ささくれ雲雀とすずめの書

葵月詞菜

第1話 ささくれ雲雀とすずめの書

一.

 その日、稲荷いなりすずめはふと思い立って寄り道をすることにした。

 いつもなら真っ直ぐに行く交差点を右に折れ、小学校を横手に見ながら閑静な住宅街へと向かう。

 辿り着いたのは平屋の家で、表札の隣に【州鳥すどり書道教室】のプレートがかかっていた。

 そう、ここは中学生まで通っていた書道教室だった。なかなか居心地良かったせいか、高校に入ってからもたまに顔を出している。


「あら、すずめちゃん。いらっしゃい」


 突然訪問したすずめを、州鳥先生はにこやかに迎えてくれる。見た目はグレイヘアを上品にまとめた小柄でかわいらしいおばあちゃんだが、書道をしている時の姿は凛として普段より一回りも二回りも大きく見えるから不思議だ。

 教室となっている部屋には数人の小学生がいたが、どの子も片付けに入っていた。

 すずめがいつもの定位置になっている場所の座布団にちょこんと座ると、すぐ前の机に州鳥先生が硯と筆、それから半紙と文鎮と一式を並べ始めた。


「折角来たんだから、一文字くらい書いていってちょうだいな」

「……はい」


 すずめはふっと頬を緩めると、腕まくりをして墨を手に取った。



 字を書いた半紙をじっと見つめ、全体のバランスなどを見直している時だった。


「あ、すずめちゃんがいる」


 上から降ってきた声に顔を向けると、同じ高校の制服を来た男子生徒が立っていた。


つばめ君。今から?」

「ううん。今日は書きに来たわけじゃなくて」


 元書道教室仲間だった青柿あおがき燕は、最後の小学生を見送って部屋に戻って来た州鳥先生に声をかけた。


「先生。今度の展覧会パンフレット用の書なんですけど」

「ああ、載せるもの決まった?」


 州鳥書道教室では、定期的に他の書道教室と合同で展覧会を開催している。いつも州鳥先生がパンフレットを手作りしていて、生徒たちの作品を載せるのだ。今回は燕のものが選ばれたらしい。

(燕君頑張ってるなあ。高校でも書道部に入ってるし)

 部活動で書きながら、まだこの教室にも通い続けている。学内に書道部の作品が掲示されているのを見ると、すずめも思わず足を止めて見入ってしまっていた。燕の字は見るからに丁寧で、その形が流れるように美しいのだ。

 

 すずめはまた自分の書いた字に目を向けた。

(うーん。ここはもう少し力強くしても良かったか)


「『雲雀ひばり』?」


 その二文字を読み上げられてすずめは顔を上げた。話が終わったらしい燕がすずめの書いた書をじっと見ていた。


「ああ、うん。燕君はどう思う?」

「すずめちゃんらしい字だね。バランスが良い」

「ありがと」


 書が上手い彼に褒められるのは純粋に嬉しい。

 燕はまだ暫く半紙を見つめていたが、やがてふうっと息を吐いて訊ねて来た。


「今度の展覧会、すずめちゃんも見に来る?」

「行くつもりだったけど」


 展覧会の日程は毎回三日ほどしかないが、土日が含まれているのでどこかで見に行くようにしていた。


「そっか。ならパンフレットができたら渡すね」


 燕はそう言って笑うと、すずめよりも先に教室を出て行った。



二,

 昼休み、食堂から教室に戻りながらすずめはぼんやりと思った。

(そういえばもうそろそろ来る頃かな)

 確か二日前にすずめが手紙を渡したはずなので、今日あたり返事が届きそうだと予想していた。――文通の。

 すずめはひょんなことから、同じ文芸部に所属する高観雲雀たかみひばりという男子生徒と文通をすることになってしまった。一応彼が字の練習をするという名目で始まったのだが、思いの外長く続いたこともあって今では手紙のやりとりが面白くなってきている。


「すずめちゃん」


 教室の手前で呼び止められて振り返ると、そこには青柿燕が立っていた。


「これ、書道教室の展覧会のパンフレット」


 燕は持っていた二つ折りの紙を差し出した。表紙にどどーんと掲載されている書を見て、誰が書いたものか一発で分かった。


「表紙の書、カッコいいね」

「ありがとう。ぜひ実物も見て行って」

「うん。楽しみにしてる」


 教室に戻ると、すずめは改めて渡されたパンフレットを眺めた。

(実物はもっと迫力があるんだろうなあ)

