第7章

第1節『パンツェ・ロッティの青春』

 マークスによる『アーカム』急襲の事件から、はや2年近くの時が経とうしていた。3人は『魔術と魔法をめぐる神秘に関する論文試験と口頭試問』を突破し、かつ、その論文について権威ある学術魔法誌『ウィザードリィ・アンド・マジック』への掲載を見事に勝ち取って、それぞれに『終学(マスター)』の学位を獲得した。その後、3人はともにハイ・マスターの学術位階にまで進み、ウィザードは教職に就いて、アカデミーの中等部で教鞭をとっている。ソーサラーは、研究職を選択し、魔法と錬金術の研究に日々勤しんでおり、ネクロマンサーは、アカデミーの衛生部門に職を得て、その専門職員として、医療・介護・福祉分野の実務家として活躍の機会を獲得していた。かの少女たちは、今、魔法社会の一員として立派に自立の道を歩み始めている。

 なお、マスターは実務家の最上位資格であるとともに学術位階でもあり、課程を修了した者に与えられるオン・マスター(在籍期間約1年)、より高度な専門性を修得したハイ・マスター(在籍期間約2年)、最高の学術位階で最高評議会の評議員となる資格でもあるアーク・マスター(在籍期間・約3年)の3つに分類されるものである。


 これは、そんな彼女たちが、まだ生まれて間もないころの、とある初夏の物語である。


 ― 十数年前 ―


 高等部の講義に臨むその少年の眼差しは、ひとりの少女に一心に注がれていた。

 ああ、あの透き通るサファイアのような青い瞳、なめらかなシルクのごとき銀髪、知性をたたえるその唇、それらに触れることができたならばどれほどの幸せであろうことか、そんなことを考えながら、彼の視線は一点にくぎ付けになっていた。

 若き日のパンツェ・ロッティ少年は、その年、高等部に編入してきたキューラリオン・エバンデスに恋をしていたのである。


 パンツェ・ロッティは自信家で、傲慢、高飛車であり、時に傍若無人であったが、その少女のことを思う時は全くの無私であった。彼女と言葉を交わす時には、緊張と夢心地で我を忘れ、共に歩くときには、まるで時が止まったかのような心持ちでいた。時を重ねるほどに、その想いはただただ大きくなるばかりで、行き場のない感情を虚飾と空威張りでひた隠しにするばかりであった。彼は、有力貴族の嫡出で、長男でもあり、若くしてありとあらゆるものを手にし、不足や欠缺(けんけつ)を感じたことなどいまだかつてなかった。しかし、その青い瞳と美しい銀髪は、そしてなによりも、それらの持ち主である少女の心を、俄かには手にできないもどかしさに苦悶していたのである。

 心誘われるような春の陽気の中で、ふたりは近づいたり離れたり。しかし、もどかしくもその交流が何らかの形を得ることはないままに、時節はゆっくりと初夏に差し掛かっていた。花の季節は終わって、木々は青々と葉を茂らせ、その隙間から、まばゆいばかりの木漏れ日をきらきらと中空に舞わせている。若きパンツェ・ロッティは、自己の内側で日増しに大きくなるその心を持て余し、ただ日々の刹那、刹那を、とりわけその少女と関わる一瞬、一瞬をただただ噛みしめていた。


 彼自身、自分の心の中にそれほど純粋な想いが芽生えようとは思ってもみなかったようで、当惑と意外性をもってその事実を受け止めていた。それは、欲求というよりは羨望や憧憬に近い淡雪のように純粋な性質のもので、手に入れたいというよりは飾っておきたいというような、そんな感情に似たものであった。その純真が恋心であるのかどうかすら確信が持てぬままに、太陽の高さだけが、ただどんどんと増し加えられていった。

 若きパンツェ・ロッティは魔法使いとしては優秀で、またその聡明な頭脳により周囲から一目を置かれる存在であった。皮肉屋で斜に構えたところはあったが、よくユーモアを解し、社交的でもあった。ただ、少々自信過剰で、己の出自と能力を鼻にかけるところがあったため、彼のことを好まぬ者もまた多かった。特に、彼のその性状は、高等部進級のころから特に目立つようになり、一部の取り巻きを除いて、どちらかと言えば、彼は学内では嫌厭(けんえん)されていた。有力貴族の子息であり、また学業成績優秀であることから、教授陣の評価はすこぶる上々であったが、周囲の同級生の、彼の、特に人格面に対する評価は、どちらかと言えばそれとは対照的なものであった。しかし、彼は自分の才能と能力、そして出自に絶対の自信を持っており、そうした周囲の同級生からの評価などは歯牙にもかけないというように自由奔放に振舞っていた。そんな彼にとって、唯一思うに任せないのが、キューラリオン・エバンデスの美しさだったのである。


