第35話 不本意な婚約 1
目覚めて詩織のいない世界はなんと殺風景なのだろうか……。
せっかく大好きな詩織と恋人同士になれたというのに、突然ジェンナによってまたこの世界に戻されてしまうなんて、本当に不愉快だった。
朝起きたら、思い出したくもない世界の、豪奢なベッドの上にいたわたしは大きくため息をついた。小さくて安っぽかったけれど、愛に溢れていた詩織の家のベッドとは違って、なんだか冷たかった。
大きなため息をついたのとほとんど同時にノックの音がされた。
「リディア様、入りますね」
「どうぞ」と返事をするとメイドが綺麗なお辞儀をしてから入ってくる。
「おはようございます、リディア様。お目覚めはいかがですか?」
「ええ、普通よ。いつも通り」
「家出をなされたと聞いてましたから、とっても心配していましたけど、ご無事で何よりです」
どうやら、詩織の家にいた期間は、わたしは家出をしていたことになっていたみたいだ。
「心配かけて悪かったわね」
一応、このメイドに罪はないから、わたしは大人の対応をしておいた。無差別に当たり散らすほど、わたしは子どもではないから。
まあ、心の中は荒みきっていたけれど。婚約破棄をされて両親に見捨てられた日に詩織と出会った日とは比べ物にならないくらい荒んでいた。
エドウィンとの婚約が改めて決まったからか、婚約破棄をされた日の罵声はなかったかのように両親は普通に接してくれた。それで良かったのかもしれないけれど、あの日投げかけられた言葉の数々はささくれのように刺さったままだった。それについては両親から謝られることもなかった。
食事は確かに詩織の家で食べていたものよりも高級な食材を使っていたし、作っていたのも調理専門のメイドだったし、手も込んでいた。
でも、わたしには詩織の作ってくれたちょっと焦げている歪な形のハンバーグの方が美味しかったわ。だって詩織のハンバーグは世界中で一番美味しいんだもの。比べることすら滑稽ね。
「やっぱり100個ほど持ち帰った方が良かったわね」
小さな声で呟いた。
詩織の家にいたときなら、詩織との距離が近すぎてどんな小さな呟きも拾われてしまっていたけれど、今は無意味に広い部屋にいるから、席の間隔も広くて、誰にも聞かれなかった。
こうやってわたしは、詩織の家にいたときとは比べ物にならないくらいの退屈な時間を過ごしていた。
そして、こっちの世界に戻されてしまった次の日にさっそく、わたしは会いたくないあいつに訪問されてしまっていた。
「リディア、久しぶりだね」
エドウィンが現れた。
爽やかな王子様でも装っているつもりなのかしら。わたしのことをあんなにもこっぴどく振っておいて、何事もなかったかのようにやって来られる図太さが怖い。
でも、もしルーナがあの日わたしに恥をかかせなかったら、何も不満に思わずにエドウィンと結婚生活を送っていたのかもしれないのか。詩織の体からしか得られない柔らかな温もりも体験することはなかったのかもしれない。
そう思うと、その点に関してだけはルーナに感謝した方がいいのかもしれないわ。おかげで一度は大ハズレの婚約者と一緒にならなくて済んだのだから。
そう思ったけれど、わたしは心の中でそれも否定する。一度は、じゃない。永遠に、だ。わたしがエドウィンと結婚することは決して無い。わたしの婚約者は詩織だけなのだから。
「リディア、どうしたんだい?」
エドウィンが不思議そうに尋ねてきたからわたしはかなり無理やり微笑んだ。笑顔がぎこちなさすぎて、多分詩織の前で向けたら一瞬で作り笑いだと見抜かれてしまうような笑みになっていたかもしれない。
「いいえ、なんでもないわ。久しぶりに会えて嬉しいわ」
あまりにも心のも無いことを、無理な作り笑いと共に伝えたから、眉がピクピクと動いてしまう。こんな違和感だらけの笑みでも、エドウィンは何も不思議には思わなかったらしい。
「それならよかった。僕も嬉しいよ」と気持ち悪い爽やかな笑みを浮かべていた。エドウィンと一緒にいたら気分が悪くなりそうだから、わたしは無理やり詩織のことを考えた。
笑っている詩織、怒っている詩織、泣いている詩織、わたしのニンジンを食べてくれる優しい詩織、無防備な姿で眠っている詩織、わたしの足を上目遣いで舐めてくれている詩織……、はあんまり思い出さない方が良いかしら。でも、どんな詩織もとても可愛らしい。
年齢的にはお姉さんのはずなのに、どこか幼い見た目の小さくて可愛らしい、わたしだけの詩織。早く会いたい、一刻も早く詩織に会いたい。
詩織詩織詩織詩織詩織、大好きな詩織!
