第2節『リセーナ・ハルトマンの献身』

「リセーナ、またあの男のことを考えていたの?」

 姉の叱責が聞こえる。

「あの男は、あなたを利用しているだけだというのがわからないわけではないのでしょ?彼は、あなたがキューラリオンに似ていて、彼の求めをなんでもかなえてくれる便利な女だから傍に置いているだけよ。そんな風に扱われて悔しくないの?」

 姉の言うことはもっともだ。それについては私にも自覚がある。

 姉のカリーナは、この魔法社会で一、二を争う大ブランド『ハルトマン・マギックス』の経営者であり、史上初めて人為の宝石の錬成に成功した有力者だ。学才、美貌、商才、すべてを兼ね備えていて隙がない。それに対して私は、姉の庇護のもとで共同経営者(COO:最高執行責任者)を名乗っているだけの無力な女だ。彼についても、その心が私にないのは承知で、ただ身体をあわせている。それはわかっているんだ、でも…。


 そんなことを考えながら、リセーナ・ハルトマンは何物かを錬成しようと取り組んでいた。そこはソーサラーの研究室のようで、さまざまの錬金具や魔法具が並び、不思議な液体が入れられたフラスコから湯気が立っている。リセーナは、考え事をしながらも、その手を的確・正確に動かして、錬金の段取りを次々に追っていた。


「あなたにはもっとふさわしい男性がいるわ。あの男だけはおよしなさい。彼には、あなたに対する愛情なんてないのよ。それに会社としても、あなたの才能を横取りされるのは正直迷惑だわ。」


 姉の小言は続く。

 わかっている。わかっているのだ。彼は、私の身体をこそ愛してはくれるが、その瞳は私を見ているわけではい。そのまなざしはいつでも遠い思い出の幻影に一心に注がれている。それは知っているんだ。彼が、私という人間の内面や精神にその情愛を注いでくれることはこれから先にもないだろう。私はそんなことを望んでいるのではない。ただ、私の作る料理、私がおくった贈り物、そうしたものに彼が関心を寄せ、喜んでくれればそれだけでいい。それだけでいいのに、それすらも今の私にとっては贅沢な望みだった。それでもなお、私の心は彼から離れることができない。それは自分でもどうしようもない、仕方のないことなのだ。彼の心は、私自身には向いていないが、しかし、私の錬金術とこの手が織りなすものは必要としている。ならばそれらを介して、せめて彼の希望に応えてみたい。私の作り出したものが、わずかでも彼の喜びと満足につながるのならば、喜んでそのすべてを差し出そう。


 そう思って、手を止めることなく、複雑な錬金術の手順を巧みにこなしていく。どうやら彼女が錬成しようとしているのは、なんらかの人為の法石のようだ。


 人為の法石とは、錬金術と魔法によって錬成される人工的な法石をいう。法石とは、本来は、自然界において高密度の魔が結晶化してできたもので、極めて高い魔法特性を持つ天然の存在である。それを、人工的な方法によって再現したものが人為の法石、通称『為石』である。この魔法世界で、錬金術と魔法によって、その人為の法石の錬成に初めて成功したのが、姉のカリーナ・ハルトマンである。その手が成した『人為のルビー』は、商業的に大成功をおさめて、彼女の経営する会社『ハルトマン・マギックス』を押しも押されぬ大企業へと成長しさせた。リセーナはいつも姉の背中を追うばかりで、すべてを持っている姉と自分を比較しては、深く落胆の想いに沈んでいた。しかし、リセーナ自身、『権威:Expert』ソーサラーとしては卓越した能力と才覚をもち、錬金術においても姉のカリーナに劣るところはなかった。その彼女の資質に目を付けた男こそが、かのパンツェ・ロッティであったのだ。彼は、リセーナを言葉巧みに篭絡(ろうらく)して、自身の野望を実現するための、神秘の法具を錬成させようとしていたのである。姉のカリーナは、妹をただ私欲のためだけに利用しようとするその男の企みをいち早く看破していて、事あるごとに、妹に対してこのような忠告を繰り返しているのであった。


 しかし、愛と献身は盲目なのか、リセーナが姉の諫言(かんげん)に耳を傾けることはなかった。彼女はその持てる力の全てを駆使して、想い人が求めるものを錬成すべく、その全霊を研究に傾けていた。


