第30話
*
気持ちが揺れている一方で和弘との物件選びは回数を増し、やっと、家賃と自分たちの希望する条件の合った部屋が見つかった。入居日が決まると、いよいよ和弘と一緒の生活が始まるんだとどきどきする。新しい土地でも暮らしは、きっと舞白に素敵な変化をもたらしてくれる。そう思うだけで胸が高鳴った。このまま和弘の事だけを考えられるようになると良い。そんなことすら思っていた。
だけどそう言えば、龍由に龍川町を離れることを言ってなかったな、と思って、神社を訪れることにした。龍由も舞白の前世に求めるものがあったのだろうし、もうそれは叶わないのだと告げてやらなければならないと思ったからだ。
鳥居を潜ると、龍由が社の奥から出てきて舞白を出迎えて声を掛けてくれる。
「よく来てくれた。会いたかったぞ、舞白」
龍由は、美しい顔に微笑みを浮かべて笑うと、舞白の方へ近づいてきた。舞白の心も、自分を見つめて微笑む龍由を心の底で嬉しいと思ってしまう。緋波の所為だろうか。
舞白は庭から摘んできた紫陽花を手水鉢の片側に活けた。神社が華やかになってなかなか良い。
「ふむ、花を纏う水も麗しいな。舞白の心のようだ」
「寂しい神社だなと思っていたの。昔はこうじゃなかったんでしょう?」
社も傷んでしまって、侘び寂びがあると言えば聞こえはいいが、ここは住むにしては寂しい建物だ。せめて花で心が和んでくれたらいいと思う。これからはこういう風に、神社を気に掛けることをする人も居なくなるのか、と思うと、龍由の心は満たされないままなのだな、と少し心配になった。
「そうだな。昔は参拝の人ももっと大勢で、賑やかだったよ」
龍由はそう言って、社の軒下に舞白を招いて空を見上げた。この風景は夢の中で見たことがある。あの時見たのは龍由の姿だったのか。
「……龍由さん」
「ん? なんだ?」
舞白がやや視線を下に落として呼び掛けると、龍由は穏やかな笑みを舞白に向けた。その笑みに心がずきんと痛くなる。
「……私、都内に引っ越すの……」
さわり、と舞白と龍由の間に風が流れた。木々の騒ぐ音がして、暫くすると、あいつとか、と龍由が呟いた。
「……そう……。新しい生活を始めるの……。だから、今迄みたいに此処には来れないわ……」
占いの店は続けるが、和弘が龍由に会うことを嫌がっている。神社に立ち寄ることも、今日が最後だ。
龍由はどういう思いからか、舞白を見つめたまま目を細め、口を引き結んだ。
沈黙が二人の間に漂う。ややあって口を開いたのは龍由だった。
「……もう、考え直さぬか」
「決めたの……。和弘は最初から私だけを見てくれてた……。そのことに、もっと早くに気付くべきだったわ……」
そう。もう過去は振り返らない。未来を見据えて生きていく。
龍由は舞白の答えを聞くと、ふう、とひとつため息を吐いて首を項垂れ、そしてそれを振り切るかのように空を見上げた。舞白も倣って空を見上げる。
「……今年は降ってくれそうな気がしておる」
龍由が鈍色(にびいろ)の空を見上げているので、雨のことを言っているのだな、と分かった。
「……どうして力を無くしたのにそんなことが分かるの? 雨を降らせる力も、川の水を操る力もなくしたんじゃなかったの?」
舞白が龍由に会うまで思っていた、神様を信じられなかったあの気持ち。あれはこの神社がありながら、この土地の雨に恵まれない、その事実に由来している。もし龍由が雨が降ることを予知できるのであれば、雨を操る力があるということにはならないだろうか。
舞白の問いに、龍由は力なく笑う。
「私は舞白が生まれるまで、この神社で眠っていた……。今の私は力が欠けて(・・・)おるのだ……」
「欠けて? 無くしたんじゃなくて? じゃあ、何故私が生まれたら眠りから覚めたの? 力が欠けた理由と、私には、関係があるの?」
舞白が問うと、龍由は悲しそうに舞白を見た。ずきんと痛む、胸の奥。これはなに? 舞白の中の緋波が傷付いているの? それとも舞白が、龍由の悲しそうな表情(かお)に耐えられないの?
どちらとも分からなくて、舞白はブラウスの左胸の所をぎゅっと握った。
「関係ある……。しかし、あの出来事は、語るのも辛い出来事だ……」
そう言って龍由は口を噤んでしまった。
やっぱり龍由は嘘つきだ。今なら舞白を選ぶとか言っておいて、その目は舞白を見ていない。舞白を通して緋波しか見ていない。
そう思ったら、龍由を前に視線が嬉しいと思った舞白の心が裏切られた気持ちがして、無性に悲しかった。それが悔しい。
どうしても……、どう自分で言い聞かせても、どんなに和弘との新しい生活に心を躍らせていても、自分は龍由の言動に心を揺さぶられる。
自分の気持ち故なのか、それとも緋波を受け継いだことに由来しているのか、はっきりと分からないまま、何故だか悲しい気持ちだけが増していく。
その気持ちとは反対に、今、彼の目の前に居る自分をまざまざと否定されたような気がした。居ないも同然だと、突き付けられたような気がした。それに傷付くことが、龍由への気持ちなのだということに、舞白は気づいていなかった。
「龍由さん!」
自分に向き直った舞白を、龍由は見つめた。
「この町に居るからいけないんだわ。龍由さんが眠っていたこの場所は、きっと緋波の事ばっかり思い出していた場所でしょう? ここを離れてみよう。そうしたらいっときでも、気が紛れるかもしれない」
龍由のあの顔を見てしまったら、どうしても最後にその表情を晴れやかにしてあげたかった。もう舞白はこの神社を訪れることはない。だから最後に龍由の笑顔を見たかったのだ。
……自分が、新しい生活を掴み始めていたからかもしれない。
だから。
「緋波の呪縛から解放されて、今居る龍由さんが感じることを受け止めたら良いじゃない」
と舞白はそう言った。それは自分に対しても当てはまる言葉だと思った。自分の中の緋波のことを何時までも引きずっていても仕方ない。前を向こう。そう思って言った言葉に龍由は目を大きく見開いて、舞白は強いな、と微笑んだ。
「舞白が赤子の時に、初めて一歩を踏み出したことを思い出した。人間は自分の足で歩み、育っていくのだな」
「神様は成長しないの?」
舞白の問いに、龍由は笑った。
「さあて、もうずいぶん昔の事ゆえ、忘れてしまった。私がどこで生まれて、どれだけの時を過ごしてきたのか、私にはもう分からぬのだよ」
……そんなに長い時間の間、この土地に居て、そして多分初めて龍由は緋波に恋をした。だから緋波を失った時にどうしたらいいのか分からずに、力を失った。そう言うことなのではないだろうか、と舞白は考えた。だから緋波の生まれ変わりである舞白が生まれたと同時に目覚めたのだ。
遠い目をした龍由の手を、舞白は取った。
「行ってみよう、龍由さん。今、人間が生き生きと過ごしているところへ」
こんなさびれてしまった町でなく。そう言ったら龍由はどこか吹っ切れたように笑ってくれた。それは舞白が今まで見てきた憂いのある微笑みではなく、前向きな明るい笑みだったので、舞白は安心してしまった。
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