第35話 天使のキスと神の采配

 人工呼吸のように息を吹き込むでもなく、セラフィンはひたすら唇に吸い付いて離れない。我に返ったジョエルが引き離そうとして、天使の防御壁シールドに吹き飛ばされた。


 ベルティーユはこぼれんばかりに目を見ひらく。


「まさか、堕天してまで助けようっていうの?」


 ベルティーユを後ろ手につかみながらユーグが問う。


「どういうことですか⁉」

「【悪魔】は悪行を積めば、昇天せずにすむの。その最たる悪行が、【天使】を堕天させることよ」

「っ……」


 セラフィンは何度もシャルルに口づける。そのさまは、刺激を与えて起こそうとしているかのようだ。しかし、どれだけ口づけてもセラフィンは堕天しないし、シャルルも目覚めない。


「……どうして? シャーリィ……戻って来て! 僕は堕天してもいいから!!」


 見ていたジョエルがポツリとこぼす。


「これで堕天は無理なのでは? なんというか……、ネコ同士が鼻チューしてるみたい」

「わかりますっ! 不謹慎ですけど……かわいらしいですよねっ」


 ピピも両頬を押さえながら体をくねらせた。

 セラフィンの瞳が青く光る。


「ジョエル、教えて。どうすればいい?」

「――エッ⁉ いや……しかし、堕天されるのも……」

「お願いだ! シャルルがいない世界なんて耐えられない!!」


 逡巡したジョエルはユーグを見やる。ベルティーユを拘束しつつ、ユーグは(堕天、絶対ダメ!)と首を横に振った。

(そうだよね)と思いなおし、逃げようとしたジョエルだったが、天使の翼に退路を断たれ、観念したように息を吐き出した。


「ハァ……、どうなっても知りませんからね」

「ジョエルさん⁉ ダメですって!!」

「アタシはシャルル殿下の護衛だからね。死なれちゃ困るのよ」


 ユーグだってそうだ。護衛としての矜持もある。結局、だんまりを決め込んだ。


「セラフィン様、お耳を拝借……」


 ジョエルからレクチャーを受け、セラフィンはシャルルの頭を後ろに引いた。ふわりとひらいた白い唇を塞ぎ、セラフィンの舌がシャルルの舌を絡め取る。唾液が混ざり合った瞬間、セラフィンの真っ白な翼が痙攣けいれんしはじめた。


「「っ――⁉」」


 羽根が一枚、また一枚と抜け落ちていく。背中が痛むのか、時折セラフィンが顔をしかめる。

 ベルティーユは信じられないといった表情で訴えた。


「バカね。あんた、本当に堕天するわよ? 一三〇〇年も孤独に生きるのよ? いま命を取り留めたところで、百年も一緒にはいられない。あんたは歳を取らず、その子は醜く老いていく。――ちょっと、聞いてるの⁉」


 それでもセラフィンが口づけを止めることはなかった。一瞥いちべつは寄こしたから、聞こえてはいるだろう。けれど、心配そうな瞳はシャルルだけを映している。


「なんでよ……。私が何度殺されても、憐みの目しか向けなかったくせに。私のことは一度だって、助けようとしなかったじゃない!!」


 ベルティーユが恨み言を吐き出すうちにも、羽根がどんどん抜け落ちていく。

 すべての羽根が抜け落ちたとき、シャルルを抱いてセラフィンが絶叫した。


「っぐ、あぁぁ――――――!!」

「「セラフィン様!!」」


 悲鳴はやがて声をなくし、セラフィンの胸がまばゆい輝きを放った。金の粒が舞う白い光は、柱となって天まで伸びる。誰もがまぶしさに目をつむったが、羽音を聞いてうっすらと目をあけた。