詩織のことで脳内いっぱいにしていると、ようやく気分が少し晴れてきた。わたしが少しだけ、本心の笑みを顔に浮かべたけれど、また現実に引き戻される。
「……ディア、リディア」
えぇ、そうよ……。現実はこっちよ……。
「何かしら?」
「さっきからずっと上の空だけど、気分が悪いのかい? ずっと僕のいない寂しい世界にいたから気持ちが不安定なのかな」
ぶん殴ってやろうかしら。膝の上で握り拳を思いっきり握ってから、なんとか笑顔を作る。親指を血が出そうなくらい手に食い込ませて、感情を抑えた。
「そうかもしれないわね」
作戦決行のためとはいえ、そんな嘘を作り笑いを浮かべながら言う自分のことも殴ってやろうかしら。
「寂しい思いをせて悪かったよ」
エドウィンがわたしを抱きしめようとしてきた。
このまま一緒に寝なければならないのだろうか。やめて欲しいんだれど。ゲームみたいに選択肢が出てきて欲しい。
・受け入れる
・照れる
・ぶん殴る
ぶん殴るを連打してやりたい。けれど、これもまた詩織と会うために受け入れるを選ばないといけないのだろうか。
ニコリとまた作り笑いを浮かべた。目の前にいるのは詩織よ、詩織。これは詩織、大好きな詩織だから大丈夫。わたしは今から詩織の温かさに包まれるの。
詩織詩織この人はしお……
「りのわけないでしょ! 一緒にしないで!」
わたしが思わず自分の心の声を外に出してしまったら、エドウィンが困惑していた。わたしは苦笑いを浮かべて誤魔化すしかない。
「ごめんなさい。ちょっとまだ、久しぶりにこっちの世界に戻ってきて情緒不安定みたいだわ。今日は悪いけれど、帰ってもらっても良いかしら?」
「でも、僕はリディアのためにそばにいてあげたいんだけれど」
「気持ちは嬉しいけれど、ちょっと一人にしてもらえないかしら」
「でも、リディアのためを思って……」
めんどくさいわね。わたしのためを思ってくれるのなら、一人にしてくれるのが一番良いのに!
「ごめんなさい、今日はちょっと……」
とだけ言っても帰ってくれなさそうだから、付け加えておく。
「でも、エドウィンと結婚するの楽しみだから、1日でも早く結婚式をあげたいわね」
そう言うと、エドウィンは満足気に笑った。
「そうかい? なら、少しでも早くできるように準備しておくよ」
「ええ、よろしく頼むわね」
わたしはベッドに腰掛けたまま、手を振って彼を見送った。そうして彼が去ったのを確認してから、思いっきり深呼吸をした。
「よく頑張ったね、リディア」と詩織みたいな言い方で、自分で自分を褒めてみた。
「ええ、詩織と結婚するためだもの。そのためなら、わたしはなんだってするわ」
妄想上の詩織に返事をすると、ほんのちょっとだけ気分は晴れた。
作戦結構日は結婚式当日。だから、結婚式の日は1日でも早い方がありがたい。そうすれば、詩織と1日でも早く再会できるのだから……。
まあ、もちろん周りの行動次第ではあるから、全てがうまくいくとは限らない以上、完全には手放しでは喜べないけれど。
いずれにしても、わたしはそれまで、エドウィンを愛しているふりをする。ただし、詩織という大切な婚約者がいる以上、生身の体には触れさせずに。そこは絶対に譲らない。
詩織のいる世界に戻る方法は2パターン思いついていた。
1つは、自力で異世界に行くための魔法を覚えてしまい、自分の力で帰る方法。一番確実で、しかもジェンナと関わらなくても良い方法だ。
ただし、魔力の無いわたしが、魔法をゼロから覚えようと思ったら、全てがうまくいっても、最低50年はかかると思っている。
何歳になっても詩織に会えるのは嬉しいけれど、詩織はわたしのことを忘れちゃうかもしれない。それに、そんな長い時間エドウィンの妻としての時を過ごすなんてぜっっっっっったいに嫌! ていうか、なにより、そんなに長いこと詩織に会えないなんて絶対に嫌だし!
そして、もう1つはジェンナに魔法を使わせること。ただし、こっちはジェンナに都合良く魔法を使わせなければならないという非常に面倒で難しいミッションをこなさなければならない。
ジェンナに謝罪して靴でも舐めて、下僕にでもされたとしても、それで詩織の世界に戻してもらえるなら、わたしはなんだってするつもりではある。鎖に繋がれたって構わない。
けれど、当然そんな慈悲の感情を持ち合わせている子なら、そもそもわたしと詩織の仲を引き裂くことなんてしない。だから、わたしは結婚式当日にとある作戦を決行することにしたのだ。これが最短ルートで戻れる。
ただし、こちらは先ほどの作戦とは違い、周りがうまく動いてくれるかどうかも関係する。周囲がわたしのことをルーナにまんまと嵌められてしまった不憫な令嬢と見るか、ルーナの悪行が知れ渡っている上で、なおも意地悪で狡猾な令嬢と思われてしまうか、それで大きく変わる。
もし、わたしが意地悪な令嬢であると見做されて、周囲から見捨てられてしまったら、きっとわたしはジェンナに殺されてしまうだろうな……。
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