第10話 天使が堕天する条件

 ドロテの一件があってからというもの、シャルルに護衛が復活した。ドロテに誘拐され、利用されたことを重く見た国王の判断だ。実際はシャルル自ら、のこのことついて行ったわけだが、たしかに護衛がいれば防げた事案だろう。


 おかげでひとり気ままに出歩くこともできず、顔だけの護衛たちのように撒くことすらできない。父王がつけた三人の護衛は有能だった。


「殿下、ドアから出ましょうか」


 トイレの脱走しようとしたシャルルは、に立つユーグに笑顔で押し戻され、あえなく撃沈した。


(なんで⁉ なんでわかったの⁉ どうして外で待ち構えてたの⁉)


 一番若い護衛のユーグは、機動力がある。二番目に若そうなジョエルは寡黙だが、気遣いのできる男だ。年嵩のアルマンは父の護衛だった人物で、隊長格。

 マルガレータが好む優面やさおもてはひとりもおらず、三人とも無骨で精悍な顔立ち。シャルルからすれば心強く、好ましい人選ではある。


(でもねぇ……。裏庭から林を突っ切って、飛んで行けば早いのに)


 悪魔の翼はしばらく封印だ。仕方なく、シャルルは歩いて目的地へ向かう。王城の東に面した一角に、小さな礼拝堂が鎮座している。といっても、結婚式を挙げられる規模の礼拝室に、告解室、司祭が住まう居室などがあり、ほかの教会よりは小さいという意味だ。

 城内に組み込まず、独立した建物であるから、王族だけでなく、城勤めの者なら誰でも気兼ねなく祈りを捧げられる。ちなみに城下町まで下りれば立派な大聖堂もあるが、移動に時間もかかるし警備面でもむずかしい。


 ここへ来た目的は、【天使】のギフトについて調べるため。

 アルマンから、「【天使】のことなら礼拝堂の書庫に」と聞いてやって来たのだ。



「おはようございます、シャルル殿下。どうぞこちらへ」


 有能なアルマンが話を通していたようで、出迎えたレナール司祭は、何も言わずとも書庫へ案内してくれた。赴任して数ヶ月の司祭だ。ここの司祭はよく人が入れ替わる。


「ご覧になりたいのは【天使】のギフトについて、でしたね?」

「うん。できるだけ詳しくね」


 レナールは一冊の本を手に取り、渡すでもなく広げて見せた。

 よわい三十を過ぎたところだろうか、司祭にしては若い部類だが、しっかりしている。


「こちらは大変貴重な本ですから、私がページをめくりましょう」

「…………」


 信用がないのは仕方がない。九歳の男の子が、大人のように本を扱うとは考えないだろう。甘んじてページをめくってもらう。


「この本は、天使と悪魔について書かれているの?」

「ええ。ふたつのギフトは対で生まれると言われております。【天使】のギフト持ちが降臨したならば、【悪魔】のギフト持ちも生まれているはずです」


 その口ぶりからして、セラフィンが【天使】のギフト持ちだと知っているようだ。「天使はセラフィン?」と名をあげると、レナールは穏やかに頷いた。


「ご存じでしたか。彼は類い稀な治癒能力を七歳にして発揮し、それを見たカルメ司教がぜひ教会にと進言なさったのですが、いやぁ慧眼でしたな。本当に【天使】のギフト持ちだったとは」


 それでいつもカルメ司教と一緒にいるのか。やり直す前、ふたりで歩いているのを見かけたことがある。セラフィンは瞳を伏せ、陶磁器でできた人形のように口もとだけで微笑んでいた。すべてをあきらめたような顔が、いまも頭から離れない。


「教会での生活は厳しいの?」

「そうですなぁ。特に【天使】のギフト持ちは<節制>や<忍耐>を強いられ、<勤勉>であることが求められます。ギフトレベルを上げるためには致し方なく」


【天使】の能力も全部で七つ。天使がギフトを与えたり書き換えたりできるのに対して、悪魔は他者のギフトを奪えるといったふうに、【悪魔】と【天使】は相剋している能力が多い。