 ――聞いたのだ。なくなったはずの翼が、羽ばたく音を。


 しかし、そこにあったのは青白い炎だった。燃えさかる炎は翼のように広がり、六枚の翼となってセラフィンの背中に収まった。

 青白い光を放つセラフィンは、畏怖の念を抱くほど美しい。身の竦むようなオーラは堕天によるものだろうか。だが、それでもシャルルは目覚めなかった。


 ベルティーユは安堵した顔であざ笑う。


「はっ、ははは……悲劇ね! 堕天までしたのに、シャルルは死んだ!!」

「死んでないよ」

「――は?」


 シャルルを見つめたまま答え、セラフィンは愛おしそうに頬をなでる。


「【悪魔】のギフトが完全じゃないから、昇天もできなかったんだ。つまり、仮死状態だね」

「バカな⁉ はっ…………力が、戻って来ない?」


 後ろ手に“悪魔の武器”を顕現させたが、細い棒の先はバールのように曲がっているだけ。


「シャルル、いま助けるよ」

「ちょっと! この期に及んで何をする気⁉」


 暴れるベルティーユをユーグが押さえつける。セラフィンは手をかざし、シャルルの胸に光の珠を埋め込んだ。その胸が大きく鼓動を打つ。


「っ…………、ハァ……」


 息を吹き返したシャルルの睫毛まつげが揺れ、微睡まどろみから覚めるようにアメジストの瞳があらわれた。


「せらふぃん?」

「おはよう、シャーリィ」

「おは…………じゃないわ!! その翼、どうしたの⁉ い、色がっ」


 言いながらシャルルは脳をフル回転させる。白い翼を失う原因なんて、ひとつしかない。しかも青い炎のように揺らめく六枚羽になっているではないか。


「ま、まさか……堕天」

「ああ、これ? シャーリィがなかなか起きないから、ジョエルに教えてもらった方法でキスしたんだ」

「キ……ス? は、はあああぁぁ⁉ 何やってるのよ⁉ ひとりで一三〇〇年生きるとか、気が狂ってしまうわ!!」


 襟元をつかんで揺さぶるが、セラフィンはうれしそうに笑うだけだった。


「僕、堕天してないよ?」

「「――えっ?」」


 全員の声がそろった。誰しも目が点になっている。


「君を助けるための行為……いわゆる自己犠牲だったから、【天使】から【熾天使してんし】に進化したみたい」

「「――進化ぁ⁉」」


 呆然とするなか、突如、ユーグが倒れ込んだ。

 

「や、やった!! ついに取り戻したわ!! きゃはっ、きゃははは!!」


 ベルティーユの狂気に満ちた笑い声が部屋に響く。その右手には黒い大鎌、左手には破滅の樹が、完熟した黒い実をつけている。


「そんな、どうして?」


 シャルルは生きている。なのに突然、【悪魔】のギフトは主のもとへ返ってしまった。それならいまのシャルルは【ギフトなし】なのだろう。


(でも、なんだか体に力が……みなぎってる感じがする)


 不思議に思いつつ左手の甲をジッと見つめれば、赤黒い図形が浮かび上がった。よく見れば、逆さまにした星形が山羊の頭を貫いたようにも見える。


「ヒッ⁉ 何これ⁉」

「ああ、それ……僕が君に付与したギフトだよ」

「ええっ⁉」


 なんでもないことのように言い放ち、セラフィンはのんびりと続けた。


「【天使】のときには力が弱すぎてできなかったけど、【熾天使】なら不純物を取り除いて、あらたなギフトを与えられるんだ」

「そ、そう……。あの、なんのギフトか聞いても……?」


 頷いたセラフィンは、まるで珍獣でも見つけたかのように瞳を輝かせた。


「君のギフトはね、【悪魔】の王……【魔王】だよ」

「「なっ――!!」」


 皆が血の気を失うなか、シャルルのギフトが読めるセラフィンは、ひとり興奮気味に続ける。


「【魔王】はね、ほかの【悪魔】を従えることができるんだって。もちろん、【悪魔】の力も使えるよ。上位の存在だからね」

「「はあぁ⁉」」


 ――どうりで。先ほどからおかしな高揚感がある。いまなら何もこわくない。


 シャルルはベルティーユへ視線を流す。ビクリと肩を揺らしたベルティーユだったが、すぐに鼻を鳴らした。


「ハッ、生まれたてのギフトが、私に勝てるわけないわ! 奪ってやる!!」

「シャルル殿下っ!!」


 大鎌がシャルルに向かうのを見て、ピピが飛び出そうとした。それをセラフィンが制止する。どうして? と大鎌の行く末を目で追えば、振り下ろされた大鎌はシャルルをすり抜けた。まぁ、すり抜けるのは当たり前なのだが……。


「は……?」


 なんの手応えもないことにベルティーユがおののく。「そんな」と声を震わせ、「嘘よ」と何度も大鎌を振るう。しかし、シャルルは平然として首をかしげた。


(変ね。わたしにも欲望や悪感情はあるのに、ぜんぜん減らないわ)


 セラフィンが憐みの目を向ける。


「上位だって言ったのに……。始まりのレベル差が天と地ほどあるんだよ?

 ――シャルル、この【悪魔】をどうするかは君に任せるよ」


 シャルルの耳に何事かをささやき、セラフィンは後ろへ下がった。


「……わかったわ。やってみる」


“悪魔の武器”を出すのと同じように念じれば、“魔王の武器”が右手にあらわれた。赤黒い槍の先は三叉に分かれ、中心はやじりのように鋭く、左右は山羊の角を模したような形をしている。


 ベルティーユの瞳が大きく見ひらかれた。彼女が声をあげるより先に、シャルルが胸を貫く。ゆっくりと引き抜いたシャルルの目に、文字があらわれた。空中に浮かぶ選択肢は三つ。


『栄養を吸収する』

『ギフトを奪う』

『従属させる』


 シャルルは迷いなく、『従属させる』を選択した。これでベルティーユは、【魔王】の命令に従うほかない。


「ベルティーユ、今後【悪魔】の能力を使うことを禁じ、一切の殺生を禁じる!」

「は……? そんな命令、従うわけ……うっ⁉」


 抗おうとしたベルティーユが、胸を押さえてのたうちまわる。これが魔王の力か。


(こっわ!!)


 自分の能力にドン引きしていると、荒々しくドアがひらかれた。入って来たのはアルマンで、数人の衛兵を連れている。


「アルマン……、また見ていたのね?」

「ええ。ご同行願います」

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