第30話 待ってるから 1

何度か朝と晩を繰り返したことくらいはわかった。けれど、起き上がる気力がまったく無かったこともあり、わたしはひどく時間の感覚に疎くなっていた。


食事はほとんどせずに、たまに適当にお菓子を貪った。ベッドでぼんやりとしているか、眠っているかしかしていない生活を続けていた。ベッドの周辺にだけ、ペットボトルのゴミや、袋菓子のゴミが溜まっていた。


眠れば、次に起きた時にはリディアが横にいてくれるのではないだろうかと思って続けているのに、残念ながら何度起きても横にリディアはいなかった。


代わりに、リディア様人形のことは四六時中抱きしめつづけていた。時々キスをしたりもした。リディア様人形はとっても可愛らしいけれど、やっぱり本物のリディアに会いたかった。


「リディア、会いたいよ……」

ちゃんとリディアとの婚姻の為に準備を進めておかないといけないのに、わたしはまるで無気力だった。リディアのいない世界で元気に振る舞えなんて、そんな無茶は言わないでほしい。


わたしは空腹も感じられないくらいの空腹状態のまま、またリディア様人形を抱きしめて目を瞑った。夢の中でなら、今度こそリディアに会えるかもしれないから。


それなのに、わたしの睡眠を邪魔する呼び鈴の音が聞こえてくる。ピンポン、と鳴る呼び鈴は鬱陶しくて、初めは無視を決め込むつもりだった。それでも5回ほど呼び鈴が鳴り止まない後、ドンドンドンドンと近所迷惑なくらい賑やかにドアが叩かれる音がしたから、無視をするわけにもいかなかくなった。


「鬱陶しいな……」

わたしは小さく舌打ちをしてから、ノソノソとベッドから起き上がる。体が重たかった。まるで、自分の体重が倍くらいになった気分。カーテンが閉めっぱなしになっていて、薄暗い部屋は身動きがとりにくいのもあって、かなり動作は緩慢になっていた。


一歩一歩に時間をかけて少しずつ玄関に向かっていくと、途中で外からの声も耳に入るようになった。聞こえてくる声は、聞き覚えのあるものだった。


「ねえ、詩織。いるの? しおりー!! しーおーりー!!」

「玖実?」

どうやら、大学の唯一の友達の玖実がドアをノックしてくれているらしい。


とりあえず、素性のわかる人間でホッとしたけれど、やっぱり誰とも会いたくないな。居留守使おうかな。玄関まであと3歩ほどの距離の場所まで来て、立ち止まった。めんどくさい。悪いけれど、帰ってもらおう。


「しおりー、実家にでも帰ったのかー?」

「帰ってない……」

玖実には聞こえないくらいの小さな声で呟いた。


「どうせあんたのことだから、テスト嫌で学校サボってんだろ?」

玖実が外から楽しそうに声をかける。

「違うって」

また聞こえないくらいの小さな声で呟く。


わたしがこんなに暗い気分なのに、元気に話しかけてくる玖実にちょっと苛立ってしまった。


「てかさー、今日マジでやばかったよ。田中教授ブチ切れたんだけど。なんかレポートのできがここ数年で最悪だったらしい」

「だから何?」

「あとさ、学食のカキフライめっちゃクオリティ上がってた。なんでだろうね。秋食べたとき微妙だったのに、今食べた方が美味いとかあんの? 普通カキって秋の方が美味いよね?」

「知らないよ……」


思わず失笑してしまった。わたしが中にいるかどうかわからないのに、玖実は一人で外から話し続けてるのだろうか。


「あ、こんにちはー。ちょっと友達待ってるんですー」

廊下の外を誰か通ったらしい。無人の玄関前で一人で喋り続けてる子の知り合いって思われると、なんか恥ずかしいから、今はわたしの友達って言わないで欲しいんだけど……。


これ以上騒がれたら面倒だから、わたしは諦めてドアを開けた。


開けた瞬間、元気な声が聞こえてくる。

「久しぶりだなー、詩織!」

玖実がメガネの奥の瞳を煌めかせている。


「久しぶりって、まだ3日ぶりくらいでしょ?」

声を出したのが久しぶりだったから、わたしの声は掠れていた。


「何言ってんのさ。浦島太郎みたいに時間の感覚無くなってんの?」

「え?」

「もう10日くらい学校来てないぞ。そろそろ試験なのに、全然来ないからわざわざ迎えに来てやったんじゃない」

玖実が呆れてため息をついた。


「そんな経ってたんだ……」

「とりあえず、元気そうで良かったけど、スマホのメッセージも全部無視されてたから、倒れてんじゃないかって、心配だったぞ」

「倒れてたらわたしは永遠にドアを開けることもなかったけれど、どうするつもりだったわけ? ずっと喋り続けるつもりだったの?」

「いや、飽きるまで。いるかわかんないんだし、飽きたら帰るだろ」

玖実が真面目な顔で言った。


「優しいんだか、優しくないんだか……」

本当は素直に、来てくれてありがとう、と伝えるべきではあるのだけれど、なんとなく玖実には素直にお礼を言うのは恥ずかしかった。きっと、玖実もストレートなお礼を言われても困ると思う。


