第10話 モグラといっしょに隷属生活


 2週間がたった。

 テラノヴァは地下で生活していた。

 地下洞窟のどんづまり、果樹園のさらにむこうがわにある地面の一角が、テラノヴァのすみかになった。

 

 そこは奴隷モグラたちが雑魚寝する寝所となっており、夜になるとモグラたちがもどってきて、密集して眠る。その一部にテラノヴァもはいった。

 

 最初の1日は全裸で地下の掃除をした。羞恥で耐えられなかったが、ゴミ捨てに行くときモグラの毛皮を見つけ、全裸生活はおわった。

 毛皮のなかみはきれいに食われ、脂もそぎ落とされていた。

 それを服のかわりにしてすごす。腐敗臭がしたが、はだかよりはましだった。


 1週間がすぎると農作業もやらされた。炎天下での草むしりや農作物の運搬はつらかった。中腰になるため腰が痛くなる。しかしいいこともあった。オアシスに生えていたつる植物をひきぬいて、つぶして繊維状にばらす。

 モグラにたのんで毛皮に穴をあけてもらい、それを編んだ繊維でつなぎあわせる。胴体をおおうだけの、かんたんな服ができた。

 

「キィー、キュウ」

「はい」


 朝になると、となりで丸まって寝ていた子供モグラが、からだをゆすって鳴いた。テラノヴァはモグラとくらべて、からだがおおきいため、一番はしで寝かされている。こどもの居場所でもあった。


「キュキキ」

「はい。取りに行きましょう」


 鳴き声の意味がなんとなく理解できた。

 目がさめると寝所のちかくの地面に、食事係が芋の山をはこんでくる。これはテントウたちは食べない奴隷用の食品だ。


 皮はうすく、身はやわらかいが、顔をしかめるくらいしぶい。そして量がすくない。体長1メートルのモグラ1匹につき、こぶし大の芋がふたつ。テラノヴァはその1.5倍ほどおおきいが、おなじくふたつだけ。


 全員が明らかに飢えている。その状態で肉体労働につかわれる。

 この環境では反乱を起こしたほうが快適にくらせると思うが、モグラたちは従順で、食事の取りあいさえおこらない。


「おはようございます。今日もがんばります」


『おはテラ~』

『早く装備見つかるといいな』

『もうすこしレンズの範囲が広ければ、もっと情報を集められるんだが……』


「あまり離れると魔力がとどかなくて、機能停止してしまいます。みなさんの情報、頼りにしています」


 地上に向かいつつ、小声で話をする。なぞの忠誠心と重労働が支配するオアシスで、月の人に偵察をたのんでいた。今のところの打開策はそれだけだった。


 今日の労働はナツメヤシ畑の整備だった。

 テラノヴァはモグラの鳴き声を正確に理解できないので、作業を適当に割りふられる。たいていが草抜きと水やりだった。


『果樹園の近くに建物は見当たらない』

『右端のモグラ、隠れて苺を食べている。近寄るととばっちりを食らうぞ』


 盗みは重罪だ。

 バレたモグラは狩りの班に回されるか、そのままテントウたちの食卓にあがる。

 モグラたちは全員が誘惑されて従っているが、ときどき飢えが忠誠をうわまわる。農作業で食物が近いと、どうしても手を出してしまう者が出た。


「キィィゥ! ギュィィィ!」


 あんのじょう、監視のワーレディバグにつかまった。盗み食いをしたモグラが、悲痛な叫びをあげている。


「キッ」


 すぐに声が聞こえなくなった。口元だけを顎に変化させたワーレディバグに、首を噛まれ、絶命していた。

 めずらしくない光景に、だれも反応しない。死が身近にありすぎる。


「かわいそうです」


『少し待っていればいいのによ』

『魔物だからなぁ……』


 昼になると食事になる。

 芋がひとつだけだが、昼は水が飲める。オアシスの水辺にはモグラたちが群がり、顔をつっこんで飲んでいる。

 テラノヴァはこの時、コラリアを水中にはなした。 

 ほどなくして白っぽい20センチほどの魚を捕まえてきた。これがモグラたちと交渉する材料になった。雑食のモグラに魚はごちそうだ。彼らは地中生活が基本なので、捕まえる技術がない。

 

「キュィィ……」

「はい。交換しましょう」


 魚1匹で芋がふたつ手にはいる。朝食を我慢して交換する者もいれば、2匹でしめしあわせてひとつだけ芋を食べ、のこりを持ちよってくる者もいた。

 この交換のおかげで、異種族の奴隷仲間としてうけ入れられた。

 芋を通貨にして個人的な仕事も頼める。


「ごめんなさい。木はいまいりません」

「ンキュゥ……」


 折れたナツメヤシの枝を持ってきたモグラを断った。

 数日前、地下に生えるリンゴの枝を選定したとき、枝を数本盗んでもらった。お礼に魚をわたし、さらに砂に絵をかいて、となりに枝をならべた。

 枝をもって石をつかってけずり、おなじ外見に加工しようとしていると、なんどか動作してしめす。

 地面にえがいた絵を囲んでいたモグラのなかで一匹が枝をとった。石をえぐる爪で、器用にけずりとってゆく。


 4日で削り出してくれた。するどい爪で加工された杖は、稲妻のようにねじ曲がり、魔術的ないみあいを持ったうねりが再現されていた。

 テラノヴァはお礼に芋を8つと魚を2匹わたした。モグラは喜んで食べていた。

 

