に唾を飲み込む。コンクールまでは残り三週間を切っている。ここまで来て何が起こるというのだろう。僅かに言い淀みながら、石爪は続ける。

「一音の代わりに、伴奏できるか?」

 一瞬何を言われたのか分からなかった。一音の代わりに伴奏をする、それはどういう意味か。彼の問いに答えるより先に堤井は尋ねていた。

「どういうことですか? 一音先輩に何かあったんですか?」

 狼狽する堤井に、石爪は慌てて言い直す。

「まだ決まったわけじゃないんだ。先に説明するべきだったな。」

 ごめん、と詫びて彼は事のいきさつを話しはじめた。

「一音の親戚が主催するパーティーに、あいつが呼ばれたんだ。何でも主賓が一音のオルガンのファンだそうで、一曲披露してほしいとか。で、そのパーティーっていうのがコンクールの日と被っててさ」

 彼の話を聞いて思い出したのは、コンビニに使い走りされた日のことだ。あの時一音を待っていた二人組こそ、その親戚とやらであろう。

 心臓が痛いほど激しく脈打つ。今になって、もう絶対蘇らないと思っていた新川一音のオルガンが蘇るかもしれない。コンクールの日程と被っているのだから堤井がそれを聴くことはできないが、彼が再びオルガンを弾くこと自体に意味があった。彼がそのつもりなら、堤井は一音のオルガンを諦めなくていい。

「一音先輩は、パーティーの方に出席するんですか」

 そう聞くと、石爪は苦い顔をした。それでも彼は努めて冷静に言葉を紡ぐ。

「それは堤井くん次第だ。きみが伴奏を引き受けないようだったらパーティー出席は断るって、一音は言ってた」

 突き放すような口振りだった。事実のみを伝えるニュースキャスターのように、そこに彼の感情は乗っていなかった。それがかえって、彼の押し殺された想いが滲んでいるように見えて切ない。

 ここで堤井が引き受けなければ、一音は今度こそオルガンを弾くことは二度とないだろう。なんとなくだがそう思った。頭が痛い。自分の選択次第で一音の今後の人生が変わってしまう。

 あれだけ切望してきた一音のオルガンだ。迷うことなんかないはずである。しかし堤井が彼の背中を押して得たそれは、本当に自分が望んだ新川一音の復活だと言えるだろうか?そもそも自分は本当に、彼の復活を望んでいるのだろうか。堤井にはもう全てが遅いような気がしていた。 

 自分が欲しかったのは、一度も転んでいない無傷の彼だった。そんなの、出会う前にとっくに終わっている。出会ったこともない理論上の新川一音に堤井は焦がれていた。途方もなく虚しくて、苦しい。今更堤井がどちらを選んだって、堤井の願いは叶わない。

「急にこんなこと言われても困るよな、ごめん」

 どこまで堤井の心情を察しているのか、一転して彼は堤井を慮るように言った。さっきから石爪は謝ってばかりだ。

「部長は何も悪くないです」

 見ていられなくて、堤井は語調を強めてはっきりと言う。けれど彼は困ったように笑うだけで、表情が晴れることはなかった。彼をそうさせるのは一体なんだろう。堤井に選択を迫っていることへの罪悪感か、それとも。

「部長は?」

「え?」

 石爪の目に緊張が走る。

「俺が伴奏やったら、テノールは部長一人になっちゃいますよね」

 堤井が口にしたのは現実的な問題だ。この合唱部においては一人抜けるだけでも重大な損失になる。しかし彼はなぜかほっとしたように表情を和らげた。

「あぁ、そこは心配しなくていいよ。これでも部長だし。……だから、堤井くんが好きなようにしてくれ」

 残酷な言葉だ。好きなように、なんて、どうしたってならないのに。

 テノールが一人になるのは大変だろう、と考えたのは事実だ。だが本心をいえば言い訳にすぎなかった。石爪が堤井に伴奏に行かれると困ると言うのであれば、それは一音のオルガンを選ばない理由になる。けれど石爪はそうはさせてくれなかった。やっぱり、堤井が自分で選ぶしかないのだ。

「少し、考えさせてください」

「わかった。ほんとに、ごめん」

 尚も謝る石爪を見て、堤井は理解してしまった。この人は堤井に伴奏をしてほしいと思っている。というより、一音にオルガンを弾いてほしいのだ。最初から事情を説明せずに「伴奏をできるか」とだけ聞いたのも、だからだろう。

 ずるい人たちだ。石爪も一音も、わざわざ堤井に選択を委ねるだなんて。きっと彼らも堤井と同じように、選ぶのが怖かっただけだ。

 残された時間は少ない。コンクールまでの期間を考えれば、早く決めないと事態が混乱するだろう。人生を左右するには、あまりに短い時間。堤井は呆然としたまま音楽室を後にした。廊下の窓は雨粒だらけで、ろくに外が見えやしなかった。


