第9話 砂漠の旅と、テントウムシ


 シュアン市を出発して1ヶ月がすぎた。

 砂漠を迂回うかいして、海岸線にそってすすむルートは、砂漠を直進するルートより比較的安全だったが、時間がかかった。


 10メートル以上の高低差がある崖のそばを、毎日歩いてゆく。

 崖から海面をのぞきこむと、はるか下で、岩壁にぶつかって砕ける白波が見えた。

 吹きあがってくる海風は熱をうばい肌寒くなる。この冷たい風のせいで、海岸から内陸部にかけて、不毛地帯になっていた。

 植物がすくないため、生き物はほとんど見かけない。


 荒れた地面には、1メートルほどの乾いた植物がわずかに生えているだけ。乾いた黄土色の幹に、なめらかな骨のような枝がのび、その先端に赤紫色の葉がささやかに生えている。貧弱な外見どおり、すこし力をいれると簡単にぬけた。


「乾いた木を見つけました。これで今日は火をおこせます」


『たき火ASMRたすかる』


 夜になると焚きつけにして火をおこす。

 砂漠の夜は極寒になるため、日が暮れるまえに食事の準備をして、テントに避難する必要があった。


 初日はそれを知らずに大変だった。

 日が落ちたあと、急速に低下する気温に体温をうばわれ、対抗するために火をおこすと、魔物に襲われた。

 

 熱を感知する危険な星泳長魚が、空のうえから長いからだをうねらせて突っ込んできた。半透明のすきとおったからだは、白い内臓や鋭い牙が見たくもないのにくっきりと見えた。

 地面を転がって避ける。

 たき火が四散した。鍋がスープをまき散らして宙をまい、テントに火の粉が飛ぶ。


 10メートルもある長魚が通過してゆくとき、テントがこすられなぎ倒された。距離を取ってふたたび垂直に舞いあがり、からだをうねらせる。

 空中にいるため、接近戦は絶望的。

 

 テラノヴァは立ちあがった。口のなかの砂をはきだす。

 ふたたび襲って来ようと、からだをうねらす長魚にむけて、迷妄の杖を両手でにぎり、脚をひらいて肩でかまえた。


「コラリア、水滴裂弾アクアドラビル


 土煙をあげて突進する巨体に、水弾が命中。ビスビスと穴があいて青白い体液がもれる。勢いは止まらず、テラノヴァの正面に滑空してきた。


「コラリア──」


 水撃槌アクアクラッシングブロウの形成中に飛びのり、魔力干渉からの破裂ではねた。

 足元を通過してゆく星泳長魚のからだを、最高強度の迷妄の杖で叩いた。


「ふぎゃ」


 長魚は空に上昇、テラノヴァは砂漠に墜落した。

 迷妄にさらされた星泳長魚はおかしくなった。砂が獲物の肉にみえた。口いっぱいにふくめば、体液がえられると考えた。星泳長魚は丘のむこうに激突して、盛大に土煙があがった。


