第38話

謝罪と共に頭を下げた龍由さまが次に私を見た時に、私はその蒼に今度こそ捕らわれたいと思ってしまった。それくらいに強い眼差しで私をご覧になる龍由さまは、月の金の明かりに照らされて、眩いくらいに美しい。

「おぬしにとっては自由を奪われた人生になってしまうな……。それでも私はおぬしを離すことは出来ぬ。……私と共に生きてくれぬか」

勿体ないくらいの言葉だった。私を作る全てのものが龍由さまに向かって叫んでいるのが分かる。髪も腕も心も何もかもが、貴方をお慕いしていますと、叫んでいる。それは、生まれた時から巫女となる運命だったからとか、他の人生を知らないからとか、そんなことは今、関係なかった。私は頭のてっぺんからつま先の先まで、龍由さまのお力の中でしか存在できない。そんな弱い存在(わたし)を龍由さまが求めてくださったことが嬉しかった。

私は三つ指をついてこうべを垂れた。

「命が尽きるその時まで、龍由さまのお傍に居させてください……」

息を吐き、十ほど数えた後だろうか。龍由さまが私の手を引いた。ぐっと力を籠められて、あ、と思う間もなく龍由さまに抱き締められる。

「……っ、龍由さま……っ」

どくんどくんと鼓膜の奥で『脈』が早く打つ。龍由さまも、同じなのだろうか。

龍由さまは私の目の前で、月の輝きが蕩けるほどに美しく微笑んで、嬉しそうに仰った。

「そうか、これが『いとおしい』という気持ちなのだな。……緋波、これから私はおぬしの伴侶たるべく努力をしよう。それが足りぬ時は言ってくれ。私はおぬしを何としてでも幸せにしたい」

この方の傍でないと息が出来ない。それほどまでに焦がれて慕う方からそんなことを言われて、嬉しくて泣かない女が居るだろうか。それは私も例外ではなく、嬉しくてぽろぽろと涙が零れてしまった。

「な、何故泣くのだ、緋波……。笑ってくれ……。笑ってくれぬと困る……」

私が泣く様子に、龍由さまは狼狽したようだった。私はあとからあとから溢れてくる涙を拭いながら微笑んだ。

「龍由さま。人間は嬉しくても泣くものなのです……」

私の言葉を聞いて、龍由さまは幾分ほっとしたようだった。少しして私の涙が落ち着くと、頬に残った涙のあとを唇で拭われて、

「これが緋波の涙の味か。覚えておこう」

と微笑みながらおっしゃって、私は恥ずかしくて死んでしまいそうだった。

「緋波……」

私を呼ぶ低くて甘い声が、私の心を震わせる。

この方が欲しい。

この方に一生愛されていたい。

神様を欲する人間(じぶん)の強欲さに後ろめたさを感じながら、私は目の前の方の熱い視線を受け止めた。龍由さまが私の頬に手を添えられて、私はうっとりと瞼を閉じた。

こがねの明かりが重なる二人の影を板戸に映し出す。その夜、私は龍由さまと夫婦(めおと)になった。


美知さんの白無垢姿を見て以来、ほのかに憧れていたような花嫁装束を着るわけでもなく、私は龍由さまと夫婦になった。日々の生活は以前と変わらないけれど、あれ程やさしかった龍由さまがより一層私にやさしくなった気がする。私も龍由さまと過ごす時間が嬉しくて、龍由さまのおやさしさに応えるべく、より一層お務めに励んだ。

「最近、神様の気が強くなられたな」

朝餉の際にそう言ったのは祖母だ。巫女の職を退いても神様を感じ取る力は残っており、水の気配が一層濃くなった、と言った。

「龍神様のおかげでこの郷は水に困らぬ。ありがたいことじゃ。緋波もよう仕えてくれて、嬉しいよ」

祖母は目じりに皴を寄せて笑った。

龍由さまも、神社にお参りに来る人たちをあたたかく迎えていらっしゃった。郷の水の願いはすべて聞き入れて、作物も順調に育っていた。

そう。郷のすべてがうまく回っていた。水車に水が途切れることなく足されて回り続けるように、郷の中もまた、永遠に良い方向に回ると信じて居られた。


今日も私は境内を掃き清めて、その様子を神様がご覧になっていらっしゃった。龍由さまはふと境内の裏手に咲く躑躅に目をやり、それを一輪、手に摘んだ。

「緋波」

龍由さまに呼ばれてそちらを向くと、穏やかに微笑んだ龍由さまが私の髪にその躑躅の花を挿してくださった。

「緋波の黒い髪に良く似合う。私の緋波が美しく居ることが、私は嬉しい」

衒いない誉め言葉に私は恥ずかしくて顔が赤くなるばかりだ。

でも、心の奥が嬉しいと叫んでいる。

「私も、龍由さまに相応しい女性で居られるよう、努力します」

「今のままで、十分だぞ」

穏やかに微笑まれる龍由さまに、笑顔を返す。その時だった。

「緋波……」

低く唸るような声が聞こえて鳥居の方を振り向けば、其処には鬼羅さんがいらっしゃった。

「鬼羅さん、ご無沙汰でしたね……」

そう声を掛けて、鬼羅さんの様子がおかしいことに気付いた。頬がこけ、目が落ちくぼみ、肌は土色だった。腕を体の前にだらりと下げ、膝を少し曲げてその場に立ち、ふーふーと粗い息を零していた。

おかしい。明らかに鬼羅さんの様子がおかしい。なにより、あれほど朗らかだった鬼羅さんに笑みがない。そう思って一歩二歩、鬼羅さんの方へ歩み寄ろうとしたら、私の肩を龍由さまが掴んだ。ぐっと力を籠められて、其処から動けなくなる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る