本編❶ 禁断の聖地
新春の息吹が、本栖湖の畔に静寂な時を刻む。時刻はまだ七時を迎えていない。夜明けの幕開けと共に、朝焼けに照らされた富士の霊峰がもやに包まれ、神秘的な姿を風が吹くたびに覗かせていた。
しかし、その神々しい姿の裏には、不穏な空気が漂っていた。ザワザワと風が湖面を撫でる音が、静けさを破り、富士山の表情が一瞬にして変わる。
青と橙色が混ざり合う空の下、純白の衣をまとった山並みが湖面に映り込み、その美しい姿は水鏡のような静寂さを漂わせていた。僕らの先には人々の足跡が一切なかった。
大学の卒業を記念し、僕たちは正月休みを利用して、写真部の仲が良い男女ふたりずつの四人で撮影旅行に来ていた。僕たちの目的は、ダイヤモンド富士を写真に収めること。それは、富士山頂に太陽が重なる、朝夕の自然が織りなす奇跡の瞬間だ。
しかも、今朝はまだ有明の白い月が残っている。こんな富士山にかかる雪月花のシャッターチャンスは百年に一度かもしれない。
だが、その神秘の絶景を捉えるためには、雪をかき分けて撮影ポイントに近づき、もやが晴れるのを待つ必要があった。
シャリシャリと雪を踏みしめる音が、静寂な世界を切り裂き、僕らの歩みを重くした。そして、それが僕たちを未知の恐怖へと誘う罠だったかもしれない。
富士五湖の中でも最も西に位置し、真冬でも凍らない不思議な本栖湖。そこには古くから伝わる呪いがあり、地元の人々に魔性が棲む神秘の湖と恐れられていた。湖に映る月の下で消えた旅人の話は、今もこの地で語り継がれている。
湖の透明度と深さは、白銀に覆われた湖畔の景色とラピスラズリの宝石のように輝く水面、そして森のコントラストをより一層神秘的な美しさへと引き立てていた。
けれど、その美しさの中には、何か魔物が潜んでいるような気配があった。
魔性の湖の近くには、山手線の内側の半分に面積に相当する青木ヶ原の樹海が潜んでいるという。
遥か昔の864年、富士山の噴火によって流れた溶岩流で樹林帯が形成されている。そのときの溶岩は、本栖湖にも流れ出し、水位が上昇して周辺の集落を水没させたといわれている。
湖底からは、人々の生活の足跡になる土器が発見されたそうだ。その土器は、水没した集落の人々が何らかの理由で慌ててこの地を離れたことを示している。その理由は、今も解明されていない。
この樹海は、「一度足を踏み入れたら、忘れられた運命と、消え去った人々の囁きを耳にして二度と出られないらしい」という都市伝説が残っている。
もちろん、ここに来るまで魔性が棲む神秘の湖、都市伝説など、僕は戯言だと信じていなかったが……。
亨治が、突然に声を上げた。彼は、いつもひょうきんで歴史好きな人気者だった。
「みんな、寒くないか? もう、手足が凍えそうだよ」
彼の言うとおり、雪が舞い上がり、木枯らしも吹き荒れ、僕たちの耳は赤く染まっていた。残念だが、ダイヤモンド富士の撮影はお預けの雰囲気が漂っていた。
「せっかく来たのに、ああ残念」
このメンバーの中では、いつも一番気丈夫な百合子が仕方なさそうに呟いてきた。他の仲間たちもその言葉に頷いて、異口同音に賛成した。
「ほら、あそこに明かりが見えるよ。少しだけ、様子見しよう」
僕は諦めきれなかった。
でも、このままでは凍死してしまうかもしれない。僕らの先にはあばら家のような小屋が見えたので、寒さをしのぐことができるだろう。
一歩一歩森の奥へと進むたびに、カサカサと枝の折れる音や、遠くで聞こえるカラスの不気味な鳴き声が、僕の不安を煽った。
用心深い百合子が、戻れなくなるといけないからと木の枝に赤い紙テープをひとつずつ巻き付けていた。
でも、良いことばかりではなかった。
突然、ガサガサと魔物が近づく音がして、得体の知れない誰かに見つめられている気配がした。そして、シャーという遠吠えが耳元を通り過ぎ、心臓を凍らせた。木立の合間から、牙をむいた猫が僕たちを警告するように黒い姿を現した。
「キャー。怖い」
いつも怖がりな優奈の悲鳴が、森の中に響き渡った。それは、あたかも、「これ以上入って来るな」という忠告のようなざわめきとなった。
後ろを振り返っても、先ほど通り過ぎた入口はすでに見えなかった。しかも、もやが深くなり、僕らは暗闇で覆われていた。もうここまで来たら、後戻りはできなかった。このまま明かりの見える小屋まで突き進むしかなかった。
僕たちはようやく小屋にたどり着いた。僕はここなら大丈夫だろうと、ほっと安堵した。そこには、鏡の祀られた祠があり、蝋燭の火が揺らめいていた。
小屋の隅で、埃をかぶった古文書のような日記を見つけた。その日記には、戦国時代にこの樹林の奥で起こった哀れな落ち武者狩りについて書かれていた。
ところどころのページは朽ち果てて読めなかったが、武将らしき名前が綴られていた。これは、後世の人々の手により描かれたものだろうか……。
日記は、まるで何かを語りかけるかのように、僕たちの目の前に現れた。その古ぼけたページをめくる僕の手は震え、心は不安でいっぱいになった。
日記を読み終えた後も、恐怖で背筋が凍るような感覚が余韻として残った。
そのとき、日記から抜け出した吸血鬼の蚊食鳥が、まるで「この森から出て行け」と警告するかのように、バタバタと大きな羽音を立てながら小屋の中を飛び回った。その不気味な魔獣の姿に驚愕し、恐怖で心まで凍りつく感覚に襲われた。
僕らは手で、吸血鬼を追い払いながら、夢中で外に飛び出した。
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