 地面がゆれ、さらにべつの鳴き声があがる。

 砂漠をはいずる半腐乱食人鬼ガストが、戦闘音を聞きつけて、砂のなかから立ちあがった。

 誘蛾灯のごとく魔物がひきよせられてくる。

 その日から、夜に火を使ってはいけないと学んだ。


「今日はいつものスープです」


『またか』

『いつもの』

『この貧しい食事をみながらだと、普通の食事が旨く感じるんだよな』


「みなさんは何を食べましたか?」


『おしゅし』

『牛丼』

『ガ※トのハンバーグ』


「へぇー食人鬼ガストのお肉なんて珍しいです。月の人は違うと思っていました」


 蛮地にすんでいる人は流石だとテラノヴァは思った。 

 雑談しながら、乾燥したじゃがいもと玉ねぎを、一口サイズに切る。

 夕焼けが消えさるまえに火をおこし、いそいで調理する。沸騰したお湯に塩と切った根菜をいれる。このスープは暖かくて腹持ちがいい。


 すべてが茶色くとけて、とろとろと煮詰まってゆく。

 食べ飽きているが、日中の移動で飢えているからだには、おいしそうな匂いだった。


 硬い乾燥芋をガリガリとかじりながら、スープをゆっくり混ぜる。夕焼けがゆっくりときえてゆく。まだ煮詰まっていないが、たき火に砂をかけた。

 鍋をもってテントに入った。


 日が落ちると、地面の熱が消滅して、かわりに冷気がやってくる。そとは危険な魔物の世界。

 安全なテントのなかでスープを飲む。

 旅をしていると、安全な空間で休める幸せがよくわかる。

 不可視のテントのおかげで魔物に襲われないし、見張りもいらない。やわらかい寝具にも入れる。


「ふぅ……今日の砂妖魔はおしかったです。つかまえられれば、何かに使えたかもしれません。残念です」


『あれは不審者すぎた』

『絵面が子供を襲うヘンタイだったぞ』

『白い服のちっちゃい魔物がいるなーって思ったら、短剣をかまえて走っていくって、あんなの誰でも逃げるだろ』


「ふふふ、月の人がいっていた、公園のハトをちらす気持ちです」


 気を張らなくてもすむ空間はかなり貴重だ。

 ゆっくりと食事を終えると、マントをぬぎ、脚をのばす。歩きどおしだった筋肉が弛緩してゆく。そのまま毛布のうえに寝転がった。ローブがまくれあがる。


『みえ……』


「見ないでください。まだまだ、目的地まで遠いです……」


 砂漠のいりぐちの街まで馬車で1週間。そこから徒歩で3週間。

 旅の道程は、まだ半分にも達していない。


 毎日毎日、海と砂漠にはさまれた隙間をすすむ、海と陸地、どちらにも適応できない昆虫の気分だった。

 海岸沿いは人気ひとけがなさすぎて、自分がかき消えているようだった。

 昼間にであう生き物は、海のうえをとんでいる鳥と、乾いた植物、ときどき魔物だった。


 薄暗い天井を見つめる。とおくに波音が聞こえる。

 すばらしい孤独だった。世界に一人だけ取り残されたと錯覚するほど。

 世界を独占しているようで楽しい。


 ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。そこには何の軋轢あつれきもない。人間関係もない。


「今日は……おわります……」


 幸せな気持ちでいると、すぐに眠りがおとずれた。



 つぎの日も、そのつぎの日も、海岸にそって歩きつづけた。


 ときどき崖がくずれて地面が陥没しており、クライミングを余儀なくされた。

 海との高低差があるため、陥没孔もふかくなる。ぐずぐずの地面でのぼりおりをすると、よけいな疲労がたまった。

 

 遠くに見える山脈にちかづくにつれ、地面が荒れた。

 限定的な地震でもあったのか、海面ちかくまで崖がくずれ、わずかな砂浜ができていた。遠浅の海は、茶色い岩礁がそこかしこに飛び出している。巨人が岩をけり飛ばして、その破片が海に突き刺さったような光景だった。


