第37話

「龍由さん。どうしたんだ、こんなところで」

「緋波の具合が良くないらしいと水が告げた。だから迎えに来た」

水? と鬼羅さんは龍由さまに問いかけていたけど、龍由さまはお答えになられなかった。きっと鬼羅さんに話しても通じないと知っておられたのだろうと思う。

村境を超え、住まう龍川村に戻ると、水の匂いに包まれて、息がしやすくなった。大きく息を吐いた私を鬼羅さんは背中から降ろして様子を見ようとしてくれた。

「どうだい、少し息の調子がよさそうだ。神様に仕える巫女さんは、神様が違ってしまうと空気すらも駄目なんだね。知らなかったよ、ごめん。覚えておくね」

心配そうな鬼羅さんに申し訳ない気がする。すみません、とようように絞り出した声で言うと、その時遠くから此方に駆け寄ってくる人の姿があった。佳那さんだ。

「鬼羅! 何を人の目を盗んでそんな女と一緒に居るのよ! 緋波も緋波よ! 鬼羅に言い寄ろうったって、そうはさせないんだから!」

怒りを露わにして佳那さんが駆け寄ってくると、私の頬をパシンと叩いた。伽耶さんに叩かれて、足元が一歩、よろけた。それを何とか踏みとどまる。

「佳那!」

「ふん、汚らわしい売女のくせに、鬼羅に近寄らないで!」

「佳那! 緋波をそんな風に言うな。緋波は真剣に神様に仕える、清い女性だ」

「鬼羅も目を覚まして。この女に夢中になったって、良いことなんてないわ!」

目の前で激しい言い争いが始まってしまってどうしようかとおろおろとしていたら、神様がすいと前に出られた。

「そうだな、今日の所は緋波の面倒は私が見よう。佳那殿も鬼羅殿も、それでよいか?」

龍由さまが二人を見ると、佳那さんはふん、と顔を逸らし、鬼羅さんは少し躊躇った後、頷いた。私は自分の体の不甲斐なさに龍由さまを見ることが出来ず、息を整えながら俯いた自分の指先ばかり見ていた。

「緋波……。また神社へ行っても良いだろうか……」

鬼羅さんがそうおっしゃったので、少し息が整わなかったけれど、それでも私は、はい、と応えた。

「是非、いらしてください。神様が喜ばれます」

私が自分の足で立って息を吐きながらそう言うと、横から膝の裏を掬われ腕の付け根を支えられた。

「きゃ……っ! か……、龍由さま……っ!」

神様に大事そうに抱き上げられてしまって、私は文字通り真っ赤になった。

「龍由さま……っ、じ、自分で歩けます……っ」

「そんな青い顔で何を言う、緋波。ここは大人しく抱かれておれ」

思いやり深い蒼の瞳にやさしく低い声音。神様の慈愛を見た気がして、泣きそうになった。

こんなにおやさしいのも、龍由さまが郷を守る神様だから。私はその郷の住人の一人で、偶然巫女で。だからそれ以上のことは何もない。村境まで出迎えてくださったのだって、私が龍由さまに仕える巫女だからそうして頂けただけであって、それ以上の何でもない。『私』を心配していただけただのと勘違いしてはいけない。自分で言い聞かせていないと、神様のやさしさを勘違いしてしまいそうで、私はそれが怖かった。

鼻腔の奥がツンと痛む。ほのかに香るのは、水の匂いだった。


湖底から浮き上がる水泡のようにふうっと意識が覚醒した。粗末な家の板壁の隙間から、暗い部屋に月明かりが差し込んでいる。薄い布団の上で起き上がると板戸の外に水の気配がして、私は戸を開けた。驚いた。簡素な縁側には龍由さまがおられた。

「気分はどうだ。顔色は大分良いように見受けられるが」

昼間の私の不調を心配してくださったのだと分かり、恐縮する。

「ありがとうございます。もう大丈夫です」

「無理はするな。明日は休んでいれば良い。私も社の中で大人しくしていよう」

ふふっと微笑んだ神様が、いたずらを窘められた子供のような笑みだったので、一瞬呆けてしまった。神様は本当に純粋無垢でいらっしゃる。

「……神様、私は何処にも行けません……。龍由さまの匂いのする土地にしか居られない……」

「そうだな。きちんとそのように育ったのだなと、今日分かったよ。幼い頃のおぬしの声も思い出していた」

――かみさま、かみさま。ひなみは一生、かみさまのものです。

三歳の誕生日に、お前は一生神様のお傍に居るのだよと祖母から言われた。それ以前は勿論、それ以降も私はこの郷の外、つまり、龍由さまの守るこの土地から外に出たことがない。

「……龍由さまが私を望まれた理由を、お伺いしても良いのでしょうか……?」

私はもうこの土地以外では生きていけないと、今日分かった。それはつまり、龍由さまのお力に守られて一生を生きていくと言うことだと思った。

私の問いかけに、神様は緩く微笑まれた。座りなさい、と促されて神様の側に膝をつき、座る。私が座ったのを見て、目を細めて明るく輝く月を見上げた。

「……おぬしが生まれたのはこんな月明かりの眩しい夜だったな。私はその時丁度、地上に目を向けていた。……おぬしは産声も大きく、よく泣く元気な子供だった。そのおぬしから私は、私と同じ『波』を感じたのだよ」

「同じ……、波、ですか……?」

同じ波とは、どういうことだろう。私の疑問に、神様が答えて下さる。

「私は水を司る。人間には血が流れておろう。血も液体で、その流れの波を、脈という。おぬしの脈は、私の脈とぴったり同じだった。それで私は悟ったのだよ。おぬしこそ、この世で唯一、私の対になる者だと。それで私はおぬしの祖母におぬしを仕えさせるよう託(ことづ)けたのだよ」

私が……、龍由さまの『対』……?

驚きで声も出ない私に、龍由さまはやさしく語り掛けてくれた。

「おぬしは美しい魂のまますくすくと育った。それは私を嬉しくさせたよ。しかし、おぬしを通じて人の世を見ると、私の許におぬしを縛り付けることがおぬしにとって最良の道と言えるかどうか、私には分からなくなった……。人の道には色々ある。おぬしにもそれを選ぶ権利があるのではないかと、そう思ったのだよ……」

龍由さまが目を伏せる。神様も後悔することがあるのだと、この時初めて私は知った。

「……それで今日、鬼羅さんと出掛けて来いとおっしゃったのですね……」

「……そうだ。守りの竜胆を身に着けておれば、神力の差くらい、しのげると思っておった。しかしそれは思い違いだった。……私の見立てが甘かったよ、すまぬ」

謝って頂きたくない、と思うのは、私が既に龍由さまが拵(こしら)えた籠の中に居る身だからなのだろうか。

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