ささくれる季節は恋模様
椎塚雫
ささくれる季節は恋模様
年明け早々、体育の授業は10キロマラソンだった。何故かうちの学校の伝統で真冬にマラソン大会があり、しばらく授業が持久走しかなくなるのでインドアにとっては地獄のような季節だった。この時ばかりは女子が6キロで済むのが非常に羨ましいと思ってしまう。
授業が終わる頃には足は筋肉痛で痛くなり、水道水が美味しく感じるぐらいには喉もカラカラだった。ジャージで走っていたせいか、汗で張り付いた体操着は時折吹いて来る風で底冷えするぐらい寒く、急いで制服に着替えようと教室で着替えたのだが。
「いたっ!」
左の人差し指が刃物で切られたようなズキリとした痛みが走り、思わず声が出る。そういえば今朝ささくれが出来ていた事をすっかり忘れていた。ジャージを脱ぐ際に袖の中で思いっきりささくれを引っかけて根本から千切れてしまったようだ。
「うわ、やっちまった」
爪の横に出来た傷から血が溢れ、あっという間に手の平にまで垂れてくる。早くティッシュで抑えないと思った矢先に女子生徒に声をかけられた。
「笹原くん、血出てる!」
焦った表情でこちらに駆け寄るのは
童顔で二つのおさげをした女子生徒。出席番号が一番で全校集会なら身長順で常に先頭立っている子。おそらく高校の制服を着ていなかったら小学生と間違われるぐらいには背が小さかった。
「はいティッシュ、抑えてて」
「ありがとう」
相澤さんは保健委員ということもあり、人一倍誰かの怪我には敏感だ。いつもティッシュと絆創膏を持ち歩いているらしく、家庭科の調理実習でも包丁で指を切ってしまったクラスメイトにもすぐに対処していた。
「にしても痛い……」
さっきから抑えているのだがティッシュは血を吸い続けて赤く染まっていく。自分で思う以上に傷が深いようだ。
「笹原くん、血が止まらないみたいだし保健室行こ」
それを見かねた相澤さんにぐいぐいと右腕を引っ張られる。俺は身長170cmあるのだが頭1個分ぐらいの身長差がある。なので隣に相澤さんが来ると自然と上目遣いで見つめてきて正直ちょっと可愛い。
「これささくれだし大袈裟だって。もう少ししたら止まると思う」
だがしかし、周囲のクラスメイトから声が飛んでくる。
「この前バスケで鼻血出したの誰だっけ?」「プリントの端で指切った時も大騒ぎだったよね」「保健室行っとけ行っとけ」「相澤さんに心配されてぇ~」「お前の頭が心配だ」「また笹原、血出てウケる」「それな」
去年の体育のバスケで顔面にボールをぶつけられた時も鼻血が止まらなくなり、相澤さんにお世話になった時を思い出す。いや今回は絆創膏あれば止血出来るから。あとウケないし好きで出血してる訳じゃないからね?
「相澤さん、絆創膏貰ってもいいかな?」
「……ちょうど切らしちゃってるみたい」
一瞬相澤さんの目が泳いだような気がしたのは気のせいだろうか。
「やっぱり保健室に行こ?」
「分かった」
外野の声もうるさいし行くしかないだろう。
あと相澤さん、制服の裾を掴まれながら歩くのちょっと恥ずかしいのでやめて頂きたい。
「失礼します」
体育が4限目だったせいか、昼休みの保健室には先生も生徒もいなかった。というか養護教諭もいないのに施錠しないでいいのかこれ。
「笹原くんはそこに座ってて、絆創膏探すから」
診察室によくありそうな丸型椅子に座って待っていると相澤さんはすぐに制服の内側ポケットから絆創膏を取り出す。って待てい!