 この時期のキューラリオン・エバンデスとの関係は、特段険悪というわけではなく、会えば普通に言葉を交わすごく自然なものであった。周囲の同級生からの評判は芳(かんば)しくなかったが、それでも、彼はその恵まれた才覚によって、何かと話題の中心になることが多く、周囲の耳目を集めることは少なくなかった。キューラリオンもまた彼に興味を持つ人間の一人で、アカデミーの講義がはけた後には、寮までの道のりを同じくすることもしばしばであった。


 あるとき、キューラリオンが、何とはなしにパンツェに訊ねた。

「ソーサラー科に君の想い人があると聞いたが、それは誰なの?」

 と。その言葉を聞いたとき、パンツェ・ロッティ少年の心に、実に様々の複雑な想いが交錯したことは想像に難くない。しかし、彼はその性格から何事も素直に伝えることはできず、そのときは、ただ、

「近いうちに話すよ。」

 そう答えるのが精いっぱいであった。

 時に好奇心とは残酷なもので、キューラリオンはその彼に、

「いつ教えてくれる?」

 と訊ねたのである。

 彼の心を知ってか知らずか、飛び出したその彼女の言葉に、

「じゃあ、今月末の土曜日に。」

 後先を考えずにそう答えてしまっていた。


 初夏から夏にかけての太陽の進みは早い。6月の末は瞬く間に訪れ、ふたりはその約束の土曜日を迎えた。

 その日、パンツェ・ロッティ少年とキューラリオン・エバンデス少女は、帰寮の道程を共にしていた。


 他愛もない話を道すがら紡いでいるうちに、どんどんと寮が近づいてくる。少年は少女がいつかの約束を忘れていてくれたらと期待していた。不遜で傍若無人な彼の自尊心も、かの少女の美しい瞳と麗しい銀髪の前では借りてきた猫のようであったのだ。また、彼は、眉目秀麗な別の少年がキューラリオンに恋心を寄せていることを知っており、その少年とも良好な関係にあったために、そもそもキューラリオンに胸の内を明かすつもりはなかったのだ。午前の講義を終えた半ドンの土曜日、陽が天上よりもごくわずかに西に傾きかけていたそんな時であった。


 寮棟が間近に迫り、このままふたりが別れようかというまさにその時、少女が例の問いを繰り返した。

「それで、あなたの想い人は誰なの?」

 混乱と動揺が彼の全神経を支配していた。何と返答すべきかを考えておくべきだった。その後悔とともに、様々なことが頭をよぎり、試案とも思索ともつかない思考の波にただただおぼれていく。

 その美しい瞳が彼を見つめている。逃げ道を失ってしまった。

「君だよ、キューラリオン。よかったら…。」

 気がつけば、そう口にしていた。自分が何を言っているのか、正直彼にはわからなかった。それを聞いて、彼女は少し驚いたように、

「ありがとう。返事は少し待ってね。」

 ただそれだけ言って、寮の自室に消えていった。


 彼はまだ、現実と精神の世界との境界がはっきり定まらない不思議な感覚のまま、迂闊(うかつ)に胸中を伝えてしまった後悔にひとり苛(さいな)まれていた。何ということをしてしまったのか?これで後戻りはできなくなる。なにより、彼女の返事次第ではすべてが終わってしまうのだ。そう思うと、彼は己の愚かさを心底から憎んだ。もちろん、彼の願望に沿う応えが返ってくるかもしれない、そんな淡い期待が皆無だったわけではないが、不安の方がはるかに勝っていた。その日は週末であり、返事は早くとも週明けまで待たなければならないのだ。そこからの時間の刻み方は、まるで時計の針に砂袋でも吊るしたのではないかと思われるほどに、遅々として感じられた。なんでも思い通りになり、また、己の才覚と能力によって、これまではずっとそうすることができていた彼にとって、ある意味、すべての去就が他人の意志に委ねられるというのは、初めての経験だった。

 外では、少しずつ蝉の声が聞こえ始める、そんな時節であった。夏の太陽が、西側から彼の顔を興味深そうにのぞいていた。額から首筋にかけて汗が流れ落ちる。全身に走る緊張と不安を懸命に押しとどめながら、彼もまた自室へと戻っていった。


