第8話 諸事情

二〇一三年。そこにはあるのは至って不偏的な家庭だった。

春夏秋冬の日々をのんびりと暮らして、家庭のなかでは何の事件も無い平穏を絵に描いたような生活。

それが突如として崩壊した。

伊藤三等陸士は、家族旅行中で箱根温泉のある富士へと車で向かっていた時だった。


「あなた、ようやっと長期休暇が取れて良かったわ。麗奈の中学受験の合格祝いですもの。やっぱり家族全員で行かないと」


助手席で妻がそう言った。伊藤は運転しながら、ウィンドウミラーに映る娘の麗奈の姿を見た。

彼女はずっとスマホに夢中だが、きっと家族旅行を楽しんでいるに違いない。そう伊藤は思っていた。

しかし、娘から出た言葉は意外なものだった。


「どうせ、中学受験だなんて意味がなかったんだし……わざわざ旅行なんてしなくてもいいのに」


「どうしてそんなことを言うの?」妻は一度夫の顔を見やってから、そう言った。


「TI法案、可決されたんでしょ。じゃあ私が来年、行く場所は学校じゃなくて駐屯地だよ。可愛い制服じゃなくて、血にまみれても変わらないような野戦服だよ。それのどこが良いの?」


思春期の、娘らしい言葉だと思った。


確かに、自分に置き換えてみれば腹が立つ気持ちも分かる。


伊藤は偏差値七十以上の中学、高校と進学し東京大学卒業後、防衛大学校に入校した。そこで厳しい科目と訓練を耐え抜き、現在、自衛官を指導する立場にいる。


それ以前に国防を担うものというのは、志が必要だ。そんなものが無く、打算的に入隊したものはすぐにつぶれる。そんな生半可な世界じゃないのだ。


だからこそ、肇内閣の強硬とも取れる法案可決に素直に頷けないのだ。


与野党から反発があり、肇内閣は玉砕した。それも”筋書き”通りのように。

無論、全てが全て、徴兵制度が今件に違憲するとは限らない。いつだって”解釈”の違いはあるものだ。


それが集団的自衛権の発令、軍務を担う兵役不足により二十一歳から二十六歳までの青年が徴兵をされた前例が、二〇一一年にあったのだ。


「貧困徴兵」それがキーパーソンだ。


当時の韓国の竹島の領地を盗んだ国際法無視による暴挙。当時の総理は「抗議する」の常套句を言うだけで、いつも通り傍観するつもりだったが、定本伸介、三十八歳による韓国からの三重県へ発射した弾頭ミサイルによって、貧弱となったなった国防の間を縫って、海外テロが日本へ勃発。集団的自衛権を発令せざるを得なかった。


三重県に向いた弾頭ミサイルは北東部に着弾後、猛烈な爆発を起こした。一つの救いと言えば、核が搭載されていなかったことだろう。

それに、徴兵された若き兵隊。実戦経験というものを経験してこなかった青い者たち。


その者達が、どんどん掃き溜めのように屍が山成になっていって、人口が減少した。



そしてそのテロリストたちは場所を移しての本土の南西部、名古屋にて一斉蜂起。テロリストの名は「ファントム」と呼ばれた。

ファントムのリーダーは、韓国で弾頭ミサイルを発出した、定本であった。


その後、二年間の内乱によって、定本は射殺。ファントムも解体されたはず、だった。


だが、ファントムの新しいリーダーは東警察庁長官にキックバックをして、内部に潜ることを条件に一斉摘発を免れた。

そんな情報が、士官である伊藤にまで、流れているのだから、情報管制というものがいかにあてにならないものか、察せられる。


「どうせ、死ぬんだし。こんなの、慰安旅行でしょ」


娘の自嘲が混じった言葉に、妻は声を張り上げた。


「何を言ってるの! ふざけるのもいい加減にしなさい。お父さんがせっかく忙しいのに休みをとってくれたのよ。あなたのために」


「そんなの、頼んでないし」


伊藤は溜息をつく。車道で車は峠を上っていく。

中古のミニバンゆえか、馬力が低くエンジンペダルをべた踏みしないと回転数が上がらない。それがもどかしい。腹が立ち、舌打ちする。


カーステレオのラジオからは、FM特有の叙述的な名の知らないボーカルの曲がかかっている。それがこの車内の凍り付いた空気を和やかにする。でも、それは余計なことである。娘を叱咤するには。だから伊藤はラジオを切った。