 ますます展覧会が楽しみだと思った時だった。


「すずめちゃん」


 また声をかけられた。ただし今度はクラスメイトの白鳥美雛そらとりみひなという女子生徒だった。彼女は同じ文芸部の仲間だった――そもそも、彼女に誘われて入部したのだ。

 美雛は少し困ったように眉を下げて教室の後ろの扉を指さした。


「なんかあそこに怪しいのがいるんだけど、多分すずめちゃんに用があるんじゃないかなあ?」

「え?」


 見ると、扉の方からこちらを伺う男子生徒がいた。なぜか複雑そうな、難しい顔をしている。いつもなら用があればさっさと声をかけてくるのに。


高観たかみ君? ……何やってるんだろう?」

「本人に訊いてあげたら?」


 美雛に言われて、すずめは席を立って高観雲雀に近付いた。

 すずめが近くに来た途端、雲雀はなぜか一歩後ろに引いた。そして、彼の後ろにいたらしい小柄な男子生徒にぶつかった。


「ちょっと雲雀。何やってるんだよ」

「あ、悪い、つぐみ


 雲雀の幼馴染で、且つ同じ文芸部の寒河江さがえ鶫だった。


「ほら、稲荷さんの方が来てくれたじゃん。早く渡しなよ」

「わ、分かってるよ」


 雲雀が学生服のポケットから折り畳んだ紙を出してすずめの前に出す。例の文通の返事である。

 すずめはそれを受け取りながら、雲雀を見て首を傾げた。


「何かあったの? 高観君」


 いつもと少し様子が違うような気がするのだが。彼は本来、もっと元気で行動に迷いがない性格だ。このどこかまごまごした様子は一体何なんだろう。

 すずめと視線を合わせない雲雀の後ろで、鶫が呆れたようにため息を吐いた。


「ごめんね、稲荷さん。雲雀のことはあまり気にしなくて良いから。――それより、さっき何だか楽しそうに紙を見てるようだったけど、あれは?」

「ああ、これ」


 どうやら展覧会のパンフレットを見ている所を見られていたらしい。

 すずめは自分の机の上に置いてきたパンフレットを取りに戻り、二人に見せた。


「書道展?」

「うん。わたしが通ってた書道教室のね」

「じゃあさっきこれを渡しに来てた人は……?」


 鶫がちらと雲雀の方を見ながらすずめに訊く。


「ああ、青柿燕君って言って同じ教室だった人。この表紙の書も燕君が書いたものなの」


 鶫は「なるほど」と頷いて表紙をじいっと見つめ、慰めるように隣の雲雀の肩をポンと叩く。同じく表紙の書を見ていた雲雀がその手を鬱陶しそうに払った。

 そんな雲雀に、すずめはふと思いついて言ってみた。


「そうだ、高観君」

「……何だ」


 なぜか雲雀の声に元気がなく、投げやりに聞こえる。


「この展覧会、一緒に行かない?」

「は?」

「燕君の書だけじゃなくて、色んな人の書があるよ」

「いやそれは分かるけど、何で俺が……」

「高観君、字に興味があるみたいだったからどうかなと思ったんだけど」


 雲雀は虚を突かれた顔になり、「それは稲荷さんの字のことなんだけど……」とボソリと呟いてから大きなため息を吐いた。

 改めてすずめの方を見る。今度は視線がちゃんと合った。


「――一緒に行く」

「本当? 寒河江君はどうする? もし良ければ美雛ちゃんにも声かけてみよっか」


 すずめの提案に、鶫は首を横に振った。


「あ、僕は今回は遠慮しておくよ。白鳥さんも忙しいんじゃないかなあ?」


 確かに美雛はクラスの人気者なので友人たちからも引く手数多だ。


「折角だから、今回は雲雀にしっかり書について教えてあげてよ、稲荷さん」


 鶫の言葉にすずめは「分かった」と頷いた。


「じゃあ高観君、よろしくね」

「こちらこそ」


 鶫と美雛を誘えなかったのは残念だが、誰かと一緒に展覧会に行くのはずいぶん久しぶりだと考えて、すずめはその日に思いを馳せた。



三.