 それから週明けまでの1日半ほどの間は、パンツェ・ロッティ少年に取って、時の法則が壊れてしまったのかと思えるほどに、長いのか短いのか、まったくわからないものであった。早く答えを知りたいと思う心と、それを永遠に知りたくないという感情が激しく鬩(せめ)ぎあい、その若い精神の感知する時間感覚を激しくかき乱していた。


 週明け月曜日の午前中、彼は何をどのように過ごしたのか、全く記憶になかった。午後ももちろん同様である。そしてその日の夕、彼は人づてにキューラリオンからの呼び出しを受けた。

 彼女は少し困ったような面持ちで、彼にこう言った。

「気持ちは嬉しいけれど、あなたの想いには答えられないわ。ごめんなさい。でもずっといい友達でいてね。約束よ。」

 そう言うと、彼女はその白く美しい小指を差し出した。

 彼は彼女との小指を重ねて、きっとと約束した。彼が彼女に触れたのは、それが最初にして最後であった。

 約束を交わしながら、彼の心は大荒れに荒れていた。それは文字通り涙の豪雨で、耐えかねるほどの胸痛に襲われていた。自分の愚かさのせいですべてを台無しにしてしまった。もう彼女の美しい瞳も、その麗しい髪もなにもかも手に入れることはできない。自分の愛は拒絶されたのだ。そう思うと、もはやこの先の自分の人生の全てが、一度に色を失ったかのような、そんな想念に支配されいた。初めての失恋であり、初めての拒絶であった。


 愛の反対は憎しみであるであるとよく言われるが、彼にとってはそうである方がまだ救いがあるように感じられていた。彼女が彼を憎んでくれるならば、少なくともそれは、彼女の内に彼に対する関心がまだ残されていることを意味しているからだ。しかし、その心を失った今、すなわち彼女に拒絶された今となっては、それは彼にとって永遠の喪失であるように感じられた。それが、文字通りに喪失であって、己の気持ちごと失われたのであればどれほどよかったであろうか。しかし、永遠に失われたのは、その心を得るための機会のみであって、彼女に対する純真と憧憬は、まったくその心から消える気配を見せないのだ。彼はその胸痛に苦しみ、どうにかそれを克服しようと努めたが、その一途から来る苦痛を拭い去ることは、結局できなかった。彼はそのプライドから、周囲には、俺の価値もわからぬとはかわいそうな女だなどと強がってはいたが、本心では、そのように言う自分を深く嫌悪していた。


 その後も、彼はことあるごとに彼女の気を引こうと、貴族の地位にものを言わせた贈り物をするなど、涙ぐましい努力を重ねてはみた。しかし、深い絶望以外のなにものかが返ってくるということは、結局にしてなかったのである。その後、彼はますます尊大で傍若無人に振舞うようになり、誰もが彼を嫌悪するようになっていった。彼にとっては、キューラリオンの心以外は、まるでガラクタで、そんなものに対して配慮したり慮(おもんばか)ったりすることに、意味や価値があるとは到底思えなくなってしまっていたのだ。彼の周りからは、ひとり、またひとりと人が去っていった。状況は一層悪くなり、一部の取り巻きを除くほかは、学内での孤立を深刻に深めていった。ただ、学業的な成果だけが彼の自尊心をかろうじて支えていた。しかし、彼にとってはその意味すら失われかけていた。それほどまでに愚かしくも、彼のキューラリオンに対する想いは純粋であり、真剣なものであったのだ。周囲は彼の軽薄な外観を揶揄して、所詮は一時の道楽で、単なる思い込みと嘲笑っていたが、その実は彼自身が驚くほどに真摯なもので、かけがえのないものとなっていた。まさか自分以外の存在にこれほどの関心と執着を抱くことになろうとは、彼自身、全く予期していなかったのである。


 それから後は、「女性は男性に尽くすべきで、その庇護(ひご)にある時にこそ、女性は幸せを享受でき、そこに安寧な生活がもたらされる」という趣旨の彼の弁論に対し、彼女が、「前時代的な妄想であり、女性の自立的な幸福実現を妨げる許しがたい妄言」であると厳しく批判するなど、両者の関係は徐々に険悪になっていった。というよりは、キューラリオンの側で明らかに彼と距離をとるようになっていったというほうが正確かもしれない。

