第27話


(和弘と、……同棲……)

思ってもみなかった提案に、舞白ははっきり言って動揺していた。今まで大学へ通うにも家を出たことがない。女友達の家に遊びで泊まりに行ったことはあったけど、男友達は居なかったし、恋人は和弘が始めてだ。恋に恋をしていた状態でお付き合いを始めたから、正直同棲……という現実的なことに頭が回らない。和弘は交際を進めていくうえで当たり前みたいにして同棲を口に出したけど、世の中の人皆がそうしてるわけじゃない、よね?

……でも、龍由とのことが心配だって言ってくれた。本当に大切に思ってもらってると分かって嬉しいと心から思う。それなのに、この不安は何だろう……。

和弘のことで思い悩んでいた筈なのに龍由を前にすると心が躍るのは、きっと緋波の所為だ。

バス停でバスを降りて家への道を歩いていると、右手に樹々に覆われた鳥居が見える。その前に龍由が立っているのを見つけて、心臓がどきんと鳴った。

(これは、緋波がときめいてるのよ……。私じゃない……)

そう思ったのに、鳥居の周りを囲む木々を眺めていた龍由が、ふうっと惹かれるように舞白の方を見たその動作がスローモーションのように美しい景色として見えた。舞白を認めて穏やかにやさしく微笑む龍由の笑みに、ときめきが抑えられないことへの言い訳は失敗した。

どきんどきんと心臓が逸っていく。

こんなの、私じゃないのに……。

「舞白、遅かったな」

「……和弘と食事してきたんです……」

舞白が逸る心臓を抑えてそう言うと、龍由は口許に苦笑を浮かべた。

「焦れるな」

「え?」

舞白が見ている目の前で、龍由の目つきが変わった。すうっと切れ長の双眸を月夜に光らせて、右手で舞白の顎を捕まえた。視線が絡んで、その深い蒼の瞳に吸い込まれそうになる。

「おぬしが自分の心を認めるのに、どれ程かかるのか。……焦れる」

どきん、と。

心臓がもうひとつ、大きく鳴った。

それは舞白の中の『波』が反応したような感覚だった。それ故、今の感情の高まりを自分のものだと認識できない。

緋波が龍由さんにときめいたんじゃないの?

だって私は和弘が好きなんだもの……。

今さっきまで楽しく食事をしていた和弘との時間を思い出してそう思うと、勝手に反応する心臓の高鳴りなんて信用できなかった。信じられるのは頭で考えている、和弘が好きだというその事実だけ。

「わ……、たしを……」

それでも口に出来たのは震えて掠れた声だった。龍由が笑みを浮かべて舞白の声に耳を傾ける。

「私を、自由にできると思わないで! 私の心は私のものよ!」

舞白がそう宣言すると、龍由は一度瞬きをして、それから声を上げて笑った。

「はは、……は! それはそうだろう。舞白の心は舞白のものだ。私がどうこうできるものではない」

舞白の心は舞白のもの……。

……じゃあ、今心臓が大きく鳴ったのも、舞白(わたし)の気持ちが反映されてるの?

ぱちぱちと目を瞬かせて龍由を見ると、龍由が、なんだ、と微笑んだ。

「い、いえ……、なんでも……」

自分の気持ちが反映されてるなら、どうして緋波を求めた龍由なんかにときめくのだろう。和弘の方がうんと誠実に舞白を見てくれているのに……。

(それに……)

あんなに待ち望んだ目で舞白に「緋波」と呼び掛けたのに、その想いが簡単に消える筈がない。ましてや、三百年も持ち続けた、強い想いだ。消える筈が、ない……。

舞白は唇を噛んだ。

龍由の前ではどんなことを言っても、何をしても、緋波には敵わない。失った想いは美化される。舞白が敵うはずがないのだ。そう思ったら、やっぱり現実の舞白を見てくれる和弘の存在が、どんなにありがたいか凄く分かる。和弘ならありのままの舞白を好きで居てくれるのだ。