 杖があれば抵抗できる。

 血を塗料に呪文をこめて「一瞬の呆然の杖」を作ろうとした。しかし封呪が完成するまえに没収された。労働にでているあいだに、岩のすきまに隠していた杖を、見つけられてしまったのだ。


 その取引をおぼえていたモグラが、盗んだ枝を交換しようともってきたのだった。


『魔物の表情が結構わかるな。がっかりしていた』

『かわいそう』


「良い場所がなければ、また見つかるだけです。思ったよりも検査がきびしいです……ワーレディバグはモグラを誘惑してはたらかせていますが、信用していません。極力、よけいな情報をあたえたくないのでしょう……難しいです」


『コラリアを使って一匹ずつテントウムシを殺そう。バレても全員から八つ裂きにされるだけだ』

『荷物がないと逃げ出しても野垂れ死にだよね』

『倉庫があったけど、扉が閉まってたからわかんない』

『おまえが命を助けた子に頼れ。毎日狩りに行ってる子だ』


「狩り班ですか。死傷率が高いので、あまり行きたくはありませんが……他にできることがありませんし、明日たずねてみます」


『がんばえー』

『オアシスで働いているだけじゃ、進展はなさそうだしな』

『気を付けてね』


 つぎの日の朝、狩り班に参加したいテラノヴァは、「行きたい、行きたい」と胸をたたきながら、熱烈にアピールすると、参加をゆるされた。


「イッショ、ウレシイ!」


 命をたすけたワーレディバグが喜んでいた。彼女が狩り班をしきっている。

 狩り班は10名から構成される決死の懲罰隊で、天河天道がこのむ動物の肉を、砂漠にさがしに行くのだ。


「ブキ、エラブ」

「私のかばんを使いたいです。そこに武器が入っています」

「ダメ、ブキ、エラブ」


 モグラが持ってきたのは、金属製の剣や斧だ。

 どれも重くてテラノヴァには使いにくい。

 かばんがほしいと説得をつづけたが、持っていく武器は決まっていると、片言で拒否された。

 一時的に妥協した。いくつか手にとって、一番軽い鎖のスリング紐をえらんだ。本来は投石につかう武器だが、使うつもりはないので、怪我をしたときの止血紐にでもなればいいと考えていた。

 モグラたちは武器を持たない。両手に生えた鋭い爪で十分。しかし疑問があった。


「モグラたちの爪は強い武器だと思いますけど、あまり動きが早くありません。砂漠の魔物を倒せるのですか?」

「……」


 ワーレディバグは手を前後にうごかしている。

 手をたたいて、何かを呼ぶ動作をしている。そのあとモグラを指さし、両手をかかげて襲うジェスチャー。


「わかりません」

「ウー……」


 両手を胸のまえでこねるうごき。それでも言葉が出てこないので、最終的には眉をさげて泣きそうになっていた。


「どういう意味です」

「カリ、イク」


 肩をおとして先頭をすすむワーレディバグのあとに、モグラたちがぞろぞろとつづく。テラノヴァは最後尾についた。すこしだけ溜飲が下がったので、口角をあげて小声でつぶやいた。


「……自分の考えをあらわせる言葉がわからないと、もどかしいのでしょう」


『かわいそうで笑った』

『虫けらが複雑な言葉を話せるかよ』

『やっぱあの子をだまして荷物を取り返すしかねーな』

『そういえば個体名をつける知能はあるのかな?』


「確かに名前があるのか気になります。聞いてみましょう」


 列を追いこし、先頭にゆく。


「あなたに名前はあるのですか? 私はテラノヴァです。わたし、テラノヴァ、あなたは?」


 人差し指で胸をついて、名前をつげる。こんどは表現できる内容だったのか、ワーレディバグは自慢げにあごをそらした。


「ラー。ワタシ、ラー」


 ラーというらしい。それが種族全体をさしている可能性があったので、ナツメヤシ畑にいるワーレディバグを指さして、ラーと言ってみる。


「チガウ。ムー」

「わかりました。ラー、私のかばんを返してください」

「ダメ」


 なんども言いつづければ態度が軟化する可能性がある。

 月の人はそんなことを言っていた。テラノヴァは逆に嫌われる可能性を考えずに、お願いしつづけた。説得のバリエーションは、リアルタイムで月の人に教えてもらう。


「どうしても駄目ですか?」

「ダメ」

「一度だけ触らせてくれませんか? あなたたちの役にたつ品物を、とりだせます。一度だけでいいです」

「ダメ」


「ラーがこっそりかばんを貸してくれるだけで、もっとみんな幸せになれます……コウリシュギを考えれば、ラーのちいさな罪が、全体の幸福をそこあげするので、むしろ罪が罪ではなく善行になります」

「……ダメ。ワカラナイ」


 テラノヴァも自分が何を言っているのか、わかっていなかった。おそらく氷の魔法に関連する説話だろう。


『もっと直接的に行け。単純接触効果で好感をいだかせろ』


(からだに触れろって意味ですか?)


