第10話


見知らぬ人だし、約束を守る必要もない。そう思っていたけど、この町の新しい住人かもしれないと思うと、ご近所づきあいは邪険に出来ず、舞白は桜が満開になった後の風が吹く土曜にまた神社を訪れていた。

果たしてあの男の人は居た。今日は鶯色から藍色のグラデーションの着物で、何処かのお茶の先生かと思わせるいで立ちだ。

舞白が神社の境内に足を踏み入れると、先に桜の古木の下で花びらを浴びていた彼が舞白の方を見て微笑んだ。

「おぬしは約束を違えぬと信じていた」

男の人はそう言った。彼は舞白のことを知っているようだけど、この一週間、舞白は彼との『過去』を思い出すことはなかった。

「あの……、私やっぱり貴方の事思い出さないんですけど、本当に以前何処かでお会いしてましたか……?」

彼のことを思い出せないと伝えなければならないことに、心臓がずきずきと痛む。和弘という恋人が居ながら、全く知らない男の人に対して心を痛めなければならない理由って何だろう、と舞白は思った。

男の人が、舞い散る桜の花びらを目で追う。舞白もそれに倣って、桜の花吹雪を眺めた。

静かで静かな空間に、さわ、と風が舞い、白い花弁が戯れる。……こういう状況、以前もあった気がする。確かに誰かとこうして桜の花吹雪を見た。でも、はっきりと思い出せない。舞白はきれいな風景を眺めながら、じれったい気持ちになった。

「……そうだな。思い出せぬのなら、今から知っていくのはどうだろう? 今を生きるそなたにとっては、過去を振り返るよりもよっぽど良いことだろうと思うが」

男の人はそう言った。しかしそんなことしたら、和弘が拗ねるし傷付いてしまう。折角舞白を選んでくれた恋人に、そんな思いをさせるのは嫌だった。

「あの……。私、恋人に誤解をさせたくないので、そういうことはお断りします。ごめんなさい。でも、今日の桜を貴方と見れて、良かったと思います」

男の人に向かってぺこりと頭を下げると、彼が焦ったように舞白の腕を取った。

「待ってくれぬか。……私は十分待った。おぬしが来るのを、もうずっと待っていたのだ」

握られた手首から伝わる温度に覚えがある。確かにこの人と自分は、何処かで会って、……そして知り合いだったのだ。心臓がどくんどくんと拍動を打ち始める。真っすぐに舞白を見つめてくるその人が、何かを小さく呟いた。

「……ひ、……なみ……」

微かな声は、確かに舞白の鼓膜に届いた。それと同時に心臓が一段と大きくどくんと打ち、体の内側から歓喜が沸き上がるのを感じた。

(なに? この感覚……。あの時に似てる……)

そう。この感覚は、舞白が水占いをするときに似ているのだ。占う人の『波』のようなものを感じるときに体の内に起こるざわめき。それが最高潮に達した時のようだった。

熱い塊が体の内側から湧き出てくる。聴覚が鋭敏になる。

ぱしゃんぱしゃんと水の暴れる音がした。

ふと境内を見渡すと、手水鉢の水が波立っている。水はその場で波打つだけでなく、ざあと沸き上がり、一本の太い綱のようになって舞白たちの方へと引き寄せられるように勢いよく向かってきた。

「!!」

ぐん、と勢いを増した水の綱がこっちへ向かってくる。あまりの超常現象に声も出ずに水を避けられないでいると、目の前の男の人は水が舞白に届く手前でその水の長い塊を手刀で両断した。バシャン、と水が勢いを無くしてその場に零れ落ちる。舞白と男の人の前に大きな水たまりが出来て、今見た水の奇行が現実のものだと思い知らされる。

(なに……? 何が起こったの……?)

水がその形を変えて、人に向かってくるなんて、異常だ。でもその異常さの中で、舞白を守ってくれた男の人の醸し出す気配と水の匂いに、舞白の頭に浮かんだ言葉があった。

「……た……、つ、よ……し……さま……」

水の気配と男の人の気配に心臓がざわつく中、舞白は覚えもない言葉を口から零した。その途端、目の前の人に肩を握られた。

「思い出してくれたのか!」

「……っ!?」

舞白の正面に、男の人の歓喜の笑顔が零れる。その笑顔を見たことがあると何処かで思うけれど、今しがた口から零れ落ちた言葉と同じく、記憶にはない。

「……なに? 思い出すって、何を? 私は、何か忘れてることがあるんですか……?」

恐る恐る目の前の人に問う。すると彼は歓喜の顔を陰らせて、寂しそうに眉を寄せた。

「思い出してくれ……。私は十分すぎるほど待った……」

絞り出すような声は悲壮さを帯びていて、舞白の心臓をぎゅっと掴んだ。

どうして……。どうしてこの人は、自分を知らないという舞白にそこまで自分のことを思い出して欲しいと言うのだろう。そして、その悲しそうな表情の理由(わけ)は、何なんだろう……。それに、さっきの水の暴走は……。

どくんどくんと心臓が鳴っている。何かを舞白に急かすような、その鼓動。それでも舞白には全く思い当たることがなくて、その人を前にもう一度、ごめんなさい、と呟いた。

「……貴方の期待に沿えなくてごめんなさい……。私は以前貴方と……、どんな関係だったんですか……? それに、水の暴走を断ち切った、貴方の力は、一体……」

男の人から自分に寄せられる感情が、一介の知り合いに対するそれではなさそうだと言うことは、なんとなく感じる。自分を水の暴走から助けてくれた人でもあるし、それを見て見ぬふりは出来なかった。

舞白の言葉に男の人は弱く微笑み、すまぬ、とひと言詫びた。

「良ければ名で呼んで欲しい。……私の名は、龍由(たつよし)という」

たつよし……。さっき無意識に口から零れた言葉だ。彼の名前だったとは……。

「じゃあ、私は本当に貴方のことを知っていた筈なんですね? 何時忘れたんだろう……。記憶力は、それなりにあるつもりだったのに……」

驚きに呟くと、龍由は悲しそうな表情(かお)をした。

「すまぬ……。先ほどは取り乱してしまったが、無理に思い出さずとも良い。思い出してないということは、思い出したくないからだ。……記憶があっても、想い出したくない気持ちがその記憶に蓋をすることがある。無理に蓋を開ければ、おぬしの心が均衡を崩すやもしれぬ。私の力についても同様のことが言えよう……」

龍由はそう言うが、その言葉は舞白に向けたというよりは、龍由自身に向けた言葉のように聞こえた。諦めたようなその声色に、舞白はこのままにしておいてはいけないと思ってしまう。恋人の和弘のことは大事にしたいが、それにも勝る、舞白の心が覚えていること……。それは、龍由を前に、心臓の鼓動が加速していくと言う事実だった。

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