その2
「朽葉」
時計の針も進んで夜二十時。黒パーカーで薄暗い世界に溶け込んだ男に声を投げかける。大きな片手で包んだスマホを叩く指を止めた彼は此方を一瞥した後に電源を落として、その四角く薄い機械をポケットに押し込んだ。
「乙。仕事、時間かかったのな」
「うん、いきなり誘ったのに遅くなってごめんね、中入ろうか」
壁に設置された窓から光が溢れ出すファミレス。外に設置されていたベンチから立ち上がった男は俺の横をするりとすり抜けて一歩先を進む。一人で中にいると肩身が狭く感じてしまうのだろう。何せ此奴は目立つのを極度に嫌うくせに、スレンダーでしなやかな高身長。ただでさえスタイルが良く視線を集めるというのに、その上よく食べるのだから。
申し訳ない気持ちに苛まれながら後に続き、案内された席に腰を落ち着ける。
早速と注文を終え、ドリンクバーも机の上に置かれた入店から数分後のこと。彼はクリーム色の髪を照明で輝かせながら俺の方へ目を向けて口を開く。
「何があった?」
詰まった喉を潤す為にストローを通してオレンジジュースを味わう。
「久しぶりに呼び出して。何か言いたいことがあったんじゃないの?」
お見通しだ。滅多に人と関わりたがらない俺が此奴を呼ぶときなんて大抵何か聞きたいことや話したいことがある時だけ。それはまた、こいつも同じことだが。
「…まあね。今日はテレビつけた?」
「つけたよ。ゲームしてたけど」
しかしまぁ、これは想像通りの返答。此奴は度の超えたゲーマーでニュースを見ることなんて滅多にない。知っていたさ、今朝見た夢の様な話をいきなり語り出そうと目の前の男には伝わらない。僅かな期待は想像通り、それは呆気なくボロボロと崩れ落ちた。数分間。切り出し方が見つからず言葉を濁す俺の方をじっと見ていた朽葉は少しコーヒーを飲んだ後、自身の前髪を弄ったあと俺の前髪を指差して言った。
「前髪そろそろ切ったら良いのに。見難そうでゲームも誘うに誘えないんだけど」
「…あー、まぁ、いずれ」
目にかかった前髪を己の手で梳かしながら当たり障りのない返答をして、丁度到着したカレーリゾットへと視線を移した。
夕食も終えた帰り道。見慣れた帰路を進みながら溜息を吐く。
着慣れた草臥れているスーツも履き慣れた元は硬かった靴も何方も仕事用だ。
何だかなと思う毎日が続く。味の濃いカレーリゾットさえ息が詰まったこの世界じゃ味がしない。
いつからだったか、仕事以外で誰かと関わるのが億劫になってしまったのは。いつしか朽葉とも1ヶ月に一度、顔を合わせるかどうか、と言った有様だ。同時に、会って話そうと息がつまるようにもなった。
「…」
彼は何も悪くないのに。気の利いたことも言えない上に空気を悪くしてしまう俺を相手にして彼奴もいつも困ってしまっているだろう。大きな期待を背負わされて彼だって不快に思っただろう。別れ際、彼はいつも通り顔色変えることなく片手を挙げた。顔を顰めて舌打ちの一つでもしてくれて良かったのに。不満だと色々吐き出して叱責してくれたら彼に甘えて期待することもできなくなるだろうに。などと、この思考すら甘えているのだろうけど。
再度溜息を吐きながらふらふらとした足取りで家へ続く道を歩む。
嗚呼、あわよくば明日のニュースで草臥れた会社員が地球外生命体にさらわれたとでも報道されたから楽なのに。そうして、頑張って生きている地球の人に同情してもらって、他の星で息すらできず散ることが出来たら良いのに。
夢のような妄想に欠伸を一つ。開くこともままならなくなった目を凝らし、少し遠くの右側に設置された自動販売機を見つける。頭の中に浮かび上がるのは黒くて苦い天敵。藁にもすがる思いだ。またも変な期待をしながら右足を一歩前へ繰り出して、不意にぐらりと視界が揺らぐ。鈍った脳が漸く警告音を掻き鳴らす。
ずっと続いていたものより一層重くなった疲労が一気に押し寄せる。そう言えば此処最近、嫌に多忙だった。先週の土曜日も日曜日も先輩に誘われて断りきれずに出かけていた気がする。疲労。今日は何曜日だったか。
自動販売機に手を付いて、倒れそうな身体を支える。呼吸をすることにすら疲弊を覚えた。冷や汗が冷たい夜風を拾う。感覚が鋭くになる。遠くから近づいてくる足音が、わんわんと脳内で反響した。
「………」
足音は、やがて近場で止まり、次いで何かの呟きがした。もしかすると、自動販売機に用があったのかもしれない。ここに居ては邪魔だろう。この状態でも矢鱈と冷静な脳が分析して身体を動かそうと筋肉に指示を出す。
自動販売機から手を離せば、支えを失った身体はその場でガラガラと崩れていく。膝が砕けたように、足の糸が切れたようにもう立っていられなかった。
砂を噛む靴の音がゆっくりと、困惑を示すような覚束ない足取りを示しながら近づく。滲んだ細い視界の先、フラフラとした影が此方を見下ろしたのが見えた。
「…おれは」
カラカラとした声が言う。
「…若葉、奇矯咲若葉」
俺に伝えるように、或いは自身が確認するようにその人は繰り返した。
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