 ある時などは、有力貴族の子息であるパンツェ・ロッティの言動を、キューラリオンがあまりにも公然と批判するので、彼の親族に忖度(そんたく)したアカデミーの教授が、彼女を厳重注意するのに際して、パンツェ・ロッティ少年が自らその弁護を買って出るというような、冗談のような一幕が展開されることもあった。しかし、時の流れとともに、結局にしてふたりの心は離れる一方であり、その事実は、パンツェ・ロッティ少年にとって、彼女からの拒絶の強まりである以外の何ものをも意味しなかったのである。


 こうして、パンツェ・ロッティ少年の心には、キューラリオン・エバンデスという美しい残影が深く刻印され、色あせることのないままに、時だけが静かに刻まれ続けていた。


 ― それから幾星霜 ―


「教授。教授!」

 そう呼ぶ声に気づいて、パンツェ・ロッティはハッと我に返った。そこでは、教職について間もない若きウィザードが自分を呼んでいた。

「君か…。騒々しいな。何かね?」

 思い出から目覚めたパンツェ・ロッティは、憮然(ぶぜん)としてその声に応えた。

「今度の、新中等部生の研修会の内容だけどよ。これでいいかい?」

 ウィザードがそう訊ねる。

「中等部の頃からだったと思うが、君のその口の悪さは何とかならんのかね。これでも私は君の上司であり、魔法学部長なのだがね。」

 そう諫(いさ)めるも、

「口が悪いの昔からだし、もうお馴染みじゃねぇか。こっちだって、あんたの道楽にはいろいろと目をつぶってるんだから、固いことは言いっこなしだぜ。」

 そう言ってきかない。

「まったく、最近の若い者は、目上に対する尊崇というものをわきまえなくていかん。」

 その言葉に対して、

「それ、ずいぶん前にも聞いたことがあるぜ。あんたの私室でな。」

 そんな答えが返ってきた。

「とにかく資料には目を通しておく。訂正箇所があれば後ほど連絡するから、とりあえず下がりたまえ。ご苦労だった。」

 そう言って、ウィザードを追い返した。


 思えば、彼女たちとは長い付き合いだ。女盗賊さながらに私室に忍び込んでくるという大騒動を起こしてから、いったいどれだけの月日が流れたであろう。みな美しく、立派に成長した。彼女たちを人間として愛しているし、また敬意を表している。さまざまな試練を乗り越えて立派に成長してくれた。それを本心から嬉しく思う。彼女たちの成長を、霊の奥底から純真に歓迎し喜ぶことができるならば、それはどれほどに素晴らしいことであろうか。そんなことを考えながら、パンツェ・ロッティは目の前に置かれた冷めたコーヒーのカップを一気にあけた。


 毎年、この季節には当時を思い出して胸が痛む。おそらく、この6月の胸痛から解放されることは生涯ないのであろう。しかし、それは自己の純真の証であり、確かに人を愛したことの記銘でもあった。パンツェ・ロッティの行状は、正直に言って、公私ともにとても褒められたものではなかった。権力に取り入って地位を保全し、金にものを言わせて私欲を満たす、そんな生活がもうずいぶんと長く続いていた。自身で省みても、真心や純真というものとは程遠い人生を謳歌していた。その在り方は、華々しさと力にあふれ、周囲からは羨望の眼差しをもって見つめられていた。しかし、そのような人生は、彼にとっては、心の真ん中に大きな穴の開いた、むなしいものに過ぎなかった。その内側には、今でも、もはや決して手に入れることのできない、また他では代替の効かないキューラリオンその人の心を据えておくための虚空の座が、空席となったままであったのだ。キューラリオン・エバンデス、その名が頭に浮かぶたびに、そのからっぽを吹き抜ける風が、懐かしい痛みをもたらしていた。


 もうすぐ7月になる。いつまでこの想いに苛まれなければならないのか?それを生涯忘れ得ることはできないのか?そんなことを考えながら彼はウィザードが残した資料に目を通していた。

 相変わらず、大したものだ。その資料は実によくできていて、申し分のないものであった。あの若人がよくもまあこうも立派に成長したものだ。そう思うと、彼の心にあたたかいものが込み上げてきた。彼は静かに、自分の半生を内省していた。


 報われることなく一方的に拒絶された若き日の純真と一途、その想いがまさかあのような結末を生じようとは、パンツェ・ロッティ自身、この時にはまだ、全く思ってもみなかった。ただ、自己の純粋な恋心を、穢れから離して美しく保っていたい、それだけを願っているだけであった。しかし、宿命(さだめ)の歯車は、いつでも人の思い定める通りにはならないようだ。


 運命は静かに新しい時を進め始めていた。

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