 今日も文芸部の部室は静かだった。

 活動日である水曜日だけはまだ何人かいるのだが、その他の曜日はほとんどいない。

 すずめたち一年メンバーはまだ集まる率が高い方だったが、本日はすずめと雲雀しかいなかった。

 そして、二人が向き合っているのは書道だった。文芸部部室の中には墨の独特の匂いが漂い、ここに人がやって来たら一瞬書道部に来たのかと思うかもしれない。


「ああ~やっぱり筆は無理! 呪いの書になる!」


 何枚か書いたところで雲雀が声を上げる。すずめは彼が書いた半紙を眺めながら「うーむ」と唸った。以前、彼の筆ペンの練習字が呪いの書と呼ばれた一件は記憶に新しい。


「まあまた演劇部の小道具に使ってもらおうよ」

「稲荷さんひどい」


 雲雀は一つ息をつき、それから気を取り直して再度お手本に目を遣った。墨のついていない筆でその上をゆっくりなぞって確認している。

(ぶつぶつ言うけど、諦めないんだよなあ)

 そうなのだ。雲雀は何だかんだ叫びながらも、筆を置こうとはしなかった。彼は彼なりに本気で綺麗な字を書きたいと思っており、真面目に取り組んでいる。

 そんな彼だからこそ、文通を含めすずめも付き合うのをやめられないのかもしれない。


 先日、書道教室の展覧会に雲雀と一緒に行って来た。

 初めはそこまで乗り気でないように見えた雲雀だったが、会場に入って作品を見始めると俄然興味が沸いてきたようだった。自分より幼い子たちの作品もじっくりと眺めて「上手いなあ」と楽しそうに呟いていた。たまに質問をしてくる彼に答えながら、すずめも楽しい気分で回ることができた。

 燕の書の実物も見たが、やはり迫力がパンフレットのものとは桁違いだった。今までに何度も彼の書を見て来たすずめでもそうなのだから、初めてこれを見た雲雀はさらに衝撃的だっただろう。


「稲荷さんのとは違う意味ですごいな……」

 呆然とそんなことを呟いていた。


 そしてそんな書に感銘を受けた結果、今日こうして二人で書道をしているのである。


「お、これはちょっとマシじゃね!? 字が読める!」


 雲雀が声を上げて半紙を掲げ、すずめの方に向けたが――


「え!?」


 半紙の端に赤い染みが滲んでいてぎょっとする。これでは本当に呪いの書みたいではないか。

 すずめは半紙を持つ彼の指に目を留めた。右手の中指の爪の際がささくれて出血していた。


「高観君、血出てるよ」

「え、ああ、さかむけか……」


 雲雀が「そういえば手洗った時に沁みるなって思ってたんだよな」と呟いた。

 すずめは急いで鞄の外ポケットを漁り、念のため常備している絆創膏を取り出した。


「手出して」


 雲雀は一瞬戸惑った後に、おずおずとこちらに手を伸ばした。

 血をふき取った上からペタリと絆創膏を貼ってやった。


「はい、家に帰ったらちゃんとケアしてね」

「……一生このまま貼っておきたい」

「は?」

「冗談冗談。サンキューな」


 雲雀は絆創膏を貼った指をちょいちょい動かしながら笑った。そして、


「あー、折角上手く書けたと思ったのに、見事に呪いの書になっちまったな」


 血の滲んだ半紙を見て大きなため息を吐いた。

 すずめもしみじみとその書を眺め、ふっと笑ってしまった。


「これはこれで演劇部にウケそうじゃない?」

「稲荷さんやっぱりひどい」


 雲雀がわざとらしく頬を膨らませたのを見て、すずめはまた笑ってしまった。


「そういえば、稲荷さんは今日何の字書いてたの?」


 ふいに訊かれて、すずめは自分の手元にある半紙を見た。

 この前書道教室で書いた字と一緒だ。あの時の反省を活かして、今回はもう少し力強く筆を走らせてみた。

 彼にその二文字を見せると、驚いたように目を見開いた。

【雲雀】――そう、彼の名前である。前にも彼から自分の名前を書いて欲しいとリクエストされたことがあった。


「どうかな? 高観君」

「――やっぱり俺の名前ってカッコ良いんだなってことが分かった」


 それも欲しいと言われ、すずめは苦笑しながら頷いた。



四,


「ねえいい加減その笑みなんとかしたら? 気持ち悪いんだけど」


 隣を歩く幼馴染は、先程から右手を眺めながらにやにやしている。

 鶫は呆れたように何度目かのため息を吐いた。

 先週、展覧会に行くまでどこかささくれ立っていた心も落ち着いたのか、雲雀はすっかり機嫌も調子も元に戻っていた。

 今日も放課後はすずめと二人で書の練習をしていたらしいが、この通り、気持ち悪いほどご機嫌である。


「絆創膏貼ってもらったからな」


 右手の中指の先にくるりとまかれた絆創膏を嬉しそうに見る雲雀。


「そ、良かったね。ところで綺麗な字は書けたの?」

「いや。やっぱり呪いの書になったな」


 くっくと笑う雲雀は言っていることに反してなぜか楽しそうだった。

(道のりは遠そうだなあ)

 鶫はぼんやりそんなことを思った。

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ささくれ雲雀とすずめの書 葵月詞菜 @kotosa3

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