第35話
春の快晴は幾日も続いた。心地よい風と青空を眺めるには絶好の気候で、神様と私は村の外れの山際に流れる小川まで散策に来ていた。もともと穏やかな流れのこの小川は、子供たちの絶好の遊び場で夏場などは水浴びが盛んに行われていた。それ以外にも、この小川の上の方の支流から村の田畑に水を引いていて、この小川の水は村全体を潤していた。
龍由さまは目を細めて小川の流れをご覧になっていて、水が豊かであることを満足に思っていらっしゃるようだった。
「緋波。昨今、この小川の水流を利用しようと、他の郷の人間が水路工事を計画していることなどはあるか?」
神様に問われた内容を、私は良く知らなかった。神社でお参りに来る方たちをお迎えし、願いを神様に届ける役割しかしてこなかった。村の灌漑用水路の建設にも、水車が穀物を製粉するその水車の工事にも縁がなかった。神様が、何故そのようなことを仰ったのか、理由が分からなかった。
「水がわずかだが濁っておる。上流から砂が混じってきているのだ。上流から水を引いている近隣の郷はあるのか」
龍由さまは龍川村の土地神様だから、龍川村の水の供給について責任があるという。一方で、他の郷に行けば他の土地神様がいらっしゃって、日の日差しや水、木材になる山の木々、土壌などの自然は土地神様たちの話し合いで上手に分配されている。ただ、土地神様たちがご存じない所で、人間が開発の速度を速めていることはあるのだと、神様はおっしゃった。
「このまま上流の工事が進めば、龍川村に流れてくる水流が弱くなる。工事は他の郷の人間が行っていることだろう。龍川の村人に話し合いに行ってもらわねばならない」
小川の流れを厳しい視線で見つめながら龍由さまが言う。水の利権争いになると、郷と郷の関係が拗れそうだ。なんとかうまく済ます方法はないのだろうかと、思い浮かばない頭で考えていると、龍由さまが私の頭をぽんぽん、とやさしく撫でた。
「緋波はやさしい。小さな争いでさえ起こることを好まないのだな」
その言葉で、龍由さまが私の心を読んだことを知った。私は耳を赤くしながら俯きながら応えた。
「さ……、郷の人はみないい人ばかりです。やさしくておおらかで働き者で……。そんな方たちが他の方たちとの争いを抱え、頭を悩ませるのを見るのは、私も辛いです。なにか……、私にできることはないのでしょうか……」
鬼羅さんをはじめとして、気さくな人の好い村人たちの顔が脳裏に次々と浮かぶ。あんなに朗らかに過ごしている人たちに、争いごとの話は持ち掛けたくない。でも、この小川の水流が減ったら困るのは私をはじめとした郷の人全員だ。なんとかして話し合いを持たなければならない。
逃げ腰になる考えと、なんとか打開策を考えなければならないという気持ちの板挟みで居ると、隣に立っていた龍由さまが、私の肩をそっと抱き寄せた。
龍由さまの体の温度が着物を通して伝わってきて、急に心臓が逸りだす。
男の方にこんなことをされたことはなくて、だから、顔が赤くなるのを止められなかった。
「……緋波は美しい魂のまま育った。……私は嬉しく思う」
穏やかに呟かれたのは、そんな言葉。今の、水の権利の話に関係があるだろうか。
龍由さまは私の肩を抱いたまま、手でぽんぽんと肩を撫で、安心させるようにこうおっしゃった。
「緋波の気持ちを尊重しよう。なに、私がひと仕事したら良いことだ」
「私の……、ですか? 何をされるのですか?」
水は人が生きていくために必要不可欠なものだ。その取り分の話し合いをせずに、神様がひと仕事とは、どういう意味だろう。
「なに、簡単なことだ。毎年の雨を、山の方に少し多めに降らせればよい。山に蓄えられた水が小さな支流となってやがてこの小川に注げば、龍川のこの川の水量は守られる。……本来であれば、人の行いによって変わった水量だから、人同士で決着を付けなければならん。しかし郷の者も争いごとは骨が折れるだろう。私がひと仕事したらいい」
そんな風に神様はおっしゃって、私に向かってやさしく微笑んでくださった。
切れ長の双眸は深い蒼、すっと伸びた眉に薄く笑みを湛える唇。
見つめてくる視線が私の見返す視線を絡めとって、離さない。
こんなに美しくて、郷の人を思いやってくださる神様を、心から尊敬する。郷の人たちが他の郷の人たちと争わなければいけない状況を想像していたから、神様の采配は私の心に染みた。
「龍由さま、ありがとうございます……。郷の巫女として、御礼申し上げます」
私は神様に向かって深々と頭を下げた。気にするな、と龍由さまは笑って言った。
「緋波の願いは、半分は私の願いだ。私も争いを好まぬ故、守るべき郷の者に争いごとをさせるのはどうかと困っておった。緋波が背中を押してくれたから、決心がついた。神(わたし)が頑張るべきところは頑張る。それ以外のことは郷の者で解決してもらおう」
……私の願いが神様の願い……?
不思議そうな顔をしたのだろう。龍由さまがくすりと微笑んで、いずれ教えてやろう、とおっしゃった。
「緋波のことはおおよそ何でもわかるし、私はそれを叶えてやりたくなる。何故なのかは、時が来た時に教えよう」
なぞかけのような言葉を残して、龍由さまは私の肩に置いていた手をするりと離すと、河原を道の方へと戻って行かれた。私は慌ててその後について行って、斜め後ろから神様の美しい横顔を眺めていた。
どきん、どきんと胸が拍動を打つ。
肩を抱かれたからとか、なぞかけをされたからとか、そういう理由ではない。
幼い頃から仕えてきた神様に巡り合えて、あまつさえその神様が私の言葉に耳を傾けて下さる、そのことが、胸をときめかせていた。
真摯で思いやり深く、やさしい龍由さま。
もう直ぐ傾き掛けようとしている春の日差しが白の髪に弾けて輝いている。
その様さえも神々しくて、私は半歩後ろをついて歩いていた。龍由さまがそれに気が付いて私に手を差し伸べてくれる。
まるで恋うもの同士がそうするように、私と龍由さまは神社に戻るまで手を繋いで歩いて帰った。
どきどきと、心臓が鎮まることは、決してなかった……。
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