第36話


鬼羅さんとの約束の日。私は、ほとんど持っていない着物の中から状態の良さそうな小袖を取り出して着た。普段の巫女装束ではないので、何時もだったらお務めに精を出しているこの時間に着物を着ていると違和感が大きく、私は鬼羅さんが来る前だと言うのに部屋の中で落ち着かないでいた。

「緋波、いいかい」

不意に部屋の外から神様の声が聞こえた。

「はい、何でしょう」

襖を開けると其処には何時もと変わらぬ神様がいらっしゃって、少し水の気配がして安心する。

「これを挿して行きなさい」

神様がそう言って差し出したのは、竜胆(りんどう)の彫られた簪だった。美しい細工に思わず見とれる。

「こんな素敵な物を……。良いのでしょうか……」

「構わぬよ。お守りだ」

お守り……? 何の事だろうと思って神様に問うてみようと思ったら、外から鬼羅さんの声がした。

「緋波、迎えに来たよ。行けるかい?」

「は、はい。直ぐ参ります」

私が鏡に向かって自分の髪に簪を挿すと、神様が、良く似合っている、と褒めて下さった。微笑みがとてもやさしくて、それだけで私の心臓が落ち着かなくなる。どきどきと打つ心臓を宥めながら、私は部屋を出た。

戸の外には鬼羅さんが待っていて、挨拶をすると鬼羅さんは嬉しそうに私を見た。

「やあ緋波、綺麗だ。こんなきれいな緋波が今日一日僕と居てくれるのがとても嬉しいよ」

衒いのない言葉に、面はゆい気分になる。行こうか、と促されて頷く。

「行ってまいります」

社に向かって挨拶だけをして鳥居を潜った。隣を歩く鬼羅さんの足取りが軽い。

「佳那に会わないように家を出てきたんだ。早く隣村まで行ってしまおう」

鬼羅さんが何故そんなことを言うのか分からなくて、私は思ったままの疑問を鬼羅さんに問うた。

「佳那さんが行きたいとおっしゃったら、一緒に行けば良いじゃないですか」

三人でお祭りを見ても楽しいだろうと思うし、なにより佳那さんが喜ぶだろうと思って私がそう言うと、今日はそういうんじゃないんだよ、と鬼羅さんは頬を膨らませた。

「僕は、君と二人きりで出掛けたかったんだ。僕の気持ちは知っているだろう?」

聞いたけど……、でも私は巫女であることを辞められないし、そうなると鬼羅さんが望むような未来は来ないと思う。

「それは……、難しいと思います……」

「どうしてだい」

水の気配が薄くなる。気が付けば村境まで歩いて来ていた。鬼羅さんは強い眼差しで私を見る。

「私は……、一生を神様に捧げるつもりで居ます。巫女を辞めるつもりはありませんし、……ですから、鬼羅さんのお気持ちをお受けするわけにはいかないのです……」

私の言葉に、鬼羅さんも引かない。

「今までの巫女さんだって、子に後を継がせてきたんだろう? 緋波も同じようにするんだと思っていたんだけど、それは違うのかい?」

鬼羅さんの言葉に、祖母の言葉を思い出す。さらりと背後から流れてくる風に、水のにおいが混じっている。風に背を押されるように、私は口を開いていた。

「――『お前は神様に愛された子。死ぬまで神様にお仕えするんだよ』、……そう言われて私は育ちました。神様に愛された子、という意味は私には分かりませんが、一生神様にお仕えするのだと思って、今もお努めしています。……そのお務めを離れるときは、神様が許してくださったときだと……、そう思っているのです……」

私の言葉に鬼羅さんは微笑んだ。まるっきり迷いのない瞳だった。

「だったら、尚の事考えてくれないか、僕とのことを。……緋波が神様の愛する人なら、きっと神様は緋波が幸せになることを喜ぶと思うよ。僕は緋波を幸せにしてあげたい、そう思っているんだ」

……きっと、嘘偽りない気持ちなのだと思う。真剣な気持ちは痛いほど伝わって来た。それでも……、神様にお伺いしていない今、返事をするのは躊躇われた。

村境を超えて暫くになる。……水の匂いがしなくなって、息苦しくなってきた。鬼岩村は龍川村より道を行き交う人も多く、その賑やかな街道を歩いていくと、村の中心の鬼岩神社が見えてくる。息苦しさは更に増し、私は体にはあはあと息を大きく吸い込みながら鬼羅さんの隣を歩いていた。

最初は人いきれに息がし辛いのだと思っていた。でも違う。私にまとわりつく空気が龍由さまの空気と違うのだ。明らかに『違う』神様を敬う人たちの気配が、其処にはあった。

生まれて初めて、郷の外に出た。郷の外はこんなに違う空気だと言うことを、知らなかった。それほどまでに、鬼岩村の空気は私の体をべっとりと覆うように重く、濁っていた。空気に喉を締め付けられそうになって、ひと呼吸息をするのも辛かった。

村の中を練り歩いてきたと想われる神輿が賑やかに神社の鳥居の前まで到着していた。その頭部に烏を率いた鬼の面が飾られている神輿を担ぐ担ぎ手たちから発せられる熱気が凄まじい。わっしょい、わっしょいという大きな掛け声で揺さぶられるその神輿からも、龍由さまとは違う神様の匂いがする。

頭が痛い、胸が苦しい。頭から血の気が引く感覚があって、私はふらついた。違う神様の気配が、私の体をふらつかせていたのだ。

「緋波? 顔色が悪い。具合が悪いのかい……?」

「すみません、鬼羅さん……。私には、違う神様の匂いが辛いです……」

初めて水の匂いのしない場所に来た。自分の体にこんな変化が出るなんて、知らなかった。私は神様――龍由さまにずっと守られていたのだわ、と改めて感じた。

「なんだって? 僕は何ともないけど、巫女さんになると体に異変が起こるなんて知らなかったよ。僕が悪かった。早く帰ろう。さあ、おぶさって」

迷惑を承知で鬼羅さんの背におぶさる。賑やかな祭囃子を背に、鬼羅さんは私たちが住まう村へと帰路を急いでくれた。

鬼羅さんの背に揺さぶられて街道を戻り始めて少しした頃、見知った水の匂いを感じた。力なく鬼羅さんの背に預けていた頭を持ち上げ、その肩越しに前を見れば、村はずれまで龍由さまが出てきておられた。鬼羅さんも走りながら龍由さまに気付かれたようだった。

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