次元のささくれ、あるいは非情なる神話
登美川ステファニイ
次元のささくれ、あるいは非情なる神話
ささくれは幸福の予兆だった。
それが長いほど。痛みが強いほど。
僕たちは次元のささくれに祈りを捧げ、依存して生きていた。
「きっと素晴らしい世界が広がってるのよ、次元の向こうには」
姉は黒い髪を梳きながら言った。黒髪に月の光が反射している。村でも一番美しいと言われる姉さんの髪に、僕は少しだけ目を奪われる。
「そんなの迷信だよ。次元の向こうでは潰されて、俺たち三次元生物は命を保てない」
「またそんなことを言って」
姉さんは櫛を置いて、困ったような目で僕を見る。
「他の人に聞かれたらまたいじめられるよ。喧嘩、弱いくせに」
「弱いんじゃない。僕は無駄なことに力を使いたくないだけだ」
「だからささくれもちぎっちゃうの?」
「……そうだよ。ささくれは幸福の予兆なんかじゃない」
そう、断じて違う。僕は信じない。
「ささくれができやすい体質なのに、どうしてそんな不信心に育っちゃったのかしら」
「みんな騙されてるんだ。あれはただの物理現象だ。神様なんかいないよ」
「神様がいるから、この村は成り立ってるんでしょ」
姉さんは窓の向こうに視線を移す。その先にはささくれの洞窟がある。神のいる場所。僕に言わせれば、その神はペテンの神だ。何人、何百人もの命を飲み込んだ疫病神だ。
「あんたには、私の門出を祝って欲しかったんだけどな……」
姉さんが月を見上げながら言う。うっすらと唇を開き、何かを問いかけるように。
「祝ったりなんかしない!」
僕は感情を抑えられず、大きな声で言った。姉さんは目を丸くする。
「絶対に祝ったりなんかしない。僕は……憎むよ! 姉さんも、クソッタレな神様も!」
「イサック……」
姉さんは何かを言おうとした。でも僕は何も聞きたくなんかなかった。だから背を向けて、自分の部屋に向かった。一人になりたかった。
ささくれの洞窟がいつからはあるのかわからない。ただ、この村の先祖がそれを見つけたのは三〇〇年ほど前だそうだ。そしてここに居つき、ささくれと共に生きている。
ささくれというのは比喩で、そのように見えるからだ。空間の一部がめくり上がり、細く裂け、巻かれるようにして空間の向こうに消えていく。そのささくれに巻き込まれたものは消えていってしまう。洞窟の中には深い裂け目があるが、それはささくれが作った溝だ。悠久の時をかけて作り上げられたものだ。
それだけなら、僕らの祖先もここに居つくようなことはしなかっただろう。ささくれには、とても都合のいい特性があったのだ。
それは捧げ物をすることで、色々なものを吐き出してくれることだ。
ささくれの作った裂け目の周りにはたくさんの石がある。大きさもまちまちで、色や種類も様々だ。それは裂け目から飛び出してきたものだ。土を飲み込んで、代わりに石を吐き出したのだ。
昔の人は色々なものを試したのだという。石を置いたり、木を置いたり、水や鉄やガラスなど、色々なものを裂け目に飲み込ませた。
そうすると、裂け目は特定のものを吐き出してくれる。石ならガラスを、鉄なら銅や錫を。厳密な法則性はわかっていないが、大体何が出て来るかは何年もの時間をかけて調べられた。
そして一番有用だったのは、羊や牛などを捧げることだった。そうすると裂け目は高価な希少金属や貴金属を吐き出す。たくさんの宝石を吐いたこともある。
それ以来この村の人は供物として家畜を供え、それで得たお金で村を発展させた。
だが悲劇が起きた。いや、あるいは福音だったのだろうか。僕は最悪のことだと思っているが、とにかくそれが起きた。
それは旱の続く年のことだったという。水が枯れ、そして家畜も人も死んでいった。水を買うことはできたが、それを買う金も尽きてしまった。そして捧げる家畜がいなくなり、村人は途方に暮れた。しかし供物を途切れさせるわけにはいかない。途切れさせたら、もう二度と宝物を吐き出してくれなくなる。そんな宗教みたいな信仰が広がっていたのだ。
だから、村人は人間を捧げた。一番若くて美しい娘を。
果たしてささくれは娘を飲み込み、そして宝物を吐き出した。今までで一番多く、美しく価値のある宝石や金属を。村人はそれで水を買い、村は救われた。
だからそれ以来、村では人間を捧げるようになった。それは悲劇だと思う。でも僕以外の村人は、姉さんでさえも、みんなそれを素晴らしいことだと思っている。
その日が来た。姉さんは昨日の夜から集会小屋に泊まっていて、そこで儀式の準備をしている。最後に一緒に過ごすこともできたが、それはささくれの儀式を認めるようで、僕はそれが怖くて自分の部屋で一人丸まっていた。
朝が来た。そして昼になる。僕はまだ丸まっていた。震えながら、姉さんは死ぬのだと思いながら、僕は何もできずに部屋の中にいた。
もうすぐ時間だ。その時が来る。僕は姉さんの黒い髪を思い出した。美しい黒髪。あんな綺麗な髪を持っていたから選ばれてしまったんだ。こんなことなら、姉さんの髪の毛なんて全部切ってしまえばよかった。
ああ、その時が来る。
姉さん。
僕はたまらずに走っていた。涙を流しながら。
「姉さん!」
僕は人垣の向こうから叫んだ。何人かが僕に気づき、そして道を開けてくれる。僕は夢中で走った。でも祭り衆に止められて、それ以上進めなくなった。
「イサック!」
姉さんが僕に気づいて言った。地面の裂け目の根元に座っている。
姉さんは美しかった。花の冠を被り、化粧をして、最高級の布で作った服を着ている。その黒髪が風に靡く。一番、美しい黒髪が。
「姉さん!」
何を言うべきなのか分からなかった。ただ僕は叫んでいた。
姉さんは何かを答えようとしていた。だが、それが始まった。
ゆっくりと地面が捲れ上がる。音もなく、蛇の舌が獲物の匂いを嗅ぐように。
地面の裂け目の周囲が揺れ、ぼやけていく。姉さんの座った足元もぼやけていく。その時が来たのだ。
姉さんは何かを言おうとした。だが音さえもささくれは飲み込んでいく。向こうに持っていってしまう。
行かないでくれ。
僕はそう思った。しかし、もう遅い。逃げることもできたのかもしれない。二人でなら生きて行けたのかもしれない。でも僕は何もしなかった。姉さんの黒髪を見つめながら、それが永遠のものであるように感じていた。それは全てまやかしで、僕はただのぼんくらだった。世界は、村人は非情だった。いや、幸福を願っているだけだった。
姉さんが消えていく。次元のささくれの向こうに。何も残らない。その髪の一本さえも。
「姉さん! 行かないで!」
僕は叫んだ。その声が届くように。僕の声を、姉さんが向こうでも思い出せるように。
次元のささくれ、あるいは非情なる神話 登美川ステファニイ @ulbak
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