 部活の日もピアノのレッスンはある。大抵は一度帰宅してからピアノ教室に向かうのだが、今日はそんな気も起きず、学校から直接足を運んだ。

 練習室は他に生徒がいない時は自由に使っていいことになっている。

まだレッスンの時間には早い。堤井は先生が来るまでの間ピアノを弾いて待つことにした。

 そうして弾き始めたのは練習中の曲ではなく、部で歌う合唱曲だった。一音が部活に来ない時はずっと堤井が弾いていた。指は滞りなく滑らかに動く。堤井が彼の代わりを十分に務められる証左だ。なぜこれがピアノだったのだろう。もし堤井にオルガンが弾けたら。一音のオルガンのその先を、堤井自身が生み出せたら。それこそ兄が見ることのなかった景色を、自分が代わりに追ったように。

 しかし堤井はピアノが好きで、一音はオルガンの天才だった。似ているようで互換性がない。鍵盤という共通言語を持つが故に、なおさら一生噛み合わず、ただひたすらにお互いの違いだけが刻まれていく。

 一音のピアノは優しかった。あれだけ自由奔放なソリストが、伴奏をする時だけはこちらに寄り添っていた。いつかの日に、「おれに見られたいやつなんかいない」と彼が言ったことを思い出す。だからオルガンを辞めたのだと。

 だがピアノを弾く彼は、歌う自分達の声を聴いて、見てくれていた。部員達もその視線に応え、重ねるようにして歌った。ならばピアノは、伴奏は、彼が得た最後の居場所なのかもしれない。

 彼に何があったのかは未だに知らない。しかし一音がオルガン辞める決定打になったのは、この居場所の存在ではないのか。堤井にはそんな風に思えた。合唱部に入る前にオルガンを〝辞めようとしていた〟という彼は、合唱部という居場所があってこそ、安心して辞めることができたのだ。堤井が入部する際に彼が強く反発したのも、そのポジションを奪われることに怯えたからではないのか。

 そんな彼が今、やっと得た居場所を堤井に明け渡し、オルガンに戻ろうとしている。ちょっと理解が追いつかなかった。一回死んだ人間がそう簡単にもとに戻れるものだろうか。親戚のパーティーというのがどれほどの強制力を持つのかは不明だが、もし一音が無理をしているのであれば、堤井はそんなものを新川一音の復活とは呼びたくない。

 堤井にとって価値があるのは、彼が本当に弾きたいと思って弾くオルガンだ。堤井は人のために生きるのが嫌いである。だから一音にも、一音自身のためだけに生きて欲しいのだ。


 曲を弾き終えると同時に、練習室のドアが開いた。

「それは合唱部の曲? 随分頑張ってるね」

「先生」

 堤井が振り向くと、先生は皺の入った目元を細めて微笑んだ。彼は堤井が小学生の頃からレッスンを受けているピアノの師だ。五十は過ぎているがまだ現役で、色んな生徒を受け持っているためか、いい意味で心が若い。堤井にも昔からフランクに接してくれて、まるで第二の父のような存在である。

「前より音の聴き分けができるようになってる。合唱の伴奏っていうのも、結構いい経験だったんじゃない」

「先生が言うなら、そうかもしれませんね」

 実感はないが、だとしたら一音のお陰だろう。一音とのレッスンの成果が堤井のピアノに表れているのだ。それは嬉しくもあり、複雑でもあった。

 そんな堤井の胸中を知らず、先生は朗らかに尋ねる。

「コンクールがあるんだよね、誠二くんが伴奏するの?」

「いえ。それはまだ、分からないです」

 伴奏はしないと言い切ることはまだできなかった。答えを濁す堤井に、彼は意外そうに目を丸くして言う。

「えっ、他に弾く人がいるってこと? プロ目線としてはまだまだだけど、学校内なら負けなしでしょう」

 先生はあまり人を貶したりはしないが、適当に褒めることもない。だから先生に負けなしだろうと思ってもらえるのは単純に嬉しかった。ただ残念なことに、実際は全くもって負けなしではないのだが。

「そんなことはないですよ。本当に、上手い先輩がいて。コンペにも出てない人なんですけど」

 堤井が悔しさ混じりに零すのを見て、先生は合点がいったという風に頷く。

「なるほどね。それでか」

「そうなんです。なので弾くかは分かりません」

 すると彼は笑いながら首を横に振った。その目は親が子どもを見るものと似ている。それから彼は嬉しそうに続けた。

「じゃなくて、誠二くんが上手くなった理由が分かったよ。良い友人に出会ったんだね」

「友人?」

 聞き捨てならない言葉だ。とっさに聞き返すと、不思議そうな顔で見つめ返される。

「あれ、違うの? そういう顔してたよ」

「先輩なので……あまり友人という感じでは、ないかなと」

「ふうん。まぁ雑談はここまでにして、今日のレッスンに入ろうか」

 先生はなんでもないように楽譜を開き、譜面台に並べ始めた。

 堤井と一音は、友人と呼んでもいいものなのだろうか。だが照れ隠しでもなんでもなく、彼を友人と呼ぶのはどこか違う気がした。それでも確かに堤井と一音の距離は近付いている。その近さが命取りであることに、堤井はもっと早く気付くべきだった。