『そうだよ』

『愛をこめてな』


(わかりました)


 手をのばし、そっと指をからませる。


「ナニ!? ……コドモ、ツクル?」


 ラーは首を急旋回させて、テラノヴァにむける。だまってほほえんでいると、そっとにぎり返してきた。

 手をつないでいるだけで好意をいだくのだろうか。はなはだ疑問に思ったが、ほかにひらめきがない。

 そのまま手をつないで、礫砂漠を歩いてゆく。


 早朝をすぎると、日差しが強くなった。

 汗ばんだラーの手は、おおきくて厚みがあった。大質量が人間化しているため、高密度なのだ。

 愛をこめてと月の人は言っていた。

 愛とは精神的にかべのない空間を、共同でつくりあげる行為。すなわち性交の同意だ。


 リードやレーニを悦ばせた方法をおもいだす。あのときは愛撫したら喜ばれた。ふたなり棒を入れるともっと喜んでくれた。あのときのように優しく愛撫すれば、共感されるかもしれない。


「……ウッ!」


 おたがいに与えあった快楽を思い出したとき なぜかラーが中腰になった。手をつよくにぎってくる。行列がとまった。


「どうかしましたか?」

「ワカラナイ……アツイ」


 腰砕けになってしゃがみこんだので、背中をさする。触れあうチャンスだ。

 わざとからだを密着させて、気づかいの言葉をかけながら、背中をなでなで。さらにほかの部分にも手をのばす。

 夜空の色をしたローブの、みじかいすそに手を忍びこませる。太ももをなですさり、お腹にむけてうごかす。


「胸がくるしいですか?」

「ナイ……ウ、ナイ……」


 はち切れそうな胸をささえ、なであげる。おどろくほどやわらかく、指にあわせて形がかわった。


「立ちくらみかもしれません。落ちついて深呼吸してください」

「ウッ、スゥーウウ……」

「こわくありません。ゆっくり、息をとめて、すって、はいて──」


 からだをさすりつづけると、ラーはまえかがみになってゆき、やがて手で顔をおおって、しゃがみこんだまま、うごかなくなった。耳が赤くなっている。


「まだ悪いみたいです。もっとさわります」


『よし、効いているぞ』

『モグラどもに見せつけてやれ』


 後ろではモグラたちがながめていた。

 彼らは食物を盗んだ重犯罪者で、餌になるかわりに狩りに参加している。

 ワーレディバグに誘惑されているため、自我にとぼしいが、主人の痴態を興味深くみつめていた。


『お尻もなでろ。今ならいける』

『言葉での愛撫も忘れるな。とにかくほめろ』


 ローブの布地から、くっきりと浮きあがっている臀部の丸みをなでまわす。ラーのからだがビクリとふるえた。そのまま耳のそばに顔をよせる。


「ラーさんかわいいです。呼吸が荒いですが、もっとなでましょうか?」

「ナイ……ダメ……」

「心配です。もしかしたら精神が不調で、からだに負担がかかっているのかもしれません。私の友達が悩んでいたとき、解決した方法があります。試してみます」


 自分よりも大柄の女性を、揉みしだく経験は新鮮だった。柔らかい布ごしに、心地よい弾力がかえってくる。さらに肌に直接ふれると、吸いつくようにやわらかく、興奮した部分がしめりけを帯びた。


「知ってます。ほんとうは気持ちがいいのでしょう」

「ナイ……ダメ。ナイ……」


 テラノヴァはふたなり化したときの、飢えた記憶を思いだした。

 疑似精液を発射したときのすさまじい絶頂も。

 あの時の相手をむさぼる感覚はすばらしかった。奉仕すればするほど、さらに興奮した。

 そのあまい記憶を思いだしながら触れる。ラーから高い声があがった。

 

  #

 

 ラーははじめて知った快感にさらされていた。

 ふれられているだけで、皮膚からぞくぞくする刺激がやってきて、内側が切なくなる。 


 まるで刃物の先端で皮膚をなぞられているような、きわどい刺激──布ごしにもかかわらず、からだの芯まで浸透してくる。

 それだけではない。なでられたあとにもあまい余韻が残った。そこにはもう指がないのに、その形の感覚が残っている。それがもう一度消え去ってゆくとき、二重になでられた快感があった。


