第二章 ~『立ち去る映雪』~


 朝露が輝く南門の石畳を背景に、琳華りんふぁ麗珠れいしゅ、そして映雪えいせつが集まっていた。まだ朝の早い時間だからか、この三名以外の人の姿はほとんど見えず、僅かに見えるのは遠くで巡回する宦官の人影だけである。


 南門の扉は閉ざされており、静かな空気が流れている。門には幾多の風雨に耐えてきた痕跡が残っており、周囲に並び立つ古木も合わさり、歴史を感じさせる佇まいとなっていた。


「これでお別れですね、麗珠れいしゅさん。それに琳華りんふぁも。見送ってくれてありがとね」


 映雪えいせつの告別の言葉は静かながらも、麗珠れいしゅ琳華りんふぁの心に深く響く。


映雪えいせつ、後宮の外でも元気でね」


 麗珠れいしゅは別れの言葉を呟く。その声は儚げで、切なさを帯びていた。彼女の目には涙が溢れ、内面に秘められた感情が垣間見えた。


 映雪えいせつ自身はこの別れを受け入れているのか落ち着いていた。新たな道を歩む覚悟が表情に滲んでいる。


「他の女官や宮女にはまだ映雪えいせつが辞めたことを伝えてないの。見送りを盛大にできなくて、ごめんなさいね」

麗珠れいしゅさんが謝らないでください。理由が理由ですから。納得していますので」


 琳華りんふぁの願いによって、映雪えいせつが罪に問われることはなくなった。だがいくら無罪放免とはいえ、皇后を欺いた事実は変わらない。その負い目に耐えながら残ることはできないと、映雪えいせつは後宮を去ることにしたのだ。


「借金は大丈夫なのですか?」


 琳華りんふぁが問いかけると、映雪えいせつはニンマリと微笑む。


「退職金で借金を返せるだけの金額を頂いたの。だからもう人を騙して生きる必要もないわ」

「きっと皇后様の計らいでしょうね」

「私、皇后様には感謝しているの。後宮への恨みが綺麗サッパリなくなるほどにね」

「それを聞けば、皇后様もきっと喜んでくれますね」


 責任感の強い皇后は、過去の冤罪に罪の意識を感じていた。借金から解放され、幸せになったと知れば、彼女の心も救われるはずだ。


麗珠れいしゅさん、長い間、お世話になりました……」

「私もよ……映雪えいせつにはとても助けられたわ」


 麗珠れいしゅの手がゆっくりと映雪えいせつの震える肩に触れると、悲しみを和らげるように、やさしく抱きしめる。


 温かさを感じ取り、映雪えいせつの瞳から涙が溢れ出る。頬を伝い落ちた一筋の涙は、二人の間に築かれた深い絆の証だった。


映雪えいせつ、あなたは大切な家族だから……もしも寂しくなったら、いつでも戻ってきていいからね」

麗珠れいしゅさん……ぐすっ……私はあなたの下で働けて本当に良かったです」


 震える声で映雪えいせつは感謝の言葉を紡ぐ。二人は涙に濡れた微笑みを浮かべながら、別れを惜しむように強く抱きしめ合う。


 その様子を琳華りんふぁは静かに見守る。数秒後、別れを惜しみながらも、映雪えいせつ麗珠れいしゅは手を離して涙を拭う。


 後宮を去れば会うのは困難になる。だが不可能ではない。外出許可さえ得られれば、再会は可能だ。二人はそれが分かっているからこそ、また出会う日を夢見て微笑んだ。


琳華りんふぁにも世話になったわね。嫌がらせについても改めて謝罪するわ」


 映雪えいせつがそう言葉を紡ぎ出すと、一瞬の静寂が空間を包み込む。琳華りんふぁはゆっくりと映雪えいせつを見つめ返し、深く息を吸い込んだ。


「私はもう十分にやり返しましたから……映雪えいせつ様を恨んではいませんよ」

「あなたは強いのね」

「よく言われます」


 薬を混ぜられた時も、やられて黙っていたわけではない。十分に意趣返しはしていたため、謝罪は求めていなかった。


映雪えいせつ様は、この後どこで働かれるのですか?」

「アテはないわ。当分、無職のままかもね」

「なら一つ提案があります。私が経営している宝石店で、一年間だけ働いてくれませんか?」


 映雪えいせつは驚愕で目を見開く中、琳華りんふぁは優しく微笑みながら話を続ける。


「その店は私が後宮で働いている間は休業中となっています。ですが、この一年でお客が店から離れてしまうかもしれません」

「なるほど。だから私に店を任せて、顧客の足が遠のかないようにして欲しいということね」

「仕事の対価として給金はお支払いします。売上次第ではボーナスも支給しましょう。如何でしょうか?」


 店の経営には宝石の知識が求められる。誰にでもできる仕事ではないからこそ、両親から技術を叩き込まれてきた映雪えいせつは適任者だった。


「私にとっては素晴らしい話ね。ただ本当に私でいいの? また裏切るかもしれないわよ」

映雪えいせつ様はもう裏切ったりしませんよ」

「どうしてそう言い切れるの?」

「私、宝石と同じくらい人を見る目にも自信がありますから」


 琳華りんふぁの声には揺るぎない信頼が込められていた。映雪えいせつは少し戸惑いながらも、琳華りんふぁの眼差しに心を打たれ、小さく頷く。


「分かったわ、琳華りんふぁ。私の負けね。これからはあなたが雇い主よ」

「ふふ、では任せましたよ、店長代理」

「どうかよろしくね」


 映雪えいせつは強がりながらも温かい笑顔を浮かべる。琳華りんふぁもほっと一息つきながら笑みを深めた。ふたりの間に新たな信頼の絆が結ばれた瞬間だった。

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