舞白が二人のうち、どちらを選べばいいかなんて、分かり切っている。

それなのに……。

自分の気持ちの向く先を認めたくなくて、舞白が浅く息を零すと、目の前の龍由がするりと舞白の髪をひと房手に取った。

その髪に口づけるようにして、舞白の目を射抜く。

「……っ!」

「私は何時までも待つよ……。おぬしが、おぬしの本当の心を見つけるまで……」

すうっと唇に笑みを刷く。

妖艶な笑みを浮かべる瞳に見つめられてどくんと大きく鼓動が鳴った。いとしむようなその所作を、嬉しいと思っている自分が信じられない。

龍由は手にした髪に唇を滑らせてから、もう遅いから帰りなさい、と促した。

恥ずかしさに、さっと一歩後退りをして龍由と距離を取る。妖しい表情の龍由はもう何処にも居らず、ただやさしく見守ってくれる何時もの龍由が其処に居た。

どきんどきんと、心臓が煩く鳴っている。

この心臓の鼓動は誰のものだろう、と舞白は思った。

「舞白」

その時道の向こうから舞白を呼ぶ声がした。見ると其処には母親が居て、スマホを片手に此方に近づいて来た。

「あんた、バスに乗るって連絡入れてからなかなか帰ってこないから心配したじゃない。こんな時間にお参り?」

そう言って近づいてきた母親は、舞白の隣に龍由を認めた。

「あら、こんばんは。舞白、その方は……?」

近所の人だと思ったのだろう、母親が挨拶をするのに舞白が龍由の素性を説明できないでいると、龍由は微笑んで母親に返した。

「こんばんは。舞白に会えるのを待ち焦がれていた男ですよ」

「はあ……」

優美に妖しく微笑む龍由のことを吸い込まれるような顔で見ている母親を、兎に角この場から連れ出そうと母親の腕に腕を絡めて神社を出ようとした。その去り際に。

「またおいで、舞白」

龍由はそう言ったのだ。これでは舞白が好んで龍由に会いに来ているように聞こえてしまう。案の定、隣を歩く母親が後ろを振り返って龍由を見、そして舞白を問うように見つめた。


「舞白、さっきの人は誰なの。綿貫くんとはどうなってるの。あんたに会えるのを待ち焦がれてたって、一体……」

「うん……。お母さん、あの人の事どう思った?」

家に帰って矢継ぎ早に問いかけた自分の問いに応えない舞白を訝しげに見ながら、母親は応える。

「えらくきれいな男の人だったねえ。でもあんた、綿貫くんという恋人が居るんだったら、思わせぶりな事するんじゃないわ。あんたを待ってたなんて言う男の人だったら尚更よ」

そうだよね……。普通はそう考えるよね……。

「……お母さん。変な事言うって思っても良いから聞いてくれる?」

「? 何なの急に。あの人と関係あることなの?」

要領を得ない、といった様子の母親に、舞白は龍由と和弘のことについて今自分が思っていることを打ち明けた。

「何故だか分からないの……。分からないけど何故か、和弘と居るとおかしな感覚がよぎるの……。あの人は逆。安心できるの」

「なにそれ」

「わかんない……。どうして自分でこんなこと感じるのか分かんないんだけど、和弘と居るとあの悪夢を思い出したり、和弘は笑ってるのに、その向こうに牙を剥いた誰かが居るように見えたり……。お母さん、私おかしくなっちゃったのかな……」

思い出すだけで恐ろしい、あの視界が真っ赤に染まる悪夢や、和弘の口許に見た幻覚の牙……。それらが舞白の気持ちをむしばむ。怖くなってぽろぽろと泣き出した舞白を、母親は宥めた。

「舞白、落ち着きなさい。あんたが何言ってるのか分からないけど、綿貫くんは良い人だったでしょう。まずあんたが夜の暗い場所で知らない男の人と二人で居たと知ったら、きっとショックを受けるわ。舞白を好いてくれたんだから、それなりの誠意を返しなさい。それから」

ひと呼吸おいて、母親は舞白の頭を撫でた。

「どんな選択をしてもお母さんは舞白の味方です。舞白が良いと思うことを選びなさい」

「……っ、おかあさ、ん……っ」

良かった……。この世で一人だけじゃない……。悩んでいる舞白を受け入れてくれる人が此処に居る……。それだけで舞白は安心できた。暗い迷路から抜け出せるかもしれない。抜けた先にどんな選択が待っているのか、舞白は母親に頭を撫でられながら、ずっとそんなことを考えていた……。


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