「……ウ」


 我慢しているが、自然と声がもれてしまう。

 まだオアシスからほとんど進んでいないのに、同族に発情した声を聞かせたくない。


「フーッ……ウーッ……」


 ニンゲンは心配だと言って、執拗になでまわしてくる。逃がしてくれない。うまく拒絶を言葉にできない。

 もどかしくなり、ずっと触れられてしまう。

 ラーは羞恥にたゆたいながら、やはりこのニンゲンと子供を作るべきだと確信していた。


 テラノヴァと名乗った奴隷は、とてもすごい力を持っている。誘惑が効かないし、逆に気持ちよくさせてくれる。

 今も、光の手がしりをなでてゆく。背中、太もも、胸、お腹があたたかく気持ちいい。


 テラノヴァが雄だったら、ラーはとっくに仰向けになって、手足を広げ、子作りをせがんでいただろう。これほどの気持ちよさを与えてくれるのだ。なみのニンゲンではない。


「フウウ……」


 ささくれだった精神の、緊張が抜けてゆく。

 連日の狩りで、ラーは疲弊していた。酷使したからだは、寝ても疲労がぬけきらず、朝から動作が重かった。


 とくに精神が摩耗していたが、心地よさがやさしく心をあたため、傷つけられた木が樹液を出して傷口を癒すように、快楽がヒダにふたをして、しみこんでいった。


「イイ……スキ……スキ」


 この奴隷なら、何もかも任せられる。たとえ巣から追い出されても、いっしょにいれば快適な生活を送らせてくれる。

 ここ最近、失われつつあった安楽──思考を放棄する安心を思い出していた。


 ラーが危険な狩り班にずっと配置されている理由は、巣のメスから死を期待されているからだ。

 今、ワーレディバグの集落は緊張状態にある。


 ラーの父親で家長のサー・Aが死にかけており、異母兄弟の息子で次期家長のサー・Bがそのあとを狙っている。サー・Aが死に、その息子があとを継ぐと、巣ではじまるのは、血のつながった親族の追放だった。

 ラーは追放側に入っていた。

 家長が変わるとそれ以外の血族は不要になる。


 父親の伴侶だった5匹のメスと、サー・Bの姉妹である6匹のメスは、巣を追い出される予定だ。巣に残るのは別の家系の7匹のメスたち。

 ラーは巣穴に残るメスから、すでに明確な敵意を受けていた。

 彼女たちにとってラーはいずれ追い出す不要物であり、もはや巣のリソースを割くだけの価値は認められていなかった。


「ウグ……ッ」


 弛緩したからだの敏感な部分に触れられ、せなかに快感がはしった。腰が砕ける。ずしりと腹からあたまにかけて、重い快感が内部にとどまり、発火する。


「クアア……」


 だらしなく開いた唇からよだれがこぼれた。平静を装うにも快が強すぎる。昆虫形態のように身体を丸めて、波が去るまで耐えるしかない。


 ああ、この奴隷はやっぱりすごい。しらない気持ちよさを与えてくれる。

 この奴隷にずっと奉仕されたい。巣を追い出されても、辛い砂漠の放浪生活でも、この奴隷さえいればこわくない。


 また耳元でささやかれた。かばんを返してほしい、返してほしい、返してほしい──とくすぐったい声で連呼される。


「ミンナ、ツカウ……ダメ」


 まただ。奴隷が許されない考えをそそぎこんでくる。

 あれは巣のみんなが使う共有財産だ。そう決まったのだから、もう変えられない。


「ダメ、ミンナ、ツカウ」


 そう伝えると、なぜ──と問われた。


 生殖器付近をなでられた。ニジリと脳にあふれだした快楽と混ざって、疑問の声が反響する。ラーの知らぬあいだに気持ちよさで発達した神経が、疑問の答えをべつの回路で考えさせる。


 なぜ決まっているのか。

 家長であるサー・Aがそう決めたからだ。

 あたりまえの答えだが、今まで思いつきもしなかった疑問がわいた。


 サー・Aがそう決めたが、あとを継ぐのはサー・Bだ。代替わりすると自分は追い出される。品物はサー・Bの支配する巣の運営に役立つ。

 役に立ったところで、ラーはもういない。


「……イナイ、ワタシ、イナイ」


 今まで個の概念よりも、巣に対する忠誠が高かったが、それに含まれない自分を考えると、忠実である意味がわからなくなった。

 みんなのなかに自分は入っていないのだ。


「ダメ……ジャナイ……」


 はじめて否定以外の言葉を口にしたとき、テラノヴァと名乗った奴隷は、嬉しそうにほほ笑んだ。その喜びが伝わってきて、身体を震わせた。奴隷が喜ぶとうれしい。ラーは共感と奉仕精神をおぼえはじめていた。


「カバン、ワタス」


 半日後。

 狩りを終えたラーは、大物の死体を巣に持ち帰った。砂岩呑牛のこどもから切り取った肉を、大伽藍の中央につみあげる。鮮やかな赤い肉に、脂肪の白が走っている。いかにも柔らかそうな肉だった。

 

「ニク! オレ、クウ!」


 人間形態のサー・Bが走った。家長が鎮座すべき椅子から立ちあがり、ラーに労いの言葉さえ言わずに、肉にかぶりついた。巣に残るメスたちもご相伴にあずかる。

 ラーは普段ならばすぐに退出するのだが、このときはその場に残った。肉を食い散らかすワーレディバグたちに、大きな声で話しかけた。


「ケン、オレタ! カワリ、ホシイ!」

「ウルサイ!」


 メスの一匹がかじっていた大腿骨をラーに投げた。あたまにぶつかって落ちた。普段ならばすごすごと出ていっただろう。しかし今のラーは怒りを覚え、それを耐える心をもっていた。


 数分後、もう一度叫ぶ。

 