「やっぱり絆創膏持ってるんかーい!」
思わず席からずり落ちそうになるがツッコミしつつ堪える。
「てへぺろ?」
相澤さんは片目をウインクしながら舌を出す仕草をして誤魔化していた。同年代の女子にやられるとイラッとする仕草だが童顔の相澤さんだとあざと可愛いになるから不思議。男はちょろいよ。
「いや流石にそのネタちょっと古いよ!でも可愛いから許す!」
「あはは、やっぱり笹原くんは反応面白いなぁ」
おかしそうに腹を抱えて笑う相澤さん。
それから改めてささくれがあった傷を新品のティッシュで強く抑えて圧迫止血をし、数分後相澤さんに絆創膏を貼ってもらった。
「ささくれはビタミン不足で出来やすいの。オレンジジュースでもいいから飲んだ方がいいよ」
「そうするよ。昼休みなのに時間取っちゃって悪いな」
「ううん気にしないで。保健委員として当然の事をしたまでだよ。笹原くんは私が目を離すとすぐ怪我しちゃうんだから」
鼻を鳴らし、誇らしげに胸を張る相澤さん。まぁ他の女子と比べて体型はスレンダーで凹凸が少ないけれども。
「今、失礼な事考えてなかった?」
「なっ何も考えてないよ」
思考を読むな思考を。
「ふーん目線が胸の所に行ってたけど」
「すみませんでした」
「素直でよろしい」
ぺち。デコピンをされたが全然痛くない。女性は男性の視線に敏感というのは本当らしい。
ちなみに相澤さんとは去年の体育でも鼻血を出して、保健室まで付き添いで来てもらってから割と話す仲だった。というより相澤さんはウチの高校で一番背が低い女子なのである意味目立つ。
例えば自販機の前で一番の上の棚を押したくて必死に背伸びをしている姿をよく見かけるし、購買部の前で人混みに入れず困っていたのを見かねて代わりに惣菜パンを買ってあげたこともある。
「……相澤さんも見ていて放っておけない存在だな」
「えっ」
「あっ」
思わず声に出てしまっていた。保健室の外からは階段を駆け上る生徒の声が聞こえる。
「笹原くんそれってどういう意味……?」
何故か相澤さんの顔がちょっと赤いので誤解していそうだ。すぐに弁解しておこう。
「いつも自販機で困ってたり、教室で転びそうになったりしているから」
「はぁ……そっちなんだ」
相澤さんは落胆したように溜め息をつかれる。そっちとはどういうことだろう。理由も分からず俺は首を傾げたが、彼女は険しい顔をしたまま何も言わなかった。
そろそろ教室に戻ろうと椅子から立ち上がるとくいくいと袖を引っ張られる感覚がした。
「えっと、相澤さん?」
「んー」
唸りながら手を触ってくる。細くて白い指が手の甲をなぞる度にこそばゆくて仕方ない。
「笹原くんの手すごく乾燥してるから、ハンドクリーム塗ってあげる」
そう言いながらブレザーのポケットからミニサイズのハンドクリームを取り出す。相澤さんは相変わらず用意が良い。
「すぐ終わるから」
「ああ分かった」
どうやら拒否権はないようだ。プリントの端で指切って絆創膏を貰ったこともあるからちょっと強く言えない所もあった。椅子に座り直し、相澤さんのハンドクリームを受け取ろうとすると何故か背中に隠される。
何回か取ろうとして躱される。そしてどちらがハンドクリームを塗るか、謎の攻防を椅子の上で繰り広げる。というか俺は一体昼休みに何をしているんだろうか……。根負けしたように両手を上げた。
「えっと自分で塗りたいんだけど」
「むぅ」
相澤さんは頬を膨らせたまま不満げな顔になる。どうやら塗ってあげないと気がすまないようだ。変な所で意地を張るなあと思いつつ両手を前に差し出す。
「わ、分かったから任せるよ」
「うん!」
一転して相澤さんは笑顔に変わり、早速左の手の甲にハンドクリームを少量出して貰い、伸ばすように広げていく。丁寧に塗ってくれる姿はとても健気で同時にとてもくすぐったい。女性らしい華奢で白い手指が円を描くように動く度に背中がぞくぞくして落ち着かない。
「男の子の手ってやっぱり大きいね」
手にハンドクリームを塗ってくれる経験なんて母親以外にいないし、乾燥肌なんて気にした事もなかった。もちろん異性に手を触れられる事自体慣れていないせいだけど。
相澤さんの手は柔らかくてとにかくすべすべで、少しひんやりして気持ちよかった。それを直接言うのはなんだか変態みたいだったので口にはしなかった。
「さっきから笹原くん体ぴくぴくしているけどくすぐったいのかな?」
「そりゃ女の子に触ってもらうなんて初めてだからな……」
「そっかそっか」
ご機嫌そうに頷く相澤さん。左手から右手に移ってもくすぐったさは尚変わらず。必死に声を漏らさないように耐えていると相澤さんはわざと指を絡めてきたりして別の意味でドキドキしてしまう。
「はぁ……はぁ……」
「はい、お疲れ様。笹原くんは敏感なんだねぇ」
それから相澤さんは顔を近づけてくる。
大きな瞳と長いまつげと艶のある唇。柔らかそうな頬。あどけない彼女の顔は非常に愛嬌があり、至近距離で見られるとドキドキして心臓に悪い。何より椅子に座っているからいつもよりも近くて恥ずかしい。思わず顔を逸らそうとすると両手で顔を固定されてしまう。
「良く見たら唇も割れちゃってるよ……って顔赤いし、熱もあるの?」
額合わせで体温まで測ろうとするので余計に顔が熱くなる。視界一杯に相澤亜香里しか映らなくなる。瞳の中には呆けた表情で固まっている自分が反射しているのが見えた。こういう時に限って彼女は保健委員として真剣な眼差しで見つめてくるものだから息を呑んでしまう。