 コンクールまで残り二週間。二学期もあと少しで始まる。まだ高校一年生の三分の一しか終わってないというのが嘘みたいだ。一音に出会って合唱部に入ってから、たったこれだけの時間しか過ぎていないなんて。信じられない思いで目の前の彼を見つめる。

 彼が鍵盤を鳴らす。――最初に惹かれたのはこの音だったな、となんだか懐かしく思った。


「通しで弾くから楽譜めくって」

 そう言って一音は椅子に座り、伴奏を始めた。堤井はその傍らに立ち、譜面を追いながらピアノの音色に耳を傾ける。

 暗譜をしているのに楽譜を見ながら弾くのには様々な理由がある。合唱の伴奏に限定して言うなら、歌に合わせた強弱を意識するためというのが大きな理由だろうか。どの人数で、どういったニュアンスで歌うのかによって相応しい演奏は変化する。

 ただ楽譜にはいちいち全ての状況に対応した指示が記されているわけではない。だから自分で演奏指示のメモを楽譜に書き入れる。そうして自分達の歌に合った、いわばオーダーメイドの楽譜が作られるわけだ。

 いくら暗譜しても細かい指示まで覚えるのは難しいし、思い出すために余計な脳を使ってしまう。そうならないように念の為、覚えていても楽譜を見ながら弾くのである。

 改めて一音の楽譜を見ると、子細に指示が書き入れられているのが分かる。彼ほどの技量があれば無意識でも良い演奏はできるはずだ。それでもこうして書いているのが、健気というか、いじらしい努力だと思う。

 新川一音は自分勝手な人間だ。部活だってしょっちゅうサボるし、協調性が終わっている。けれど彼は彼なりに、この部のことを大事に思っていたのだ。そのことがたった数枚の楽譜から、嫌というほど伝わってきてしまう。

 曲が進む。一枚、楽譜をめくる。

 譜面にかける指が微かに震えた。でも堤井にはそれを止めることができない。

 ここで堤井が止めないことで、一体何が変わるだろう。あるいは、何を変えずにいられるだろう。なにもしない、ということが一つの選択たり得ることがひどく恐ろしい。

 だが堤井には分かっていた。堤井が楽譜をめくるのを止めれば、一音は演奏を止める。それは彼のピアノを、居場所を奪うことと同義だった。彼に対して自分はもうそれだけの影響力を持ってしまっている。自惚れでもなく、求めれば与えられる位置に、堤井は立っていた。

 堤井が楽譜をめくらなくたって一音はピアノを弾ける。その上で、彼は堤井に選択を委ねたのだ。おれにオルガンを弾いて欲しいのなら、その手でこのピアノを奪ってみろよ、と。

 また一枚、曲が終わりに近付いた。

 彼は堤井がオルガンを選ぶことを期待している。そのために、他でもない堤井に選ばせようとしたのだろう。全く舐められたものだ。堤井の願いはそんなに単純じゃない。

 堤井は最後の楽譜をめくる。彼の瞳が、わずかに見開かれたような気がした。しかしその指は確実に鍵盤を叩き、音は止まらない。その音を聴いていると、諦めと充足感の両方が堤井の心を満たした。