「ケン、カワリ、ホシイ!」


 骨を割って髄をすすっていたサー・Bが、面倒そうに身体をあげ、ラーに向かって鍵を投げた。巨大な画鋲のような形の鍵がラーの胸にぶつかってはずんだ。


「トレ。ウルサイ。オマエ、ミル」

「タベル」

「イケ!」


 メスが一匹、ラーの監視についてきた。

 伽藍の南東、家長が管理している武器庫に向かう。ついてきた見張りのワーレディバグは、肉が気になるのかしきりに振り返って、伽藍に視線をやっている。


「タベル。イイ。ワタシ、ヒトリ、デキル」

「ダメ。ミル」

「タベル、アト、ミル。イイ?」


 食べ終わったあとで、見に来ればいいと提案すると、メスは鼻を鳴らした。


「フン」


 走って伽藍に戻っていった。食欲に負けた監視者が消えて、ラーは不敵に笑った。

 とびらに鍵をさしこむ。閂がはずれ、石のとびらを押すと、奥に開いていった。


「カバン……ドレ」


 倉庫のなかには昆虫の顎や、動物の鋭い骨、人間から奪った武器、防具などがしまい込まれている。分類されていないため、あちこちをひっくり返す必要があった。かけてあるモグラの毛皮をとって、下につまれた服を確認する。急がないと疑われる。


「……ナイ」


 テラノヴァから奪った服とかばんは、ひとまとめにして置いてあるはずだ。

 ラーははいつくばって地面をさぐった。運びこんだのはモグラだ。重要でない道具だと判断されたなら、邪魔にならない地面のなかに置いているかもしれない。


 土をはらうと、ひらべったい石があった。それをうごかすと、マントをうえに一式の荷物がみつかった。作りかけの杖もある。


「アッタ! トル」


 ラーはそれらを抱えて倉庫を出た。倉庫の影に隠したあと、鍵をかえす。

 ふたたび手に持ち、モグラの寝所にむかった。途中で異母姉妹のムーとであった。彼女はラーの荷物をみとがめた。


「ヌスム、ダメ。カエス」

「チガウ。ヒツヨウ」

「ヌスム、ダメ!」


 服は戦利品である。しまっているだけで価値があり、それ以外の目的には使われない。

 ムーは険しい表情でラーの両肩をつかんでいる。このまま大声を出されたら、余計な相手にまで見つかってしまう。ラーはこれまでにない勢いで頭を回転させた。


「ワタシ、ウシ、トッタ」

「ウシ!? スゴイ!」

「ドレイ、ウシ、トル。ブキ、ヒツヨウ。サー・B、カギ、クレタ」

 

 あくまで命令に従ってやった。何も逸脱した行為はしていない。そうたどたどしい言葉でムーを説得する。奴隷には装備が必要で、それがあれば牛がさらに取れる。次期家長は了承済みである。

 

 ムーはあまりあたまがよくないので、ラーのいう複雑な内容がわからなかった。

 道具をゆるされており、もっとべんりになって、牛がてにはいる。何も違反していない。

 声を聴いていると納得してきた。なにも違反していない。



「ヌスム、チガウ?」

「チガウ」

「ワカッタ」


 ムーは手を離して去ってゆく。

 ラーは洞窟の奥に向かいながら、自分の言葉に感動していた。ラーはこれほど話した経験ははじめてだった。今まで何も考えずに命令に従い、困ったら暴力をふるった。


 それ以外の方法を知らなかったが、言葉で相手を説得できた。とてもまぶしい、知識のかがやきに触れた気がした。

 寝所にいるモグラたちをかき分けて、テラノヴァのいる壁のすみにいった。


「トッタ!」


 荷物を見せると特別な奴隷は笑ってくれた。

 ラーもうれしくなった。


   #


『いまだ! 杖でぶん殴れ』

『この虫けらやるじゃん』


(もってきてくれました)


 テラノヴァは一か月ぶりに自分の服を着た。着心地がよくて、なぜか贅沢をしている気分になる。

 モグラの毛皮で作った服とくらべて、ささくれがなく肌触りもいい。脂と獣の匂いもしない。


 かばんも壊れていなかった。

 一番上等の干し黄金杏子をとりだし、コラリアにご褒美としてわたす。

 触手が巻きとって口に運んだ黄金杏子を、ラーが目で追っていた。そのときフェロモンでも分泌されたのか、近くにいたモグラたちが起きだした。騒がしくなるまえに、退散する。


「ありがとうございました。もうひとつお願いがあるのですが、聞いてくれませんか?」

「ナニ?」

「海岸まで私を運んでください」

「ソト、ダメ。ハタラク、イイ」

「私は旅の途中です。ここで奴隷をしている暇はありません。どうかそとに出してください」

「デモ……」


 ラーは手を動かして考えこんでいる。その手を握って、身体を引き寄せる。


「ウ……ウウ……」


 愛情をもって背中をなでまわすと、ワーレディバグから抵抗力が消えていく。もうひと押しとばかりに、首筋に舌をはわせた。


「ウア……ア……ヤメル……ダメ……」

「お願いします。私を出してください」

「ン……ワ、ワカッタ……ダス……イク……」

「いい子です」


 背伸びをして頭をなでると、ラーは大人しくしゃがみ込む。そのままわしゃわしゃと髪をなで、背中からなでつける。

 大柄なのに大人しくて可愛らしい。ラーは膝を抱え込んで、頬を染めてテラノヴァを見上げていた。


「ナツメヤシ畑で待っていますから、朝になったら海岸まで運んでください」

「ヤクソク……」

「運び終わったら、たくさんなでてあげます」

「ウン」


 ラーはうなずいた。これだけ言えば、きっと来るだろう。

 モグラのあいだを通り抜けてそとを目指す。まだ安心できる状況ではなかった。

 モグラたちは大人しいが、本質的には敵である。ラーやそれ以外のワーレディバグが攻撃を命令すれば、テラノヴァを八つ裂きにするために襲いかかってくるだろう。

 できるだけ刺激せずに、寝所を抜けた。


 出口までは見つからなかったが、地上につづく坂のまえに、一匹のワーレディバグが見張りをしていた。月の人の情報では、坂の両側に見張りがおり、外敵と脱走を警戒している。