しかし、躊躇いもある。娘が激戦地に出向くような補給兵士になるのを、普通親は喜ばないものだ。中学に通って、成績で悩み、親に反発したり、高校に入って彼氏をつくったり、それを親に紹介したり、大学受験で苦労したり、就活難に喘ぎ、それでも就職出来て、でも社会という難破船に耐え忍ぶ日常を過ごし、やがて寿退社し、子供を産んで初めて親の偉大さを思い知る。そんな不偏的な人生の有り体が、TIに入隊し任務で殉職すれば、全てがたらればになる。


その実態が、伊藤の自衛官という職種がそれをリアリティにさせうる。

なら、伊藤が娘にかける言葉の正解は何だろう。「大丈夫」という希望的観測か。「可愛そうに」という傍観的同情か。そのどれもは、やはり皮肉めいていて、伊藤はただ口をつぐむしかなかった。

それだけが、正解というわけでもないだろうに。



伊藤は温泉旅館の外の喫煙所で、煙草を吸っていた。ベンチに座り、煙草の外箱を握っている。

喫煙所には伊藤一人しかおらず、孤独感と解放感が綯交ぜになった気分だ。

妻と娘は今ごろ温泉に浸っているころだろう。自分はというと、そんな気分にはなれなかった。

紫煙で汚れた喫煙ボックスから全貌出来る、薄暗い空は、嘆息をつくほどに気持ちが悪かった。

この空に名前はあるだろうか。この汚いゴミのような空に。

舌打ちして、煙草を捨てる。娘との最後の旅行ともなる日に、自分は何をしているんだろうか。


これだったら、駐屯地でデスクワークをしていたほうがよかった。


そんな時だった。銃声が轟いたのは。

喫煙ボックスから慌てて出て、温泉旅館へと入る。下駄箱が右手にあって左手に受付がある。床は一段上から地続きになっている。


浴衣姿の客たちが、「何だろう」とうわさ話をしながら、音のした方向に向かっている。


俺は、靴を脱いで床を駆け出した。部屋の戸は襖になっている。妻と娘が借りている部屋は現在いる南から西方面の門真から三つ目だ。


そこに着くと数名の客と、旅館の女将がいた。女将は俺の顔を見ると「この部屋から銃声が聞こえまして……」と説明しだした。


「分かりました。警察に通報しておいて下さい」


「はい」


それからその戸を開けると、妻と娘が出血して倒れていた。部屋からは嗅ぎなれた硝煙の匂いが漂っていた。窓が開いていて、でもその香りがいまだ充満しているということは考えられる可能性として、大型拳銃の使用、あるいは、発砲後まだ数分しか時間がたっていない。そして、出血痕でなぞるように「Fuck TI」と書かれている。これはTIへの侮辱という陳腐なものではない。妻と娘を殺した人物は前科者ではない。つまるところ、警察庁のデータベースに載っていない人物だということを示唆しているのだ。


ゆっくりと腹の底が煮えたぎる。殺せ。命の限り。


テロ組織を赦すな。テロ組織に甘んじたこの国を赦すな。


涙が溢れ出てくる。ぬぐって、そして笑いが込み上げてくる。


伊藤は、国防を担う国家公務員だ。首相に忠誠を誓い、国のために働く。その報いがこれか。ふざけるのもいい加減にしろ。


すると、娘の頭部の近くに拳銃が転がっていた。よく見ると中国経由で安く手に入るベレッタM911だった。伊藤は鼻をすすりながら、その拳銃の口径を口に突っ込んだ。かるくえづきながらも引き金を引いた。


弾丸は入っていなかった。


神は、伊藤に消失を与えても自滅は赦さなかった、というわけだ。

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