 やがて曲が最後まで辿り着く。彼が鍵盤から指を離すと、もう何も音はしなかった。中々どうして、終わりは静かなものだ。


「それで、決まったの」

 もう答えは分かっているだろうに、彼は敢えて聞いた。堤井は一音の目を見据え、きっぱりと告げる。

「あなたの好きにしてください」

「……なんだよそれ。おれはお前の好きにしてって言ったはずだよ」

 がっかりしたような彼の声に怯む。でも譲る気はない。これは堤井の覚悟だ。

「あなたは俺になんて言って欲しかったんですか? 望む通りの言葉が欲しいなら、人は選んでください。俺以外で」

「は? なんで。おれは堤井に聞いてるのに」

 言ってから彼はしまった、という顔をした。

「違くて。伴奏代わるのは堤井じゃん。なら、堤井の意を汲むのが道理でしょ」

 慌てて言い直すが遅い。彼が堤井に向ける目に、堤井は確信を得てしまった。

 こんなこと気付きたくなかった。いや。本当はずっと気付いていたのだ。必死に見ないふりをしていただけで、その種は大きく育っていた。

「そうですけど、違うでしょう。あなたは俺に背中を押して欲しかったんですよね」

 それは親しい者に対する何気ない甘えだった。あの新川一音が、堤井に背中を押して欲しくて甘えている。冗談じゃない! こんなつもりじゃなかった。

 彼が堤井に求めたのは、大げさに言えば「死ぬのが怖いけど死にたいから崖に突き落としてくれ」みたいなことだ。甘えで自殺ほう助に巻き込まれてしまっては困る。

「分かってたなら押せばよかっただろ。そうしたらお前の好きな、おれのオルガンが帰ってきたよ」

「それって誰のためですか。あの親戚のため? あなたにオルガンを辞めさせたと思ってる部長のため? それとも、俺のため?」

 彼が死ぬのが真に彼自身のためであれば、堤井はその背を死地に突き落とそうと、少しは考えたかもしれない。絶対にしてやらないが、考えはした。でもそうじゃないなら、堤井が迷うことはない。

「俺が背中を押して、あんたが無理をするのは嫌です」

 堤井がそう言うと、一音は泣きそうなような、責めるような、どちらともつかない表情を見せた。

「おれ、オルガン弾かないよ。それでもいいの」

「いいですよ。俺は一音先輩のオルガンが好きだけど、あんた自身だって、結構好きですから」

 嘘ではない。だが、それだけでもない。

 堤井が求めているのは完璧な新川一音であり、一度捨てたものを未練がましく取り戻すような中途半端な人間とは別物だ。〝常に最高〟を自称する彼だけには、その選択に後悔なんてあってはならない。潔いまでの自意識過剰は実力と実態が伴ってこそ認められる。

 だからどれだけ彼のオルガンに焦がれていようが、堤井から彼の背中を押すことなど有り得なかった。

 昔のパイプオルガンは、演奏者とは別に「ふいご職人」という役割があったらしい。鍵盤を押さえるだけでは音は鳴らず、ふいごを踏みパイプに風を送ることで、初めてその音を響かせるのだ。堤井はふいごを踏まない。演奏の合図のベルが鳴っても、無視をする。

 オルガンを辞めたのは間違いだった、なんて彼自身が言ってしまえば、新川一音の一貫性は崩れてしまう。それは失望より遥かに強く、堤井を打ち砕くだろう。堤井の信じた理論上の新川一音を守るために、堤井は彼のオルガンを終わらせたい。

 一音を想う気持ちの裏側にあるのは、そんな押し付けがましい願望だった。

 でもこれは言わなくていいことだ。堤井がこう思っていることが知れたら、一音は間違いなく傷付く。だが言わないでいる限りは、彼は堤井の傍に居てくれる。自分と彼はまだ出会ったばかりだ。この温もりを手放すには、四ヶ月という月日はとてもじゃないが早すぎた。


 コンクールの会場は想像以上に大きいものだった。堤井たち幸浜高校が臨む合唱コンクールは、地区大会を飛ばして県大会から始まる。スポーツなどに比べて参加する部や団体数が少なく、地区と県を分けるまでもないからだ。だが中学、高校、大学一般と、全ての部門が集まると相応の規模になる。この県大会に参加したのは、全部門合わせて二十団体。それがここで一堂に会しているわけだ。

 そう考えると会場の大きさも順当なのだが、やっぱりどうしても気後れしてしまう。堤井もピアノではこういった場に慣れている。しかし合唱部として、となればまた別だった。正直に言って自信がない。初めてピアノのコンクールに出た時もこうだっただろうか。そう考えてみるも、あまり上手く思い出せなかった。

「うわ〜……、めっちゃ人いる。樹原先輩、絶ッ対ちゃんと声出してくださいよ」

「出すわ。しっかし、こんだけ人がいたらかき消されそうだよな」

 緊張した面持ちの田中に小突かれ、樹原が不安げに言った。いつも威勢がいい彼がナーバスだと、なんだかこちらも心配になってくる。

 「人の分だけ音が吸われると思え」、というのは練習時、石爪に散々言われたことだ。この会場は座席が約一三〇〇ある。つまり単純に考えて一三〇〇人分、音が吸われる。本当にたった九人の声で太刀打ちできるのだろうか。

「てかさ〜あたしたちが一番人数少ないんじゃないのこれ」

 並本が誰にともなく問いかけると、正見がさらりと答える。

「確認してみたけど、本当にそうみたいよ」

「まじで言ってる? 無理すぎんでしょ」

 並本は終わったー、と言ってうなだれた。だがその顔は楽しそうでもあった。彼女もコンクールは初めてだろうに、つくづく肝の据わった人だと感じる。

 そこで田中がふいに辺りを見回した。何かを捜すみたいに、きょろきょろと瞳が動く。

「そういえば部長と一音さんは? どこいったんですか」

「石爪くんは部代表で会場の最終確認で、新川くんは伴奏のチェックだって。二人とも、もう会場内に入ってるはずだよ」

 正見の言葉に、田中が心細そうに肩を落とす。堤井にもその気持ちは分かった。あの二人は合唱部の要だ。彼らが居ないとなんとなく部として纏まらないというか、落ち着かないのだ。