「とにかく、研究に没頭するのは結構だけれど、店の仕事はちゃんとやってちょうだいね。」

 カリーナがそう言い含める。

「わかっているわ、姉さん。」

 そう言いながらも、その手が緩むことはなかった。

 カリーナは、やれやれという表情をしてリセーナの研究室を後にした。


 生命と霊性の均衡に関する神秘を宿した人為のダイヤモンド。彼はそれが欲しいという。無垢な霊を宿すための魂の洗浄、それを法石によって実現したい、彼はいつもそう言っていた。正直に言って、彼は、無垢や純真とはかけ離れた存在だ。でも、常に彼は、それを執拗に求め続けていた。霊の無垢とはいったい何を意味するのだろうか?それは愛のことだろうか?しかし彼の心に愛があるとすれば、それは私に向けられたものではない…。彼のそれは、永遠に私に振り向くことはないだろう。

 そんな思いに取り付かれながらも、なお手を止めることなく錬成を続けていた。

 魂の洗浄により無垢な霊をもたらすという、神秘を宿した人為の法石、それが実現すれば、彼の心を振り向かせることができるかもしれない。彼女の心はそんなか細い期待によってかろうじて支えられていた。


 キューラリオン・エバンデスに対するパンツェ・ロッティの盲目、彼に対するリセーナ・ハルトマンの盲目。ふたりは、決して満たされることのない心の虚空を互いに埋め合わせるかのように、刹那的に愛を紡いでいた。もはや、決して手に入れることのできない過去の想い人をリセーナに重ねるパンツェ、仮初の触れ合いを愛に仮託するリセーナ、身体を重ねながらも、ふたりの心は常にすれ違っていた。盲目の愛は、かくも悲劇に結びつくものなのであろうか。愛とは何か、ひとを想う純真ははたしてこの世界に何をなすのか、わからぬままにふたりは時間の流れに飲み込まれていくのであった。


 * * *


 ところ変わって、アカデミー中等部。

「おら、お前ら。何度言ったらわかるんだ!そうじゃねぇよ。

 聞きなれた声が教室にこだましている。

「でも、先生、ウィザードはミカエルの加護下にあるわけですから、やはり専攻分野を第一にすべきではないでしょうか?」

「そんなつまんねぇこと言ってるから、お前らはいつまでたってもギルドから全然声が掛からねぇんだよ。中等部にもなって情けなくねぇのか。」

 相変わらずの口の悪さである。

「じゃあ、先生、どうすればいいんですか?」

 学徒は困惑してそう訊ねた。

「なんでも聞いてんじゃねぇよ。そのかぼちゃ頭でちったぁ考えろ。」

「先生、そんな無茶苦茶ですよ。ここは学園なんですから、先生は教えるのが仕事じゃあないですか?」

 学徒も負けてはいない。

「甘えてんじゃねぇよ。お前らもう一人前の位階にまで登ってきたんだろうが。そんなんじゃ、マスターになってからの研究なんてとてもできねぇぞ。」

「えー。」

 そんなやりとりが教室内で繰り広げられている。


 教職に就いたウィザードは、その気さくで構えない性格から、学徒に慕われていた。とりわけ、生来の魔法的特性がほとんどなかったにも関わらず、努力と研鑽の積み重ねによって最高位階の『終学:Master』にまで到達し、剰(あまつさ)え、高度な錬金術を身に着けて、若くして魔法学部と錬金学部の両方で教鞭を執るその姿は、努力がもたらす人の可能性の象徴としてアカデミー内のみならず、魔法社会全体で人気を集めていた。ただ、彼女のその口の悪さは相変わらずで、歯に衣着せずにまっすぐにものを言うことから、彼女の子弟には、胃を悪くする者が少なからずいるのだとのことであった。


「いいか。今度湖畔の古城で行われる中等部の研修で、模擬戦が行われるのは知ってるだろう?ソーサラー科に負けたら承知しねぇからな!」

 ウィザードが圧力をかける。

「先生、そうはいっても、相手は天才の集団ですよ。勝てるはずがありません。」

 自信のない声が聞こえる。

「へたれたこと言ってんじゃねぇ。ソーサラーなんざ、生まれ持った才能さえなきゃただの木偶(でく)だぜ。お前らには努力と根性があるじゃねぇか。才能は生まれ持った量に限りがあるが、努力と研鑽は人生を通して無限に積み重ねることができるんだ。負ける道理がねぇだろうが!」

