第33話


幼い頃、祖母に言われたことを思い出す。

『お前は神様に選ばれた子。これから一生、神様に心を込めてお仕えするんだよ』

巫女の家に生まれて、巫女になることを決められていた。その中で、神様に選ばれた、という言葉が、私のささやかな誇りとなっていた。しかし、年を経るごとに同い年の少女たちが次々と恋う人の話をし始めるのを、私は羨ましく聞いていた。

私は神様に仕える身。身も心も、神様に捧げなくてはならない。

それが恋に憧れる私が、佳那さんを眩しくみる所以だ。

一度でいい。佳那さんのような眩しい笑顔で、誰かのことを好きだと言ってみたい。例えばそう、今此処に咲く桜の花のように、潔く散ってしまっても良い。一時だけでも朱に染まる時間があれば……。そんなことを考えていた。

さわさわと風が頬を撫でる。枝から零れ落ちる花びらがふうっと浮かび上がるように渦を巻いた。己の願望を載せたその花びらの軌跡がきれいだな、こんな風に華やかに散れたら、私のありえない恋も美しいだろうな、と眺めていたら、鬼羅さんのものではない足音がした。

ざり、と草履が砂利を踏むその音に振り返ると、舞い散る花びらの中、一人の男の人が立っていた。鳥居を潜ってきた人は居なかったと思うのに、その男の人は拝殿の隣で花を咲かせている桜の下に居た。

美しい男の人だった。透けるような白い肌と陽光に輝く白の髪。蒼い瞳に薄くて形の良い唇。背は高く、しっかりとした体躯を藍色の着物が良く似合う。腕を組んで桜を見上げているその人のことを何処かで知っていると、私の中の私が言っている。

何処で見知った方だろう。不思議に思っていると、男の人が口を開いた。

「舞う桜のなんと美しいことか」

低音の、耳なじみの良い声だった。桜を眺める彼の様子に見とれていると、彼がふと此方を向いた。その時、私の心臓がどきんと大きく鳴った。

深い蒼の瞳に不思議な光を湛えている。

私を見て微笑む彼を見て、どきんどきんと鼓動が早くなっていく。

これは何?

どうしてこんなに心臓が逸るの?

手足が痺れたように動かなくなって、私は彼を見つめたままぼうと立っていた。彼が微笑みながら此方へやってくる。目の前に彼が来て、すいと手を伸ばされたと思ったら、私の髪を梳くように撫でた。

「花が名残惜しそうにおぬしの髪を飾っておる。おぬしは桜の精か?」

そう言って髪を撫でた手を私に見せると、其処には軸ごと落ちた桜の花が乗っていた。これが私の髪に落ちていたことを言っていたのだと分かった。

手に桜の花を乗せたまま美しい顔で優美に微笑まれて、顔が熱くなったのを自覚した。俯きながら、言葉を探す。

「わ……、私は、この神社で巫女をしている者です……。貴方様はどちらからいらしたのですか……?」

私の問いかけに、彼は微笑みを崩さず答えた。

「此処が私の居場所故、私は此処に居る」

不思議なことを言う方だと思った。しかし、その言葉がすんなりと受け入れられる。何処から来たのかとか、何処へ行くのかとか、この方にはそんなことは関係ないのだと思えた。

私が彼を見ると、彼が私を見ていた視線と絡まったような気がした。笑みを浮かべたままの彼は、私の名を呼んだ。

「また会おう、緋波。私はいつでも此処に居る」

彼がそう言った時、ざあと風が舞って花びらが渦を巻いた。彼の姿は花びらにかき消されて、風が止むと彼の姿は其処にはなかった。

(……幻……?)