「【天使】のギフト持ちにペナルティはあるの? 悪いことをしたらダメとか」


 レナールは顔を曇らせつつ、本のページをめくっていく。


「こちらにありますように、【天使】が悪感情を抱き、積もり積もれば……堕天いたします。悪行も人を殺めるなどすれば、もう【天使】ではいられませぬ」


 シャルルはこくりと喉を鳴らす。


「……堕天すると、どうなるの?」

「一三〇〇年ものあいだ死ぬことは許されず、生き地獄を味わうと書かれております」

「ひっ⁉」


 そんなに長い間、ひとりで生きなければならないのか。大切な人たちは年老いて死んでいくなか、どれだけの人を見送ることになるのだろう。あまりに悲惨な人生だ。


 悪行よりも、とレナールは一旦、言い淀んだ。


「【天使】が一番陥りやすい堕天行為は……、<純潔>を失うことです」

「<純潔>は、天使の翼を保つ能力だよね?」

「ええ。生涯、清らかな身を保つことが条件です。愛する人を想うのは構いませんが、一線を越えると……翼を失うだけではすみませぬ」

「うわぁ……」


 好きな人と結ばれただけで堕天するなんて、なかなか厳しい条件だ。我が国が信仰しているアムル教は、聖職者でも条件を満たせば伴侶を持てるというのに。

 その条件とは、生涯伴侶だけを愛すること。離婚不可。たったこれだけの条件なのだが、独身を貫く聖職者は多い。


 それはさておき、セラフィンには同情してしまう。【天使】のペナルティは重すぎる。一三〇〇年も孤独に生きるより、いいことをして昇天するほうがまだマシだ。


 レナールはいっそう眉根を寄せて続ける。


「特に相手が【悪魔】であった場合、接吻せっぷんだけで堕天いたします」

「――え⁉ そんな、何かの拍子にぶつかっただけで?」

「あぁいえ、長時間のくちづけと聞き及んでおります。ですから【天使】はまず<忍耐>能力を高め、完全無敵の“防御壁”を手に入れるのです。さすれば【悪魔】は近寄ることすらできません」


 ほかにも、<感謝・人徳>を積むことで祝福を授けられるようになったり、<節制>することで空間魔法が使える。<勤勉>であれば治癒魔法が使え、<謙虚>であればすべてを見通す神眼を得るという。

 天使の能力を説明しながら、レナールがついとこぼした。


「セラフィン様が慈善活動に参加なされば、早く能力が開花するのですが」

「<慈善・寛容>によって開花する能力は……、ギフトの付与や書き換えか」

「そうです」


 教会は農園や果樹園を営んでいる。その手伝いや、貧民街での炊き出しなどが慈善活動にあたる。


「教会に所属しているのに、セラフィンは参加していないの?」

「カルメ司教が禁止なさるのです。天使にさせることではないと」

「それは……」


 セラフィンが翼をパタつかせながら農作業や炊き出しをする姿を思い描き、言葉を濁した。カルメ司教の気持ちもわからなくはないが、シャルルとしては微笑ましくも思う。ともあれ、これでセラフィンの能力が偏っている理由がわかった。


 シャルルが持つ【悪魔】の能力は、最後の砦であった<傲慢>の花が結実し、いまや完全なものになっている。対して、【天使】の能力を持つセラフィンは、いまだにギフトの書き換え能力が開花していない。だからベルティーユも十九歳までギフトを書き換えられなかったのだ。



 別れ際、背を向けたところでレナールに呼び止められた。


「殿下、よろしければ、セラフィン様を気にかけていただけませんか? 彼は友達がいないようですので」

「セラフィンとはもう友達だよ」

「おお、そうでしたか!」


 愛好を崩して手を振るレナールの姿が、シャルルが見た最後だった。その日を境に、レナールはほかの教会に移ったと、のちに知らされることになる。



 ***


 夜の礼拝堂は燭台の灯りも消え、薄暗い。訪れる者などいないはずなのに、声が聞こえた気がしてレナールは目を覚ました。この礼拝堂を預かる身としては、確認を怠れない。


 ガウンを引っかけ、ランタンを片手に廊下を進む。祭壇横の扉が少しひらいており、蝋燭の光が揺らめいている。レナールはまだ三十二歳、この年で物忘れとは情けない。そう思いながらも、消灯を確認した記憶が頭をよぎる。


 ――おかしい。確かに消したはずだ。


 礼拝室への扉に手をかけたところで、何かがうごめいていることに気付く。そうっと扉を引いてみると、祭壇の上には翼を広げた天使が一糸まとわぬ姿で立っており、無表情――というより無関心に――曇り空のような瞳を伏せている。その足もとには、一心に祈りを捧げる男の姿があった。


「ああ、私の天使……私だけの……」


 男の呼吸はひどく乱れ、頬は紅葉し、その横顔には狂気の色が見てとれた。男が手を伸ばすたび、白い雲が天使を包んで寄せつけない。それでも男はうれしそうに笑った。

 レナールはおどろきのあまり、声を裏返す。


「なっ⁉ カルメ司教、何をなさっているのですか⁉」


 カルメはピクリと肩を揺らしたのち、ゆっくりとレナールへ振り向いた。その瞳を見て、レナールは自身の軽率さに気付く。カルメはまったく悪びれた様子もない。これから起こす己の行為にも、迷いがないのだろう。不穏な空気がそう伝えている。

 だからといって、レナールもここで引くわけにはいかなかった。


「あなたは、セラフィン様を……天使様を堕天させるおつもりか⁉」


 ジリジリと後ずさるも、すぐ壁にたどり着く。

 カルメは優雅に近付きながら、懐から犬笛を取り出した。


「崇める行為で堕天などしませんよ。これは天使の<忍耐>能力を強化させるため。まぁ……君には、わからないかな?」


 穏やかに首をかしげ、問うような口ぶりだが、その瞳は返事を求めてはいなかった。

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