 地下部分を監視しているワーレディバグにむけて、ひさしぶりに迷妄の杖をつかった。


「敵、そと、来る」


 物陰から錯乱条件を伝える。迷妄状態におちいったワーレディバグは、そとからやってくる敵に対処するため、坂をかけあがっていった。途中で足音が重くなり、硬い脚が岩をこする音が聞こえた。昆虫形態になったのだ。


 あとにつづいて坂をのぼる。

 洞窟のまえの見張りもいなくなっていた。テラノヴァはナツメヤシ畑を走った。すこしだけで止まるつもりだったが、自由の解放感が脚をつきうごかした。抑圧された集団生活の環境から、すべてを自分の裁量で決められる世界に戻った。


(自由! 自由! 自由!)


 奴隷労働からの解放である。

 精神的な主人の奪還である。

 ナツメヤシ畑をつきぬけ、夜の砂漠に出るまで走った。冷たい夜の砂漠に、熱を持ったからだから、蒸気が発生していた。


「ハァー……ハァー……」


 肺が痛い。その痛ささえうれしい。テントを広げ、プライベートなセーフルームに入る。空間を個人で所有できるという贅沢。プライベートのある贅沢。

 うしなってはじめて、恵まれた環境にいたのだとわかった。

 体温を吸い取られる硬い岩のうえで眠らなくてすむ。寝返りをうったモグラの爪にぶつからないですむ。

 

「ふふふっ、あはははは」

 

 いつになく嬉しそうな声がでた。寝転んだ。コラリアを両手で抱きかかえて、毛布のうえを転がる。ストレスから自由になった、たまらない解放感だった。

 

『かわいい』

『うれしそう』

『解放記念(##### → 金貨2枚 銀貨7枚に変換)』


「月の人たち、みなさん、ありがとうございました」


 次の日。

 テラノヴァはナツメヤシのかげに隠れて、狩り班が通るのを待った。

 しかしいつまでたってもラーが出てこない。

 狩り班自体が来なかった。木に登って洞窟を見ると、農作業に向かうワーレディバグが、モグラを引きつれて歩いている。農作業の班がいるなら、狩り班が出ていないとおかしい。

 巣で何かあったのだろうか。


「ラーが来ません……裏切ったのか、それとも私が逃げた責任を取らされているのか、見に行きましょう」


『危ないと思う』

『見つかったらどうするんだ』

『やめなよ』


「何が起こったのかわからないまま出発すると、永遠にわからないままです。行きます」


『配信者の鑑だけど、気を付けてね(##### → 銀貨8枚に変換)』


「モノノベノモリアーティさん、ありがとうございます。気をつけます」


 奴隷労働に出発して静かになった洞窟に入ってゆく。武装をしていると心に余裕ができた。人間になれた気がする。

 坂をおりる途中で、ゴミ拾いをしていたモグラが、驚いてうごきを止めた。フードをまくって顔を見せると、こちらを認識したのかふたたび仕事に戻った。


『まだ仲間扱いで笑った』


 地下果樹園のそばを通ったが、ラーのすがたはみえない。

 中心部分にある伽藍にそっと忍びよる。開けはなたれた入り口から、なかをのぞいた。


「うわぁ。地獄みたいになってます」


『グロ』

『まただよ』

『メシが不味くなんだよな……』


 奥に鎮座する巨大なテントウの背中がやぶれて、おおきな穴が空いている。かたむいた頭部にすでに生気はなく、黒々とした眼がにごっていた。 

 その近くでは、人間形態のワーレディバグたちが死んでいる。四肢がバラバラにちぎれている。一部の昆虫は捕食するときに、獲物の不要な部分をまき散らすが、それを連想させるスプラッターな光景だった。


『なんだこりゃ。屠畜所か?』


「戦いがあったようですが……ラーの死体は、ありません」


 生首をけって表にして、表情を見てみるが、農場で見た監督たちの顔ではない。おそらく伽藍のなかで暮らしていたメスだろう。


「奥に行きます」


 中央の広間から、さらに奥の部屋に入る。左右に分かれた区切りのない部屋は、大腸のように広間を囲む間取りになっている。

 どこから手に入れたのか、古びた赤い敷物がしかれていた。


「ここにも死体があります」


 壁にワーレディバグの死体がもたれかかっていた。変身途中で殺されたのか、腰がふくれあがって甲殻におおわれ、脇から昆虫の脚が生えている。中途半端に虫と人間が混ざっていた。

 

「あたまが潰れています。この血の飛び散りかたですと、壁にたたきつけられたみたいです」


『うええ……朝ごはん食べたばかりなのに、やめてくれよ』

『いつものグロチャンネルに戻ってきたな』

『誰がやったんだ? 気を付けなよ』


「周囲は静かです。誰か隠れているのでしょうか?」


 耳を澄ましても、そとの農場で作業する音と、岩を砕く音しか聞こえない。伽藍の外郭を一周する。見つかった死体の合計は8、人間形態のメスが7匹と、広間にあった昆虫形態が1。これはオスメス不明だった。