ううん。彼こそが、桜の精なのだわ、と私は思った。


五月雨のしとしと降る日だった。社ではしんと静まった空気がしっとりしていて、本殿を飾る龍神様の細工が喜んでいるようだった。

私はこの神社の宮司の一人娘として生まれた。幼い頃から巫女になることを定められて育ってきたから、それ以外の生き方を知らない。旅の無事を祈る人、結婚を報告に来る人、生まれた赤子を見せに来る人、色々な人生を此処に居て垣間見るが、どれも自分とは遠いことのように感じていた。

だから、その誘いには驚いた。

「緋波。今度隣の鬼岩村で春祭りがあるんだけど、一緒に見に行かないか?」

そう誘ってくださったのは、鬼羅さんだった。午後まだ早い時間、普段だったら店番をしている筈の時間に慌てて神社にやって来たかと思ったら、鬼羅さんは早口でそんなことを言った。

「こんな時間じゃないと、佳那が煩くてかなわない。鬼岩村の神社の藤棚がきれいでね。緋波が好きだろうと思って、今年は絶対に誘おうと思っていたんだ」

照れくさそうに笑う鬼羅さんになんて言ったら良いのか分からない。佳那さんは? それに私は、生涯神様に仕える身として生きてきたから、こんな、男の方からの誘いにどう答えたら良いのか分からない。恋に憧れる気持ちと、自分に課せられた生き方。それらが頭の中で交錯して、上手く言葉が継げない。

「あの……、私……」

行けません、と保身でお断りしようとした私の言葉を鬼羅さんが遮る。

「緋波。君の巫女職はいつか誰かが継ぐんだろう? その時に君をお嫁に迎えたいんだ」

鬼羅さんの言葉に驚いていた。脳裏に先日見た美知さんの花嫁姿が蘇る。あんな美しい姿を自分で想像できなくて驚いている私を他所に、神社にお参りに来ていた別の郷の人たちが声を上げて笑った。

「鬼羅、緋波はこの郷の守り神の巫女だから、嫁に向かえるのは難しいぞ」

「祭りもなあ。緋波が他の神様にご挨拶したら、龍神様がお怒りになるんじゃないか」

「それに鬼岩村の祭りは、鬼が恋した女を喰らうて自分のものにしようとしたのを、女の恋人だった藤の神が封じたのが由来だと言われているではないか。物騒な祭りに緋波を連れ出すでないよ」

私がこの郷から出たことがないことを知っている郷の人は笑った。わはは、と笑う郷の人を、鬼羅さんはちらと見て、その様子に私は少し申し訳ない気持ちを感じた。

「緋波。僕は君に聞いているんだ。一緒に行ってくれるかい?」

鬼羅さんの再度の誘いに返事を言い淀むと、鬼羅さんは私の手を取って、握った。男の方からそんなことをされたのも初めてで、私の頬はあっという間に熱くなった。

「き……、鬼羅さん……」

「緋波。一度で良いから、僕と出掛けてくれないか。佳那は何とか言いくるめる。僕は緋波にあの藤の花を見せてあげたいんだ」

藤の花……。旅の人にも聞いたことがある。隣村の神社の藤棚の藤が、とてもきれいだと言っていた。その話を聞いたときには、自分には縁のないことだと思った。神様に奉仕しなくてはいけないから、一刻も無駄にしてはいけないと思ってきた。

「あの……、……私で良いのでしょうか……」

外の世界に、憧れがあった。

恋に憧れがあった。

ずっと自分を戒めてきたから、鬼羅さんの誘いは私のときめきをあっという間に攫った。

鬼羅さんは私のいらえに満面の笑みを浮かべた。

「勿論! 緋波が良いんだ」

ぎゅっと、私の手を握る。とてもあたたかくて、大きな手。

「じゃあ、約束したよ、緋波。僕が迎えに来るから、一緒にお祭りを見て、藤棚を見て、……それで今回は帰ってこよう」

にこりと朗らかな笑みを浮かべて、鬼羅さんは仕事に戻っていった。握られた手が、まだあたたかい。どきどきする。私は……、今までと違う景色を見ることが出来るのだろうか。……鬼羅さんの言うように、いつか私は巫女ではなくなって、誰かのお嫁になるのだろうか。そんなときが来るのだろうか。今は巫女の仕事に必死で、それ以外の未来は見えない。いつか誰かに恋をしたりするのだろうか。その相手は、鬼羅さんなのだろうか。

『かみさま、かみさま。今日よりおつかええします。ひなみは一生、かみさまのものです』

そう唱えた日は遠くなった。私が神様の許を離れる時が、来るのだろうか。

ぼんやり見つめていた鬼羅さんの後姿は、道を行き交う人々の中に紛れて見えなくなった。

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