 幸浜高校合唱部に割り当てられた楽屋に入ると、石爪が堤井たちを待っていた。

「お、来たか。こっちは会場確認終わったよ」

 石爪がにこやかに言う。流石は場馴れしているといったところだろうか。そわそわとした部員たちと比べ、彼は平然としていた。

 それにしても彼は本当に合唱が好きなのだな、と今更ながらに感心する。この部は石爪が一から作った部だ。そして今なんとかコンクールまで漕ぎ着けた。こんなの、相当愛がないとできることじゃない。一音が持つものとはまた違うが、これもある種才能だろう。そんな石爪を堤井は素直に尊敬していた。

 それだけに、申し訳ない気持ちもあった。

 彼は一音にオルガンを弾かせたがっていたように思う。彼の真意は定かではないが、堤井はそうと思いながら一音のオルガンを選ばなかった。少なからず恨まれても仕方ないことだ。

 しかしあの日一音が合唱部の伴奏をやると決めてから今まで、石爪は堤井に恨みをぶつけてきたりはしなかった。それなのに堤井から謝るというのも変な話である。

 オルガンかピアノか、最終的に選ぶのは一音自身であり、結局は堤井も石爪も部外者に過ぎない。部外者同士で争ったり許したりすることほど無意味なことはないだろう。そう知っているから石爪は堤井を責めないのだろうし、堤井は石爪に謝らない。

 その代わりに堤井ができることは、今日の合唱コンクールに全力で挑むことだけだ。この選択で良かったのだと、彼が思えるように。

「リハまでまだ時間あるし、みんな自由にしてていいよ。俺はちょっと外出てるから、何かあったら呼んでくれ」

 そう言って石爪は楽屋を出ていった。部員たちは早速、鏡前の椅子に座ったりしてリラックスを始めている。そこに一音の姿はない。そのことがどうにも気がかりで、堤井も荷物だけを置き、楽屋を出ることにした。


 廊下に出ると、他の楽屋から様々な声が聴こえてくる。発声練習をしていたり課題曲を歌っていたり、その中でも混声だったり女声のみだったり。実に多種多様な声が混ざりあって響いている。

 芸術には明確な勝ち負けというのは存在しない。それでもこの中から勝者が選ばれるのだから不思議である。ピアノであれば演奏者は一人に限られているため、まだ技量の比較はしやすい。上手い方が認められる、単純な判断基準だ。では合唱の勝敗を決める基準とは、魅力的な合唱とは一体何なのだろう。

 ロビーはコンクールに出場する学生たちで一杯だった。このフロアの外壁はガラス張りになっており、燦々と陽光が降り注いでいる。

 その一面に連なったグラスウォールの前に、一音は立っていた。きらきらとした陽射しが彼の端麗な輪郭を浮かび上がらせる。ぼんやりと外の景色に目を向ける横顔は、声をかけるのが躊躇われるほどに美しかった。

 どうしようかと二の足を踏んでいると、彼の方がこちらに振り向く。

「堤井」

 名前を呼ばれ、彼の立つ窓辺へ歩み寄る。直射日光が肌を刺して熱い。空調のきいた建物内であっても夏の太陽は容赦なかった。

 彼を探してはいたものの、何かを話したかったというわけでもない。ややあって堤井は適当に話題を振った。

「ピアノ、どうでした?」

「音楽室のやつ以外触ったことなかったから、なんか変な感じ。でもピアノってほぼ個体差ないんだね。そりゃそうか」

「オルガンはものによって大分違うんでしたっけ」

「うん。パイプの種類も数もそれぞれだから、毎回即興みたいなもんだよ」

「それは……大変ですね」

 彼が言う通り、パイプオルガンは作った人によって持つパイプの種類と数が違う。

 概ねどれも管楽器を模したパイプが配置されてはいるが、製作者によってどの楽器を模すかは異なる。中には製作者オリジナルのパイプなんかもあるそうだ。そしてその数も百本ぐらいのものから、多ければ一万本を越えるものまで、幅広く存在する。

 つまり二つと同じオルガンはないのだ。

 いくら一つのオルガンで完璧に演奏できても、次に行った場所のオルガンでも同じような演奏ができるとは限らない。常にその場での即興性とセンスが求められる。恐ろしい楽器だ。堤井にはまるで扱える気がしない。

 だがこの点こそ、オルガンが一音の才を際立たせる一番の理由であった。彼が最も秀でている部分はここだ。息をするように音と対話し、どうすれば美しく響かせられるのかを瞬時に見極める力。