 

「これだけ殺されているのに、ほかのワーレディバグは、モグラの監督をつづけています。まるで変わりのない日常みたいに。おかしいです」


『もう出よう。危ない』

『生きてるやつにラーの居場所を聞くか?』

『べつの巣のワーレディバグが入ってきたのかな。代替わりってやつ』


「血痕……たどってみます」


 伽藍の裏口から、赤黒い染みがつづいていた。途中にある浴槽に、人間形態の手足が2本ずつ、それも男性のものが落ちていた。数ミリほどの血がたまっている。

 血のあとはそのとなりの縦型倉庫に消えていた。


 食品倉庫のなかは薄暗く、気温が低い。

 左右の木のたなに、芋や乾燥した果実が備蓄されていた。

 中央の最奥、棚のひとつが倒れ、干しナツメヤシがゆかに散らばっていた。棚のうえには四肢切断された人間の胴体。テラノヴァが一度だけ見た、男のワーレディバグだった。


「これ、平地トロールのたき火でみた光景と似ています」


 あのときは人間が部位ごとに串焼きにされていたが、これは食べるためではなさそうだった。

 傷口にはやにがぬられ、出血を止められている。まだ生きているのか、茶色い繊維で猿ぐつわを噛まされている男が、手足のない胴体だけの身体で、わずかに震えていた。 


「フグッ……ングッ……」


 これでは生きている状態が逆に苦痛だろう。残虐性を見せるあいては、かなりあたまがいかれていると考えられる。


「テラノヴァ! ワタシ、ヤッタ!」


 倉庫の奥にラーが立っていた。体中に返り血を浴びて、とくに口元と両手がどす黒く染まっていた。

 足取り軽く、テラノヴァのそばにやってくる。


「ラーさん、あなた血まみれになっています。この胴体だけのワーレディバグはどうしたのですか?」

「ワタシ──わたし、かみさまにいのって、ちえをもらったよ」

「その話しかた……」

「かみさまはすぐそばにいたんだって。わたし、しらなかった。ただしいいのりかたをおしえてもらって、いけにえのささげかたをおしえてもらって、わたしは、かしこくなったよ」


 流暢にしゃべっている。思考も発達している。


「わたしをおいだそうとしたサー・Bをころしたの。いやなことばかりしてきた、シーもユーもルーも、みんなころして、いけにえにしてあげたの!」


 興奮して声がおおきくなってゆく。


「みんなやったんだよ! わたしのおとうさんをサー・Bがころしたの。ころしてなかみをたべたの。だからわたしは、サー・Bのそれいがいをとってやった。かみさまはよろこんでくれたよ」

「どんな神様ですか?」

「まほうと、ちしきと、しと、せんそうのかみさま。やりかたをおしえてくれたのは、もっとべつのかみさま」


 ラーのとなりに配信球が浮かんだ。魔力でつながって、明らかにテラノヴァを撮影している。


「それは神様ではありません。月の人です」

「ちがうよ。わたしにやりかたをおしえてくれたもん。かみさまだよ」

「……」

「かみさまはどれいをいけにえにしろっていってる。なってくれるよね?」

「いやです」


 テラノヴァは杖をにぎった。

 ラーのシルエットがふくれあがり、部分部分が硬質化してゆく。

 夜空のような色の甲殻がおおってゆく。

 突然、月の人の課金コメントが、大量に流れはじめた。発言者はほとんど見ない名前だった。


『これがシエさまとピーノセアーノさんを殺した報いだ!(##### → 銀貨1枚に変換)』

『苦しんで死ね!(##### → 銀貨1枚に変換)』

『親しい人に殺されろ! 後悔しろ!(##### → 銀貨1枚に変換)』

『ほんと気持ち悪いしここで殺されたほうが世の中のためだよ(##### → 銀貨1枚に変換)』

『ざまぁ! 今から死ぬなんてうれしくて笑いが止まらんわ。ほんとざまあ!(##### → 銀貨1枚に変換)』


「なるほど、あなたたちはピーノセアーノさんのところにいた月の人たちですか。ラーを言葉であやつって私を殺す気でしょうけど──ラー、ラー、月の人の言葉を信じてはいけません。神様だけにしておくほうがいいです」


「いやだ。たくさんいるかみさまはサー・Bのたおしかたをおしえてくれたし、あなたはどれいだから、くちごたえ──」


 話し終わるまえにラーの顔面が天河天道に変化したので、声が聞こえなくなった。人間の皮膚はお腹だけ。あとは甲殻におおわれている。鍵爪のついた4本の腕が抱きしめんとばかりに広げられる。左右に開いた大型ナイフのような顎から、よだれがしたたる。

 ワーレディバグの半昆虫人間形態だ。


『おまえが殺されたいと思っているって教えておいたからなぎゃはは(##### → 銀貨1枚に変換)』

『奴隷きっしょ!(##### → 銀貨1枚に変換)』

『裏切られてざまぁぁぁぁぁぁ!(##### → 銀貨1枚に変換)』


「裏切られたと思うほど親しくないです」


『オ※※野郎の信者まだいたのかよ!』


 コメントで月の人の内戦がはじまった。

 テラノヴァは鈍足の杖と紅蓮隕石の破壊杖を持った。ラーが羽をうごかして中空にうかんだ。手を広げ、抱きしめる機会を狙っている。

 