「でも、先生はずっとソーサラー科に負けっぱなしだったって聞いたことがあるんでけど。」

 彼女の昔を知っているのであろう学徒が指摘する。

「ちげぇよ。負けたんじゃなくて、負けてやってたんだよ。」

 強がって見せるウィザード。

「あたしにかかりゃあ、ソーサラーなんざ、束になっても朝飯前だぜ。」

「それじゃあ、今度の模擬戦の魔術師科代表は、先生でいいんじゃないでしょうか?」

「私たちの代わりに、ソーサラー科をコテンパンにしてください。」

 教室が一気ににぎやかになる。

「馬鹿言ってんじゃねぇよ。あたしが出たら反則だろうが!ったく、その他人に依存したがる根性をまず何とかしやがれ。とにかく…。」

 そう言って、ウィザードは魔法威力と輻輳の効果的な展開の方法について、数式を交えながら板書していった。学徒達もまじめに講義に取り組んでいる。


 外の陽はまばゆく、窓から見える木々が木漏れ日を輝かせている。講義中、ローブを身にまとっていると暑く感じられるようになってきた。

 午前の講義がはけたあと、何人かの学徒が黒板を消していたウィザードのところに集まって話しかけてきた。


「そう言えば先生。先生は、ソーサラー科で研修をしていらっしゃるハイ・マスターの先生とお小さい時からご友人なのだと伺ったのですが?」

 学徒はそう訊いた。

「おう、よく知ってるな。あいつとは、まぁ、腐れ縁だな。」

「『全学魔法模擬戦大会』で直接対決されたこともあるのだとも聞きました。」

「ああ、あるぜ。懐かしい話だな。」

「中等部1年生にして空中戦を展開されたそうですが、そのときは、どちらがお勝ちになったのですか?」

「あたしに決まってんじゃねぇかよ。」

「先生、嘘は駄目ですよ。」

 学徒がいたずらっぽく言った。

「知ってんなら、聞くんじゃねぇ。」

 ウィザードはバツが悪そうにそう答える。

「その方は、やはり凄かったのですか?」」

 学徒が興味を示した。

「すげぇなんてもんじゃねぇ。あいつは初等部の時点で、高等術式の大規模集団攻撃魔法を使いこなしてたんだ。どこぞのお前らとはずいぶん出来が違うな。」

 そう言って、学徒の顔を眺めるウィザード。学徒達もその言葉に驚いたようだった。

「それって、初等部で『氷刃の豪雨:Squall of Ice-Swords』を使えったことですか?」

「そうだぜ。正直あいつには一生勝てねぇと思った。」

 ウィザードは居住まいをただす。

「でもな、今では、あいつと同じハイ・マスターだ。命を助けたこともあるし、助けられたこともある。いいか、お前ら。人生ってのは才能や素質だけで決まるわけじゃねぇ。もちろん、それらはあるに越したことはねぇが、それがなきゃあ何もできねぇってもんじゃあねえんだ。」

 ウィザードの瞳が真剣さを増していく。

 学徒達もその言葉に聞き入った。

「いいか。人間は、自分の可能性の外延を自ら押し広げることができる。そのためのきっかけは努力だったり、経験だったり、あるいは強い思いだったり、その時々、ひとそれぞれだ。でもな、人生の一瞬一瞬、ひとつひとつの出来事を通じて、間違いなく、自分の可能性は広げられる!だから、天才には勝てねぇなんてしみったれたことを言ってんじゃねぇ。そんなことをいう暇があったら、まずは自分にできること、したいことを根限りやってみやがれ。それを全部やり終えて、それでもなお可能性を押し広げることができなかったら、そのときはこのあたしがお前らの泣き言を聞いてやらぁ。」

 ウィザードは学徒達に優しくそう語り掛けた。

 学徒達は目を輝かせて、その言葉をかみしめていた。

「先生は、強いんですね。」

「強い弱いじゃねぇ。やるか、やらないかだ。わかるな。」

 そう言って、ウィザードはひとりの学徒の頭にそっと手を置いた。

「さぁ、午前の授業もはけたんだ。腹が減っただろう。飯を食って、午後に備えな。ほら、行け、行け。」

 そう言って、ウィザードは学徒達を教室から追い出すと、教室の後片付けを済ませ、照明を消してから自分もそこを後にした。


 初夏の陽が空高く輝いている。それはごくごくわずかにその位置を西に傾けていた。ここにはたくさんの思い出がある。ウィザードは教室棟を出ると、食堂のある場所に出るために小高い丘を登り始めた。かつてここである物語の引き金が引かれた。あの口論が、まさかあれほどの人の縁(よすが)を結び、今の自分を形作ることになろうとは、そのときは思ってもみなかった。


 そんなことを考えながら、ゆっくりと丘を登っていく。草いきれが夏の到来を感じさせる。少し歩くと汗ばむ季節となった。丘上には食堂が見える。今日の昼は何にするかな、そう思いながら、ウィザードは食堂の中に消えていった。初夏の陽がその背中を見送っている。

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