 彼にピアノの指南を受けて、堤井はそう気付いた。そしてその力が何より活かせるのがオルガンという楽器なのである。

 彼はまさしく、オルガンをやるために生まれてきた人間だった。

「そんなに大変でもないよ。なにせ、おれとオルガンは一心同体だからね」

 不敵な口調で一音が言う。堤井の心を見透かしたみたいなタイミングである。無意識なのかそうでないのか分からないのが一層心臓に悪い。

 一心同体。まさにそうだ。けれど彼の手はピアノを弾けるし、もっと他のものを掴むことだってできる。一心同体だったものと切り離されても、彼は何食わぬ顔で生きていける。

「あー、そうですか」

「何。なんかおれの扱い雑になった?」

「なってませんよ、むしろあんたを尊重してます」

 むくれる一音を宥める。すると彼は何か見定めるように鋭い目を細めた。ここで目を逸らしたら負けだと思い、堤井は内心倒れそうになりながら見返す。

「尊重、ね。まぁ苦しゅうないかな」

 含みありげに繰り返してから、不遜に笑ってみせた。張り詰めた空気が解ける。そんな彼の表情を見て、堤井はなんとか持ち堪えたのだと知れた。

 今の自分と彼は、非常に微妙なバランスで成り立っている。たった一つの言葉がとどめとなり、作り上げた均衡を決定的に崩してしまってもおかしくない。もっと慎重にならなくては。堤井はそう反省した。

 その時近くに集まっていたどこかの学校の、円陣を組む声が聴こえた。反射的に堤井も彼も声がした方を見やる。

「おれたちも、ああいうのやるべきなの?」

 先程の緊迫が嘘のように間延びした声で一音は尋ねた。

「どうでしょうね。石爪部長ならやるかもですけど」

 首を捻る彼に、堤井も憶測で返す。

 今まで堤井には誰かと何かをする、ということがほとんどなかった。そのせいで、こんな時の振る舞い方を知らない。おそらく一音もそうだろう。突如訪れた普通の青春っぽい気配に戸惑ってしまう。けれど部活ってそういうノリかもしれない。

「あいつわりと熱血だもんね」

 一音が楽しそうに言う。それからふっと真面目な顔になって、彼は続けた。

「おれが言うのもなんだけど、護のこと、気にしながら歌ってやって。今のあいつちょっと危ういから」

「危うい? いつも通りに見えましたけど……もしかして喉の調子悪いとか?」

 だとしたらかなり合唱に支障が出る。怖々として聞くと、一音はそんな堤井を安心させるように首を横に振った。

「いいや、あいつは良い管だしメンテナンスも申し分ないよ。でも人間だから。それだけじゃ歌えないんだよ」

 管って言い方はどうなんだと思いつつ、言わんとすることは分かるので黙っておく。

 つまり身体ではなく心の問題ということだ。それはやはり、一音のオルガンをめぐる堤井の選択のせいだろうか。

「そんなわけだから、テノールは堤井にかかってるよ。せいぜい頑張ることだね」

「無駄にプレッシャーかけないでくださいよ、不安になってきました」

 忠告するだけでなく、余計な一言を付け加える彼を睨む。

 一音に言われなくとも、石爪に何かあれば出来る限りの対応をするつもりだし、合唱で手を抜くつもりもない。ただ一音のすかした笑顔が気に入らなかった。この性格の悪さだけは何とかならないものかと本気で思う。

「自信ないなら代わってやろうか?」

「馬鹿言わないでください。代わるわけないでしょ」

「だろうね。おれ歌ったことないし」

 揶揄うみたいな表情から一転、一音は優しく微笑んだ。

「心配するなよ。合唱の良いところは、一人が潰れてもなんとかなるってとこだから。きっと大丈夫だよ」

 何かを思い出すように遠い目をする一音に、堤井はまだ彼のことを何も知らないのだと改めて感じさせられた。


 リハーサルはつつがなく終わった。一音が危惧していた石爪の歌も、今のところは何も問題ない。残すは本番、それのみである。

 舞台上では、一つ前の学校が合唱を披露している真っ只中だ。堤井たちはそれを舞台袖から聴いていた。

 誰も声を出すことはおろか、音を立てることもしなかった。緊張で指先が冷たくなってくる。無意識に手を温めようと握りしめたが、ピアノを弾くわけでもなし、意味のないことだったと思ってやめた。

 結局円陣は組まなかった。石爪ならやりそう、と言った堤井の予想は外れたということだ。もしくは、一音の言葉通り本調子でないかだ。前者であってくれと願う。彼の歌はこの合唱部の頼みの綱だ。

 客席から拍手が沸き起こる。それから舞台に立っていた学校の生徒達が、一斉に袖にはけてくる。

『――続いては、幸浜高校合唱部です』

 アナウンスがかかり、並んで舞台に上がる。

 一人じゃないことの安心感と一人じゃないことの不安が、一気に堤井を襲う。でも、やるしかない。

 照明の熱さには慣れている。客席から向けられる目にも、審査員の目にもだ。やることは違えど、この感覚はピアノを弾く時のそれと同じだった。だからきっと堤井は上手くやれる。