わたしたちはお互いにあまり素直ではない友人関係だから。わざわざ心配してわたしの家に来てくれてる時点で優しいことは充分理解しているつもりだ。


「で、一体何があったのさ」

玖実が勝手にわたしの部屋にズカズカと上がりこんできた。


「部屋汚いよ」と先に伝えておいた。10日間掃除も全くしてないわけだし。


「いつものことじゃん」

「いつもよりもずっと汚いと思うけど……」

「マジ? リディア様似の同棲している子に怒られちゃうんじゃない?」


玖実が普通にいつもの冗談として、言ってくれたのに、わたしはその場で固まってしまった。今のわたしにとって、触れてほしくない話。


「怒って……欲しかったな……」

その場にへたり込んでしまった。リディアがいたら、『詩織はだらしないわね』なんて呆れつつも、無理矢理にでも一緒に片付けをしてくれたかもしれない。


「リディア……」

涙腺が決壊してしまった。その場で座ったまま、声を上げて泣いてしまった。


「ちょ、どうした!?」

玖実は何も悪くないのに、慌てて駆け寄ってくれた。

「マジで何があったのさ!?」

玖実もしゃがんで、視線を合わせて、わたしの顔を覗き込むようにして見つめてきた。


「ごめん、わたし今めちゃくちゃ不安定だから……」

「泣いていいぞー。どうせあたししかいないし、見られたくなかったらあっち見とくから」

普段ふざけてばっかりの玖実に真面目に心配されてししまっている。


「ごめん、ありがと……」

玖実はわたしの顔は見ないようにしながら、背中をさすってくれていた。


「いいぞー。気にすんなー。その代わり、あたしが泣いた時は一晩中さすってもらうからなー」

「玖実って泣くことあんの?」

「えー、あたしのことなんだと思ってんのさ。ロボットとかだと思ってる?」

「玖実が泣いてるとこ、想像できないからさ」


「んー、あたしだって、中学時代に彼氏に振られた時は泣いたよ。よく見たらブスだったから別れるわ、とか言われて振られたの。ヤバいでしょ。昔のあたし、ちょーかわいそう」

「えー……。初耳だな、その話……」


玖実の過去のトラウマを引っ張り出してしまった気がする。申し訳ないな……。


今の玖実は地味な雰囲気のせいでわかりにくいけれど、どちらかと言えば美少女の部類だと思うけどな。どう反応したら良いのか困っているわたしを見て、玖実が思いっきり笑った。


「そんな真剣な顔すんなって。当時はあたしも子どもだったからショックだっただけ。今だったら思いっきり悪態ついてやる。もっかいそいつに出会ったら、ぶん殴った後で、あたしの方から『よく見たら残念な顔してんな』って言って唾でもかけてやるのに」

ふんす、と鼻を鳴らしながら饒舌に話す玖実が面白くて、思わず吹いてしまった。


「あたしのトラウマ話で笑いやがったな!」

玖実が笑いながら、わたしの頭を軽く手のひらで叩いた。


「ご、ごめんね、昔の嫌な話思い出させて笑っちゃうとか、わたしひどいよね」

「そうだな。ひどいやつだ」

玖実がわたしの正面にまた戻ってきて、顔を見ながら笑顔でそう言った。


「でも、ちょっと元気になったみたいだな」

うん、とわたしも小さく微笑んだ。

「なら、良かった。詩織を元気にさせる為なら嫌な話いっぱいしてやるぞー」

「次は楽しい話で良いよ……」

わたしは苦笑いをした。


リディアのいなくなった寂しさはそう簡単には癒えないけれど、玖実のおかげで、とりあえず小さな一歩くらいは踏み出せるかもしれない。リディアには婚約の準備をしておいてと言われたんだし、わたしはちゃんと前を向かないといけない。


「玖実、ありがとね」

「気にすんなー。さ、元気になったら晩御飯でも食べに行くか」

わたしは頷いて、玖実と一緒に近くのファミレスに行ったのだった。

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