第29話 善行を積んで昇天に近付く

 ――時は少し遡る。

 ヴィクトルと別れて私室に戻ったシャルルは、居間に置かれた豪華絢爛な花束に目を奪われた。大きな花瓶に隙間なく花が生けてある。


「まぁ! どうしたの? このお花」

「ベルティーユ殿下に届いた贈花です。お部屋にあふれているらしく、お裾分けだそうですよ」


 笑顔のアメリが答え、その隣で自分の功績だとばかりにイネスが胸を張った。


「イネスが貰ってきてくれたのね。ありがとう」

「うふふ。もし、苦手なお花があればぁ、仰ってくださいませぇ?」


 のんびりと言いながらイネスが花瓶に近付いたとき、シャルルは目を剥いた。クレマチスの下から、体長三センチはある大きな蜘蛛くもが垂れ下がり、いままさにイネスの肩へ降りようとしている。


「イネス! 離れてっ!!」


 思わずイネスの肩をつかんで引き離したが、おどろいた蜘蛛はシャルルの手を狙い撃ちにした。

 右手の甲に激痛が走り、見れば穴がふたつ。噛み痕がくっきりと残っている。それだけじゃない。イネスを助けてしまい、首を絞められる感覚にも襲われた。


(しまった! 善行と見なされたわ……苦し……)


「きゃあ⁉ 殿下!! アメリ、早く医師をっ」

「はっ、はいっ!!」


 イネスはいつもより早口で言い放ち、テーブルにあった瓶をすばやく蜘蛛に被せる。飛び出したアメリと入れ替わりにジョエルとユーグが室内に駆けつけ、首もとを押さえてしゃがみ込むシャルルを見つけた。右手の甲が赤くなっている。


「「殿下!!」」


 ジョエルがシャルルの右腕を上げ、近くの水差しを持って傷口を洗い流す。

 ユーグは瓶に入れられた蜘蛛を見やり、顔をしかめた。


「ブラックウィドウか。一度咬まれたくらいで死にはしないが……」

「ユーグ」

「――はい、殿下!」

「今日は、ベル姉様の……大切な日なの。騒ぎに、しないで」

「しかし……」

「お願い」

「……承知、いたしました」


 本来ならベルティーユに届けられるはずの花だ。婚約をよく思っていない輩がいるのかもしれない。だけど犯人捜しは明日からにしてほしい。


(うっ、右腕がピリピリする。息が……苦しい)


 ジョエルが叫んだ。


「ユーグ、氷嚢ひょうのう持ってきて!」

「了解!!」


 ジョエルとイネスでシャルルをベッドに運ぶ。


「アルマン隊長にも報告しないと、ああ……魔術師も呼んだほうが?」

「わたくしが見ていますからぁ、行ってくださいませぇ」

「……そうね、殿下を頼みます!」


 ジョエルが寝室を飛び出すと、イネスは隣の部屋から瓶を持ってきた。瓶の中でうごめく毒蜘蛛を見て、シャルルは総毛立つ。

 いまはそんなもの見たくない。いや、未来永劫見たくないのだが、イネスの手の平に飛び乗る様子を、声も出せずに目で追った。


「さぁ、殿下。トドメを差してあげますわぁ」

「ど……して……?」

「わたくしのギフトは【動物使い】。蜘蛛やムカデも操れますのぉ」

「そ……じゃ、なく……て」

「ああ、殺す理由ですかぁ? そんなの、あなたが悪魔だからにぃ、決まっているでしょう?」


 シャルルのギフトは一部にしか知られておらず、箝口令が敷かれている。イネスはどうやって知ったのだろうか。


(イネス……いままでの優しい態度は、嘘だったの?)