 ゴゴギギチュギギアギギ──

 

 何かしゃべっているが、すでに人の言葉をしていない。羽音が増した。

 空中で後脚を縮めて、ためを作っている。倉庫のなかは3人分通れる広さがあるが、前脚を斜めうえ、中脚を真横に広げたラーは、よこはばのすべてをカバーしていた。


「コラリア、天井から、羽を狙って水渦鋸ストゥリディソー


 コラリアを投げる。ひっくりかえって天井にくっついた。


「ギギグ」


 表情が判れば、ラーはきっと慈愛の視線をテラノヴァに向けていただろう。

 食物に対する愛、餌に対する愛情が、放射される魔力に乗って伝わってきた。


 ラーが空中を蹴った。一瞬ですがたが消えた。あとに発生した衝撃波で、乾燥した果物がまい散った。

 防ぐ余裕のないタックルだった。

 テラノヴァは奥の壁に叩きつけられる。肺が収縮し、呼吸ができなくなる。束ねた杖を盾にして、かろうじて鋭い顎を止められた。ガチガチと噛みついている。


「ぐええぅ……」


 脚がガサガサ、背中に回りこんできた。湾曲したナイフのような鍵爪が、ローブを切り裂いて肉に忍びこんでくる。

 折れた肋骨の隙間から、体内に鍵爪がささる感覚がわかった。内臓から感じる不気味な痛みと痺れ。


「ががぐ、ががぎ」


 黒い瞳に反射した、苦痛にゆがんだ自分の顔をみる。

 ラーは完全に意思疎通のできない昆虫になってしまった。

 生成された水の丸のこが、天井から降ってきた。羽に命中。透明な羽がくだける。甲殻のかけらに混ざって、微細な水しぶきがあがった。羽を推進力にしていたラーのからだがとまってゆく。杖を押さえる圧迫感がきえはじめた。

 鈍足の杖に魔力をこめた。


「コラリア、もう一回! 水渦鋸ストゥリディソー


 ラーはまだ突進している。抱きしめられた脚の先端が、からだにふかく刺さってゆく。 

 丸鋸が発射された。

 コラリアの魔法は勢いあまって羽だけでなく、ラーの膝からしたも両断した。


「ぎが、ぎが」


 ラーがとまった。からだを押して、脚をぬく。

 4本の鍵爪が背中から抜けるとき、かなりの痛みと出血をともなった。

 

 怪我治療ポーションを8本飲んで、ようやく出血がとまった。

 ローブの内側が血でぬれている。テラノヴァのなかで痛みの怒りが持続している。ラーを取り返しがつかないほど破壊したくなった。だがまだ生きてもらわなければならない。


 床に転がったサー・Bの身体を見つけた。ラーの傷口にポーションをかけたあと、サー・Bの四肢の断面から樹液をすくって、ラーの傷を塞いだ。

 サー・Bは目を見開いた。何かを飲みこむ仕草をしていたので、猿ぐつわをとってやる。


「オレ、シヌ。ウレシイ。シヌ、シヌ。ウレシイ」

「わかりません」


 腕のつけ根からとびだした太い血管から血がふきだし、サー・Bの体色が急速に青白くなっていった。そのうち静かになった。迷妄の杖でラーの頭を軽くたたくと、こちらを見上げていたあたまがゆっくりとたおれ、床と水平になってゆく。


「ピーノセアーノさんのところからきた月の人たち、これで溜飲がさがりましたか?」


 あれほどあった課金コメントの羅列は、ひとつもなくなっていた。見知った名前のコメントしかない。テラノヴァはラーの配信球をひろって、かばんにしまいこむ。いつ落ちたのだろうか。記憶になかった。


「怪我をしましたが、ラーをとめられてよかったです。あとはもうすこしあたまをおかしくさせて、夢だったと思わせましょう」


 迷妄の強度をあげて、コツコツと叩く。余計な信仰は混濁に消してしまうのが一番いい。


『テラノヴァちゃんが無事でよかった』

『怪我しすぎだろ』

『ぶん殴って記憶を消す天才の発想』

『そいつはどうするんだ?』


「ラーさんが人間形態に戻るまで待ちます。それまでは死体の片づけをしておきましょう」


 テラノヴァは清掃していたモグラたちのところに行った。そこにワーレディバグの監督がいたので、ラーにたのまれたと伝えて、伽藍のなかにある死体を掃除してほしいとたのんだ。


「シンダ、ナゼ?」

「ラーは神様がやったと言っていました。お父さんがサー・Bに食べられたから、ラーが呼んだ神さまが罰を与えたそうです」

「ソウカ……ラー、ヘン。リユウ、ワカッタ」

「ラーは神様と話をした代償に、両脚をとられました。私が治療しましたが、倉庫のなかで倒れています。サー・Bもおなじ場所で死んでいます」

「ワカッタ……シゴト、モドレ」


 ワーレディバグはモグラを連れて伽藍に向かっていった。テラノヴァは失血でふらついたので、魚をとるためオアシスに向かった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る