第一章 ~『慶命の狙い』~


天翔てんしょう視点』


 宝石の謎が解けた今、琳華りんふぁたちが大広間に残る理由はなくなった。


「では私はこれで失礼しますね」


 琳華りんふぁは頭を下げ、静かに立ち去ってしまう。天翔てんしょうは彼女の背中をしばらく目で追いかけてから、その場を離れる。


 彼の脳裏には、この夜、琳華りんふぁと交わした会話が深く刻まれていた。ふとした瞬間に見せた彼女の強さや優しさが、彼の心を捉えて離さなかった。


 天翔てんしょう琳華りんふぁが去っていった方向をもう一度振り返る。既に彼女の背中は見えない。寂寥感を覚えながらも、口元には笑みが宿る。


「面白い女性だったな……」


 天翔てんしょう琳華りんふぁを思い出しながら、足を宮殿へと向ける。皇族と一部の者にしか立ち入りを許されていない特別な建物であるが、彼の足取りに迷いはない。


 宮殿は鮮やかな柿色の屋根瓦に覆れており、月光に照らされて、その煌びやかなデザインを夜空に輝かせていた。


 厳重な門扉もんぴを抜けると、長い廊下が続いており、突き当りには広大な中庭が広がっている。水面に月の光が反射し、幽玄な雰囲気を醸し出していた。


 その優美な光景を眺めていると、待ち構えていたかように人影が近づいてくる。


天翔てんしょう皇子、いまお帰りですか?」

慶命けいめい……」


 人影の正体は総監である慶命けいめいだった。彼との邂逅に、天翔てんしょうはうんざりとしてしまう。


「まるで嫌なものでも見たかのような表情ですな」

「小言を抑えてくれたら、もう少し愛想を良くしても構わないんだけどね」

「手厳しいですな。ですが、儂は皇子の教育係でもありますから。これからも手を抜くことはありません」


 慶命けいめいとは幼い頃からの付き合いであり、皇子としての教養のほとんどを彼から指導されている。そのせいか成人しても頭が上がらない関係となっていた。


「宴は楽しめましたか?」

「予想していたよりはね」

「それはなによりですな」


 天翔てんしょうが宴に参加したのは、慶命けいめいから面白い出会いがあると勧められたからだ。彼の掌の上で踊っているようで癪だが、事実を認めないわけにはいかない。


琳華りんふぁにも会ったのですね?」

「たまたま同じ火鉢の近くに座ったからね。そして友人になった。出会いの機会を作ってくれて感謝しているよ」

「皇子の役になれたなら、臣下にとってこれ以上の喜びはありません」


 天翔てんしょうは皇子として育てられており、周囲の者には敬われるばかりで、対等な立場の者がいなかった。故に彼は身分を秘密にした上で友人を探していたのだが、とうとう琳華りんふぁという気の合う人物と出会ったのだ。


「彼女は皇子のお眼鏡に叶いましたかな?」

「まぁね。なにせ僕が友人になりたいと願ったほどだ」

「儂としては皇子が琳華りんふぁと恋仲になることを望んでいたのですが……」


 知らなかった狙いを聞かされ、天翔てんしょうは目を見開く。


「また悪巧みをしていたのか……でも僕に結婚願望はない。その狙いは外れたね」

「それは残念です」

「あまり懲りてないようだね……」

「簡単には諦めないのが長所ですので」


 天翔てんしょうが妃を取らないことを慶命けいめいは憂慮していた。政治的な安定には、跡継ぎ問題が避けて通れない道だからだ。


慶命けいめいが皇族の将来のためを想ってくれていることには感謝している。でも、琳華りんふぁとは友人のままだ。恋人にはならないよ」

「これからも絶対にないと断言できますか?」

「それは……」

「断言できないようなら、狙いは半分成功です」


 クスクスと慶命けいめいは口元を綻ばせる。いつもの天翔てんしょうならきっぱりと恋人にはならないと断言するはずだ。言葉を濁している時点で心が惹かれつつあることを見抜かれていたのだ。


「……仮に僕が恋仲を望んだとしても無理だよ」

「なぜです?」

「出自の問題で周囲から反対されるからさ」


 皇族にはそれに見合う高貴な妃が選ばれる。琳華りんふぁは織物屋の娘であり、平民の血を引いている。結ばれるには超えるためのハードルが高すぎると反論するが、慶命けいめいは動じない。


「問題ありません。昔ならともかく、現在の皇族の権勢はかつてないほどに高まっていますから。反対できる者などおりませんよ」

「父上や母上は?」

「賛成するでしょうね。今は縁談による勢力拡大よりも、地盤を盤石にすることが肝心ですから。そのためには家柄が良くても、傲慢で、皇子をたぶらかすような女では駄目です。次世代の皇后として、資質ある賢女が求められるのですよ」


 慶命けいめいの言葉は正しい。帝国は周辺諸国と比べると、軍事力、経済力共に抜きんでて優れており、ライバルとなる敵もいない。


 縁談の力で良好な関係を維持する必要がないため、求められているのは失敗しない婚姻だった。


琳華りんふぁの能力は申し分ない。さらに皇子の好みでもある」

「何を根拠に……」

「皇子とは長い付き合いですから。どういう女性が好みかは把握してますよ」

「…………」


 天翔てんしょうに結婚願望はないが、好ましいと感じる容姿はある。素朴で凛とした女性がタイプであり、その理想を形にしたような女性が琳華りんふぁだった。


「初めて会った時、ピンと来ましたよ。皇子なら絶対に気に入ると」

「随分と推すんだね」

「これは儂の問題でもありますから」

「君の?」

「将来、皇子の結婚相手は皇后として後宮のトップになります。つまりは儂の上司です。その人が馬鹿では困るという話ですよ」


 その点、琳華りんふぁなら理不尽を口にすることもない。慶命けいめいにとって望ましい皇后となるはずだ。


「結婚を望まないならそれで結構。人の意思など変わります。いえ、変えてみせます。皇子、どうかご覚悟ください」


 口元に笑みを浮かべながらも、慶命けいめいの瞳は真剣だった。彼は本気で琳華りんふぁ天翔てんしょうを結ばせようとしているのだ。


 そんな慶命けいめいの考えを諌めることはできない。天翔てんしょうに子孫を残させようとする彼の行動は国家の利益に繋がるからだ。


「では、皇子。儂はこれにて」


 慶命けいめいは軽やかにその場を去っていく。複雑な感情に包まれながら、天翔てんしょう琳華りんふぁに思いを馳せるのだった。


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