第34話


それから数日後。桜とともに消えたあの方にまた会った。彼は自らを龍由だと名乗って、度々神社を訪れてくれた。龍由さんはともすると私が朝、小さな家を出るよりも前に神社に居る。今日も私が家を出ると、既に彼が境内に居た。

「龍由さん、お早いのですね」

「此処が私の居場所故、私はいつも此処に居る」

龍由さんは、この前言ったことと同じことを繰り返した。穏やかに微笑むその姿は、静かで澄んだ空気のこの神社にとても合っていた。ただ、この前龍由さんを包んだ桜は、もう既に散ってしまっていた。それが少し残念だった。

「桜が散ってしまいましたから、次は其処に植えてある躑躅ですね。隣の鬼岩村の神社の境内の藤も立派だそうです」

鬼羅さんに以前聞いた藤の花の話をすると、龍由さんは微笑んでそうか、と応えた。

「見に行ったら、どんな藤だったのか教えてくれ。私はこの郷を離れることが出来ぬ故」

「離れることが出来ない……、のですか……?」

きっと私は龍由さんの言葉に、疑問露わな顔をしたのだろう。龍由さんが口許を引き上げて、苦笑したのが分かった。

「おぬし、巫女だろう。私のことが分からぬか。私は此処の守り神、龍神だ」

龍由さんはそう言って、指をすいと手水舎の方から拝殿の方へと動かした。すると手水鉢の水が遊ぶように翻って、波を打って拝殿の方へと空中を流れた。まるで、龍由さんの指の動きに合わせたかのように、水が躍ったのだ。

私は目の前で繰り広げられた現象(こと)に、頭の中が、わあん、と鳴った。巫女としてご神体の水晶と対面するときに感じる波動が、水を操った龍由さんから自分に流れて込んでくるのを感じた。龍由さんから感じるその波動と、自分の体に流れる血の脈動が同じ波を打つようだった。どくん、どくん、と大きな拍動を打ち、水が翻るのと同じように波を打つ。

「か……っ、神様……っ」

私は動悸を抑えて慌ててその場に跪き、こうべを垂れた。神様には、さぞかし鈍感な巫女だと思われたに違いない。しかし神様は私の前で片膝をつくと、私に向けて、こう仰った。

「おぬしの祈りの声、毎日心地よかった。祀られるようになってかれこれ五百年ほどになるが、久しぶりに人の声も悪くないと感じた」

「お、恐れ多いことでございます……!」

砂利に額を擦りつけんばかりにしていると、ふいと肩の下に手が差し込まれて、上体を起こすように促された。正面に見る神様のお顔は大変美しく、瞳が透明な蒼で、成程水の神様たる所以は此処に、と思わせる様子だった。

「ところで、緋波。私は久しぶりに人界に降りた故、今の人界の勝手が分からぬ。おぬし暫く、私の世話をしてくれぬか」

勿体ないお言葉だった。再び私は砂利に額を擦りつけて、神様のご用命を承ったのだ。


神様は、久方ぶりの人界に、無垢な赤子のように目を輝かせておいでだった。何処へいらっしゃるにも私をお連れになり、目に映る不思議な物事をその度ごとにお尋ねになった。

「ふむ。五百年前より人々の暮らしが豊かになっておるのは、人々の努力があってこそだったな。その進歩を嬉しく思うぞ」

今日も脱穀の機械などをご覧になりながら、そう仰っている。また、行き交う人々が疲れていなくて良い、とも仰った。

「五百年前は食べ物も粗末だった。今の人間はその頃の人間に比べると格段に顔色が良い。嬉しいことだ」

市井の人々の様子に、本当に喜んでおられるのが分かる。また、水の神様としては一番気になることなのか、しきりに土を掘り、石を組み上げて出来上がった水路に流れる水の様子を観察しておられた。

「水も行き届いておるな。みなで均等に分けて、田畑がまんべんなく潤っていてとても良い状態だ」

神様の施しで民が収穫を得ているのが嬉しいようだった。巫女としても、神様が喜ばれることが一番嬉しいことだった。

「緋波!」

その声は、そういう神様の視察の際に人ごみの中で声を掛けられた。手を振ってこちらに来るのは鬼羅さんと、その後を来る佳那さんだった。

「鬼羅さん、佳那さん、こんにちは」

「やあ、こんにちは。……そちらの方は……?」

「あ……っ、ええと……」

隣に居た神様を、どう紹介しようかと迷った。すると神様はまるで構わず鬼羅さんに手を差し出した。

「龍由という。緋波に郷を案内してもらっているところだ」

「鬼羅と言います。郷を案内ということは、この郷にはまだ浅いんですか?」

鬼羅さんの問いかけに、神様は、そうだな、と頷いた。鬼羅さんがちらりと私を見て、それから神様に向き直った。

「あの……、緋波とは……、どういうご関係ですか……?」

「鬼羅、野暮なことは聞かないのよ。緋波だって言いにくいでしょうに」

佳那さんが鬼羅さんの言葉を遮る。とんでもない間違いだったので、それは言っておかなければならない。

「あ……っ、あの、違います……っ。い、従兄です……っ。久しぶりに会った、……従兄なんです」

神様のことをどう紹介して良いか分からなくて、私は咄嗟に嘘を吐いてしまった。鬼羅さんは私の言葉に、そうなのかい? と少し安心した様子で微笑んだ。

「鬼羅。久しぶりの再会なんだから、邪魔しちゃ悪いわよ。行きましょう」

佳那さんが鬼羅さんの腕をぐいぐいと引く。引っ張られた鬼羅さんは、顔だけ私たちの方へ向けた。

「約束を、忘れないでくれよ」

約束? なにそれ、という佳那さんと、お前には関係ないことだ、という鬼羅さんが去って行く。その様子を見ていらっしゃった神様が、約束とはなんだ、とおっしゃった。

「あ、あの……、鬼羅さんから隣村のお祭りに誘われているのですが……」

でも、神様からお世話を頼まれているし、何より神様がいらっしゃるのに巫女が神社を空けるというのは良くない気がして、行かない方が良いだろうかと迷っていると、神様は微笑んで、是非行ってきなさい、とおっしゃった。

「え……。でも……」

「おぬしも何時までも一人きりでは生きてはいけまい。人と交わることは、良いことだと思う」

どこか遠くをご覧になるような目で、神様はおっしゃった。

今までも一人きりだなんて思ったことはなかったけど、最近は郷の年頃の娘たちが恋話に花を咲かせているのを羨ましく眺めてしまっていた。神様に一生お仕えすると決めていたのに、そう憧れてしまう私は神様を前にして恥じ入りたいくらいの気持ちだったにもかかわらず、神様はそれを許してくださると言う。広いお心に感銘を受けて、私は言葉を発した。

「神様……」

「なんだ」

決意を込めて、改めて言葉にする。

「私は一生、神様にお仕えします」

私の言葉をどうとらえたのか、神様はやわらかく微笑んでくださった。その笑みが、心底ほっとできる笑みで、私はあの神社の巫女として生まれて良かったと心から思ったのだ。


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