あと数センチでキスしかねない距離間。
ドクンドクンドクンドクン――。
心臓の音がやかましいぐらい体の中に早鐘を鳴らしている。
「顔近いって」
「あ、ごめん」
ややあって相澤さんも自分のしている事に気づいたのだろう、若干頬を赤くして俯く。
カチカチと保健室の壁掛け時計の刻む音が気まずい空気を表すようにやたら聞こえてくる。
カタ。長針がまた一分進んだ音が鳴った。
「……熱はないみたいだね」
「あ、ああ」
結局俺たちは何事もなかった事を選択した。まぁ誰にも見られていないしね。
「これ使って」
「いいのか?」
手渡されたのはどこかで見たことある緑色のリップクリーム。スーパーやドラッグストアで大量に売られている安物のメンソレータムだ。
「うん、あげるからあとで代わりに新品のメンソレータムを買って返してくれればいいよ」
「分かった。何から何までありがとう相澤さん」
「いえいえ~」
ふと時計に目を向けるともう12時半が過ぎている。そろそろ教室に戻らないと不審に思われるし、お腹も実はさっきから空いているので早くパンでも食べたい。
さっさとメンソレータムのキャップを外し、すばやく唇に塗っていく。
「……」
相澤さんが何故か熱っぽい視線で見つめてくる。
あっ。しまった。そういえば新品のリップクリーム買ってと言った時点で気づくべきだった。
そんな表情をした頃には相澤さんは妙に艶っぽい表情で耳元で囁いてくる。
「……間接キス、だね」
「なっ……」
思わず右手で持ってたリップクリームを落としそうになる。
ただの安物のメンソレータムだったはずなのに。急にいけない事をしてしまったような罪悪感と女の子の唇が触れたものを味わってしまったという背徳感が混ざって顔がまた熱くなってしまう。
「……やっと私のこと、意識してくれましたか?」
畳み掛けてくるように優しく声をかけてくる相澤さん。でもいつもよりずっと色っぽく見えてしまって顔を直視出来ない。ただのクラスメイトだと、思っていたのに、小学生にしか見えなかったのに、急に異性として意識してしまう。
「あ、相澤さん……」
彼女はもう止まらなかった。耳元に顔を近づけてきて。
「私、笹原くんのこと好きだよ」
「……!!」
頭が真っ白になる。鼓膜に入ってきた言葉はずっと脳内で反芻される。
好きだよ。
ライクかラブかだなんてこの雰囲気で前者な訳がない。
初めて異性に好意を言われて混乱してしまう。急に告白するなんて……!
「あ、え、えっと……」
「返事は今すぐじゃなくていいから。考えてくれると嬉しいな。じゃあ私教室に戻るね」
相澤さんは早口でそう言うと逃げ出すように保健室から出て行ってしまう。
「ちょ、ちょっと!」
伸ばしかけた腕は何も掴むことは出来ず、宙ぶらりんのまま固まる。
そして去り際に見えた彼女の横顔は耳まで赤かった。
「まじか……相澤さんが俺のこと……」
今後どんな顔して会えばいいのやら。
友達のフリのままなかったことにするには相澤さんの好意を弄ぶようでずるいし、男としても情けなかった。どちらにせよリップクリームは買って返さないといけない訳だし。
この後悶々とした気持ちのまま教室に戻ってお昼を食べて、午後の授業も受けたが何一つ頭に入ってこないし、気がつけば放課後になっていた。
辺りを見れば皆帰っているようで相澤さんもいなかった。
「……ねえ、さっきからぼうっとしているけど大丈夫?」
「うわっ」
背後から声をかけられ振り返ると幼馴染こと
「驚きすぎ」
昔はショートヘアだった香織は中学から髪を伸ばすようになり、今ではセミロングヘアの長さになっていた。くせっ毛が目立つもののいつの間にかだいぶ大人びた見た目になっていて別人のようだった。
「か、香織か」
中学から別クラスになり、通学や休み時間に一緒にいるとカップル扱いされるのが恥ずかしくてお互い会うこともやめて自然と他人のフリをして生きてきた。そして高校も自転車で通えるほど近所だからという理由で同じ場所を受けていて、高1で再び同じクラスになったのはもはや腐れ縁だった。
入学してから10ヶ月も話した事のない彼女が急に話しかけてきた。
友達と話す時と違って少し低めの声になる所は彼女が猫を被っていない証拠だ。
「ねえあんたって、リップクリームなんて塗るタイプだったっけ?」
「相澤さんに貰ったんだ」
「ふ~ん……」
含みのありそうな反応だった。
嘘をついても仕方ないし、隠す理由もない。
香織は癖の付いた毛先を指に絡ませながら、チラチラと視線をよこしてくる。
「な、なんだよ」
「……言ってくれれば、貸してあげるのに」
そっぽを向きながら何か小声で言う香織。しかも後半になるほど小さくなる声に上手く聞き取れなかった。
「今なんて言ったんだ?」
「別に。……こほん、これあげるし」
「ハンドクリーム?」
「じゃ、私もう帰るから」
「あ、おい」
逃げるようにショルダーバッグを背負った香織は走って教室から出ていく。
「訳が分からん……」
相澤さんが塗ってくれたものと違って、香織のハンドクリームは柑橘系の匂いがするものらしい。そういえばあいつはみかんが好きだったっけとどうでもいい事を思い出しつつ。
この日を境に何故か話しかけてくるささくれだった幼馴染、そして相澤さんにハンドクリームの匂いが違うと責められることになるのはまた別の話。
ささくれる季節は恋模様 椎塚雫 @Rosenburg
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