 指揮者が腕を上げた。まずは課題曲だ。指揮に合わせ、全員で歌い始める。

 課題曲は無伴奏の混声三部曲だ。女声二部と男声一部。そうなると一パートの男声の比重が高くなるため、少し控えめな声で歌う。ピッチもリズムも練習通りだ。順調に歌えていることに堤井は安堵した。

 無伴奏のため、ピアノ担当の一音はまだ舞台上にいない。袖で歌に耳を傾ける彼にはどんな風に聴こえているのだろう。どんな聴衆より、彼に聴かれることが一番緊張する。

 声のみというのはごまかしが効かない。たった九人しかいないから尚更だ。それでも石爪の声を中心に、無事に一曲目を歌い終えた。

 あと一曲は、石爪の選んだ混声四部の自由曲だった。一音が袖から壇上に上がり、ピアノの前にある椅子に座る。

 その瞬間、石爪が息を呑んだ。分かったのは隣に立つ堤井だけだっただろう。そのぐらい小さな異変。まずい、と思った。このままだと彼は歌えない。

 それでも待つことなどなく、前奏が始まる。歌い出しは全パート揃ってだ。しかし、石爪の声が出ることはなかった。かすかに聴こえる息遣いから、歌おうとしているのは伝わる。だが全く音にはならない。

 「合唱の良いところは一人が潰れてもなんとかなるところだ」という一音の言葉を思い出す。今、潰れた石爪をカバーできるのは自分しかいない。彼の分まで堤井が声を出すのだ。

 焦っては駄目だ。自分の音に集中して、的確に発声する。周りの音を切り捨て、指揮を見て伴奏を聴けば間違えずに歌うことはできた。

 けれどこれって合唱なのだろうか? ハーモニーを意識せずに歌うのは、合唱じゃなくただの合成じゃないのか。

 石爪は合唱が上手かった。それは周りの声を聴きながらも、決して周りに呑まれなかったからだ。

 ――和して同ぜず。これが合唱なのだ。

 「矛盾を認めて成立させろ」、堤井のピアノに対して一音はそう言った。そしてそれは、堤井が彼のオルガンの最も魅力的な部分だと感じていた箇所でもあった。ポリフォニックな音の中で、混じらずに調和すること。

 堤井はこれがずっと下手だった。でも彼に指摘されてから少しずつ、全ての音を認識しながら聴き分けられるようになったはずだ。

 それなら、耳を閉ざすわけにはいかない。

 自分だけに集中するのをやめると、音の洪水に呑まれそうになる。けど大丈夫だ。ちゃんと聴けば、おのずと自分が出すべき音を見極められる。

 合唱をやって良かった。ここに来て初めて、堤井はそう思った。石爪が歌えなくなったこんな状況なのに皮肉なものだ。今までの中で一番、堤井は上手く歌えている。彼の声を失ってようやく、何が良い合唱の形なのかに気付くことができた。

 そして曲が終わった。終わった途端、石爪が堤井の方を見た。そこにのる感情は複雑に入り混じっていて、堤井はただ頷いて返した。

 拍手が響き、全員で礼をする。表面上は何も起こらなかったように見えたかもしれない。でも確実に何かが変わってしまった。堤井も、そして石爪も。


 袖に降りて楽屋に戻る道すがら、部員たちは肩の荷が降りたみたいに軽快に声を掛け合い、肩を叩きあっていた。その様子を見るに、石爪の異変は同じ舞台上にいた彼らですら気付いていなかったらしい。

 楽屋に着き、彼らはその中へ入っていく。自分も続こうと扉の縁を掴むと、石爪が小さな声で堤井を引き止めた。堤井が手を離し、支えを失った扉が音を立てて閉まる。

 廊下は静まり返っていた。石爪に連れられ、楽屋から少し離れたロビーまで歩く。人がいなくなったロビーはやけに広く見えた。開放的なグラスウォールも、物寂しさを助長するだけだ。

「何から言えばいいのか……とりあえず、ごめんね。歌えなくて」

「はい」

 謝る石爪を否定するのも違う。そう思って堤井は返事だけをした。

「一音先輩がピアノを弾くの、嫌でしたか」

「嫌っていうか。あいつはここにいるべきじゃないって、やっと分かった」

 堤井が聞くと、石爪は諦念を滲ませながら答える。彼のその絶望したような態度に、堤井は黙っていられなかった。

「あの人は、オルガンを弾くべきだと?今更あなたがそれを言うんですか」

「……ごめん」

 再び彼が謝る。

 謝ってほしいわけじゃなかった。思ったより責めるような響きになったことに、自分でも驚いたぐらいなのだ。それでも一度溢れた悪意は止まらなかった。

「部長が俺に謝ることは、今日歌えなかったこと以外にはないですよ」  

「でも一音がオルガンを辞めたのは、俺のせいだから。俺が合唱部なんかに誘わなかったら、」

「ふざけないでください!」

 こんな謝罪は受け容れたくない。自分のせいだと思うのなら、尚のこと石爪は一音に「ここにいるべきじゃない」などと言ってはならないだろう。だって、彼がそんなことを言ってしまったら。

