幸せは一杯のコーヒーとともに

sayaka

春はホットココアが美味しい季節

雨が降ってきた。

「傘、持っていないのに」

わたしは空から降り注ぐ冷たい水滴を避けるようにして、帰路を足早に歩いていく。

走り出すほどの気力は残っていない。


今日は朝から散々だった。

どうでもいいことから発展して彼氏と大喧嘩するし、仕事ではあり得ない失敗をして上司にこっぴどく叱られてしまう。

それをニヤニヤと見ていた同僚に心の中で呪いをかけておいた。

極めつけは、共同冷蔵庫にて大事にしまっておいたプリンが賞味期限切れのため処分されていたこと。

これからは大好物はすぐに食べるようにしよう。


そんなことを考えているとますます雨足が強くなってくる。

どこかで雨宿りできたら、淡い瞬きのようなものがふと視界に入る。

よく見るとお店の看板のようだった。

(光っている)

電灯?

チカチカと点灯するそれに呼び誘われるかのように、近づいていく。

看板には小さなマグカップの絵が描いてある。どうやら喫茶店のようだった。

明かりがついているということは営業中であることを期待して、扉に手をかける。

意外と重たい。

力を込めてドアを押すと、カランカランとベルの音がして、店内に目をやるとそこにはーー

まるで異世界を訪れたかのような明るい雰囲気に包まれている。

わたしは一瞬でその世界に飲み込まれてしまったようで、頭がくらくらしてきた。

「いらっしゃいませ」

奥から声が聞こえる。

目を向けると、店主らしき人が柔和な微笑みを浮かべている。

なんだかとてもまぶしい。

これがマイナスイオン効果なのだろうか。

「こ、こんにちは……」

気後れして声が小さくなってしまう。

こんばんはの方がよかっただろうか、口にしてからすぐに後悔した。

「はい、こんにちは。お好きなお席にどうぞ」

同じ言葉で返してくれる。

この人、すごくいい人なのかもしれない。わたしは店内を見回して、すみっこのソファ席を選んだ。

「ほう……」

ふかふかしていて気持ちがいい。思わずため息が口からもれてしまう。

「ふふ。ごゆっくりしていってくださいね」

メニューとおしぼりとお水の入ったグラスがテーブルに置かれる。

なんだかとても癒されそうな微笑みを浮かべている。

「素敵ですね」

「あらまあ」

どうもありがとうございます、とご丁寧に言われて我に返る。

しまった、店主を口説いている場合ではない。

わたしはその場をごまかすように大げさな身振りでメニューをチェックした。

「わあーどれも美味しそう……」

口から出た言葉とは裏腹に、知っている単語がひとつもなかった。

これが異世界のドリンクなのかもしれない。

血がのぼった顔がだんだんと青ざめていくのが自分でも分かる。

「あの」

「はい」

またニッコリされてしまう。うう、笑顔がまぶしい。

「お姉さんのオススメはどれですか?」

「全部です」

「そ、そうですか……」

退路を断たれてしまったかのような気分だ。

「実はメニューを見てもよく分からなくて」

素直に降参することにした。





「わぁ」

思わず声が出た。

ふわっと甘い匂いが立ち込める。

あたたかい飲み物にやわらかなホイップクリームがトッピングされている。

淡い色合いのカップを手に取ると、じんわりと温度が伝わってくる。

ひとくち飲むと、冷たいクリームとあたたかい液体が口の中で一緒になってとろける。

「美味しい……」

ホットココアの味がした。

コーヒーがよく分からないと伝えたから気を使ってくれたのだろうか。

顔を上げると、店主の人と目が合う。

そのやさしそうな微笑みにつられて口角が上がる。

またこの店に来よう、そして次はコーヒーを注文しよう。

きっと素敵な味わいが楽しめるだろう。

わたしはそんなふうに心がときめくのを感じていた。




< 終わり >

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