 穏やかな笑顔の下でそんなふうに思っていたのか。人間不信になりそうだ。


「恨むならぁ、悪魔の子を産んだ母親を恨むのねぇ」


 イネスが手の平を返そうとしたとき、ヒュンッと音を立てて袋が投げつけられた。氷の入ったその袋――氷嚢は、イネスの手の平に当たってベッド脇に落ちた。


「ギャアアァァ――!!」


 雄叫びのような悲鳴をあげ、イネスが七転八倒している。シャルルは痛みをこらえつつ身を起こそうとしたが、ユーグがすっ飛んで来て寝かしつけた。


「殿下、ご安静に!! 毒がまわります!」

「イ、ネス、は……?」

「手の平に蜘蛛の牙が刺さったようです。食い込んで……さすがにまずいか?」


 想像するのも無理だった。一度咬まれただけでも体中が痛いのに。

 その後すぐに医師や魔術師がやって来て、何やら怪しいまずい薬を飲まされ、シャルルは意識を手放した。



 ***


「シャルル!! 目をあけてくれ!」

「シャーリィ⁉ お願いよ……」


 心配そうにシャルルの名を呼ぶ声が聞こえる。

 いつの間にか眠っていたらしい。

 身を起こそうとして、体の痛みに顔をしかめた。首が絞まる感覚も残っている。


「っ……」

「「シャルル!!」」

「お父様……お母様、わたしは大丈夫です」


 ヘッドボードにもたれ、なんとか笑顔を形作る。処置を受けたおかげで先ほどよりはマシになった。顔色は両親のほうが青いくらいだろう。

 けれどシャルルは、両親の後ろにもっとひどい顔をした兄を見つけた。寝室にはその三人だけ。人払いされているのか、侍女の姿もない。


「ヴィクトル……大丈夫? いまにも倒れそうよ?」

「……シャルル、ごめ……ごめん」


 何を謝ることがあるというのか。シャルルが倒れたのはイネスのせい……いや、【悪魔】のギフトを持っているせいだ。

 いつも王子然りとした態度なのに、まるで虐待を受けた子どものようにヴィクトルが怯えている。その姿があまりに痛々しく、つい手を伸ばした。


「ヴィクトル、こっち、来て……」

「っ……俺が、こわくないのか? お前を殺そうとしたんだぞ」

「それは昔の話でしょう? 蜘蛛はこわいけど、ヴィクトルはこわくないわ?」

「おっ……俺にもっ、責任があるんだ!! お前はっ、悪くないのに……」


 嗚咽おえつがはじまってしまい、父ジェラールがあとを引き継いだ。


「お前が【悪魔】のギフトを悪用した場合に備え、ベルティーユとふたりで対策を練っていたらしい」

「……ベル姉様も?」

「だがベルティーユは、お前にランバート王子を取られると思い、害そうとした。許されることではないが、イヴェールの――」

「――ま、待ってください!」


 シャルルは混乱した。


「毒蜘蛛は、イネスが操っていたんですよ?」

「そうなのだが……先ほど、イネスが白状した。ベルティーユからお前のギフトを聞かされ、そそのかされたと」

「そ……んな……」

「以前ヴィクトルに、カルメ司教の情報を流したのもベルティーユらしい。いったいどこから情報を仕入れたのやら」


 ショックなんてものではなかった。ベルティーユにだけは裏切られたくなかった。言いあらわしようのない絶望がのしかかる。なのに首の圧迫感が少し和らいだ。まったくもって嫌味ったらしいギフトだ。


 俯いたシャルルの手を掬い上げ、ジェラールが続ける。


「シャーリィ。これはヴィクトルからの提案なのだが……。しばらくのあいだ、教会に身を寄せてはどうだろうか? セラフィン殿のそばなら常に加護を受けられるし、彼なら必ずやお前を守ってくれる」


 ヴィクトルへ視線を向けると、居心地が悪そうにしながらも、赤くなった目をそらすことはなかった。


「イヴェールとの盟約を破談にはできないんだ。姉上はあと一年でイヴェールへ嫁ぐ。それまででいい。俺じゃあ、姉上を止められそうにない」

「ヴィクトル……、わかったわ。一年も離れるのは寂しいけれど」


 シャルルが頷けば、ヴィクトルは救われたように表情を和らげた。

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