「だったら、何のために一音先輩は合唱部に入ったんですか。あの人は合唱部のことが好きだった。ここが居場所だったんですよ。なのにあなたがそれを否定したら、本当に終わりでしょう!」

 一音の最後の居場所であろう合唱部。それを与えておいて、やっぱり間違いでした、なんて許されない。身を切る思いでその居場所を認めようとした堤井が馬鹿みたいじゃないか。

 この部の実力と一音の才能は釣り合っていない。それを分かった上で、一音をここに迎え入れた石爪だけは、堂々としていて欲しかった。そうじゃないと、誰も報われないからだ。

「知らなかったんだよ! あんな凄いオルガンを弾くなんて。あいつは俺の前で、ただのピアノが弾ける同級生だった」

 石爪が感情を露にして叫ぶ。

 後悔にまみれたその悲痛さには、同情するところもあった。堤井も石爪も、同じように新川一音のオルガンに取り憑かれているのだから当然だ。同じ地獄にいて、だからこそ手を取り合えない。

 堤井が一音と出会った時にはもう彼は終わっていた。けれど石爪は、直接的ではないにしろ彼のオルガンを手ずから奪ったも同然だった。その後悔は計り知れないものだろう。

 だが、知ったことか。

 知らなかったで済めば、誰も苦しんでいないのだ。石爪には少なくとも選択肢があった。対して堤井は、彼がオルガンを辞める瞬間に立ち会うことすらできなかった。

 もし石爪より先に自分が彼と出会えていたら、どんなに良かったか! けれど過去に遡ることは、どうしたって不可能だ。

「今ならあいつはまだ戻れる。だからもうこんなことに付き合わせるのは、やめにしないと」

「本気で戻れるって、そう思ってるんですか」

 さすがに虫が良すぎる話だ。自分で奪っておいて、よくそんな期待が持てるなと思う。

 堤井は恨みとほんの少しの優越感に似たものを織り交ぜ、彼に向かって言う。

「もう戻りませんよ。俺があの人のオルガンを選ばなかったので」

「それこそなんでだよ。堤井くんは一音のオルガンが好きなんだろ」

 ほとんど縋るような声だった。

 堤井が一音のオルガンを選べば、かつて天才であった彼は復活しただろう。そうすれば石爪は罪悪感から解放される。そのために彼は堤井の、一音のオルガンに焦がれる気持ちを利用しようとしたのだ。

 どいつもこいつも、堤井の欲望の汚さを甘く見ている。そんな風に利用できるほど堤井の欲望が綺麗だったなら、こんな葛藤は生まれていない。

「だからです。好きだから、俺はあの人に死んでいて欲しい」

「なんだよ、それ。意味わかんないよ」

 石爪は、心底気味が悪そうに堤井を見た。

 初めて人間の醜さに触れたみたいな反応だ。それもそのはずである。堤井だって、この感情を自覚した時はあまりの醜悪さに自己嫌悪に陥った。なんなら今でも、嫌悪し続けている。

「分からなくて結構です。良いでしょう別に、殺す権利なんかどうせ俺にはありません。あの人がオルガンを辞めたのはあなたのせいなんでしょ?俺は辞めたまま、死んだままでいて欲しいだけです。実際に殺したあなたよりよっぽどマシだ」

 そう、堤井は一度死んだものを蘇らせたくないだけだ。禁忌だからというより、美しくないから。自然の摂理に逆らって得たものなど、腐り果てているに決まっている。蘇らせられた側の尊厳なんかは正直どうでもいい。堤井がその腐敗した姿を見たくないのだ。新川一音がゾンビになるとこなんか、見たいわけがないだろう。

 彼は堤井の神だった。そんな紛い物を崇めるぐらいなら、墓が空になってしまう前に、骨ひとつ残らないよう燃やし尽くしてやりたい。これが堤井の信仰だ。

「違う、殺すつもりなんかなかった」

「そうですか。殺すつもりだった方が、まだ許せましたよ」

 よりによって最後に言うことがこれか。

 堤井は石爪のことを尊敬していたし、感謝もしていた。好きを貫く姿が眩しかったし、彼のおかげでポリフォニーの本質に触れられた。最高の部長であり先輩だった。

 けれどこんなことを言われたら、堤井は彼を見限る他なくなってしまう。殺すつもりはなかった、なんて殺人犯のセリフだ。

 どうしてこうも、堤井は失望してばかりなのだろう。兄も石爪も、一音でさえも、堤井の憧れのままではいてくれない。

 窓から見える空は、概ね快晴だ。でも堤井は一点の曇りすら許せなかった。一つも雲のない空なんて、多分この世にはないのに。

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