 利便性がまったくない土地だった。海岸は高くて港に使えない。地面には礫がおおくて、馬が使えない。

 整備された道がないので、輓獣ばんじゅうも無理。徒歩ですべてを運ばなければならない。


 砂漠にあしを踏みいれると、灼熱の太陽光が体力をうばい、危険な魔物もいる。

 オアシスにたどり着けなければ乾いて死ぬ。

 おおよそ生存には適さない。


「氷の世界とどちらが住みにくいでしょうか?」


 水筒で喉をうるおす。

 海のむこう、極地には氷の大陸があるらしい。

 そこでは氷のエレメンタルが常時発生していたり、肉食のイッカクがいたり、流氷が海をうめつくしていると本に書かれていた。


『さあなあ。知らねえ』

『南極なんているだけで凍え死ぬだろ』


「海だけは互角に思えます」


 テラノヴァはとおくの海をみた。

 明らかに数十メートルはありそうな魚のヒレが、海のなかを移動していった。

 貧しい海なのに、怪物はたくさんいる。


 岩礁には黒緑平野でみた蟹よりも、さらに巨大な甲殻類がうずくまり、甲羅が光を反射している。

 得体のしれない怪物が、水面に触手を伸ばしている。

 対策もなしに海に入ると、ほどなく食われるだろう。


「見てください。海の一部が赤くなっています。あれは血啜海月ブラッドサッカージェリーが赤い触手を広げているからです。触れるとしびれてつかまります」


『赤潮みたいな色だな』

『つよそう』

『倒しに行くのか?』


「水中行動の魔法がないと倒すのは難しいです。船があれば血啜海月ブラッドサッカージェリーの真上まで行って、直接攻撃できるかもしれません」


『泳いでいけ』

『最近はずっと旅をしていて、エロがなくて寂しい』


「ときどき考えるのですが、ピーノセアーノさんを生かしてつれて来れば、月の人の期待にこたえられたかもしれません。あのときは私が疑われないために、つい殺してしまいましたが、治療をよそおえば誘拐できる可能性はありました。今から考えると残念です」


『あの状況なら仕方ない。切り替えていこう』

『絶対に従わないだろ。どうやって説得するんだよ』

『荷物持ちに使えたかもなぁ』

『1日目の夜に刺されそう』


「説得……腕をロープでしばって、迷妄の杖を使いつづけて……やっぱり無理かもしれません。そんなに手間をかけても、恨みをもった人が、隷属した人にかわるだけです」


『うんうん』

『いいだろうがよ奴隷だぞおまえ』

『旅をしながらやることじゃねえな』

『テラノヴァちゃんがオナニー配信をしてもいいんだヨ』


「いやです。それ、ほんとうに私がすると思って言っているのですか? ふふふ、絶対にしませんから」


『言いつづけていたら、いつか心変わりが起こるかもしれないからネ。これは心理学的にも実証されている事例があるから、間違いでもないんだヨ』


「……」


『ちょっと信じててかわいい』

『なに不安になってんだ』

『詐欺に注意してほしい』


 雑談は気晴らしになるが、民度は低かった。


 荒涼とした景色のなかを、何日も、何十日も歩いていると、しだいにブーツが消耗しはじめた。とがった礫が貫通して側面に穴があき、岩でけずられて靴底がすり減った。

 立ち止まらずに歩いていたが、あまりに違和感があるので修理した。


 馬のたてがみでつくられた糸をつかって、革同士をぬいあわせる。貧困層のはくブーツじみた外見になったが、石や砂が入らなくなった。すりへった靴底はニカワと釘をつかって新しくかえる。修理したブーツははき心地がよく、身長が高くなった気がした。


「不滅の付与エンチャントがほしいです」


 ないものねだりを言ってみた。しかし自分で修理したブーツは、それなりに愛着がわいたので、悪くないと思った。


 つぎの日がやってきた。夜明けの光がテントの布ごしに顔にあたる。

 テラノヴァは目をさまし、簡単な朝食をつくる。

 食料のストックは2割ほど減っていた。

 野菜の酢漬けがはいった壺をあけ、布に包まれたチーズの塊、巨大なかたいパン、乾燥ハムを切る。

 まきが残っていたので湯をわかし、ハムを削っていれる。


『おはノヴァ~』

『朝活たすかる』


「おはようございます。今日もいいお天気です。今はハムを切っています」


 野蛮人のこん棒ににた形のハムは、燻製したあとで何か月もかけて乾燥し、鉄のようにかたい。毎日削っていると、おおきさは半分以下になり、骨がみえていた。


 コラリアをそとに出しているときは、ハムの欠片をあげる。赤黒いかけらを触手で巻きとり、口に運ぶ。ばきばきとかたい音が聞こえた。


 うすく切ったパンのうえに、チーズをのせる。それらをかじりながら、酢漬けの根菜をつまんで食べた。ハムの塩味がするお湯は、たっぷり飲んでからだをうごかす燃料にする。

 

 熱くなる昼間は、氷ドロップがはめ込まれた護符をにぎりしめ、魔力をこめて防熱フィールドをつくった。人呑じんどん砂漠にふきつける風は乾いており、気温はたかい。汗をかくと水の消費量がふえるため、体温調節は必須だった。

 あとはひたすら夜まで歩く。

 ときどき水を飲み、からだが動かなくなる予兆がくると、乾燥した芋をかじった。


「あれ、なんでしょうか?」


 横たわった蛇のような、黒くながい亀裂が、地面にはしっていた。

 はじめは本当にそのような生き物がいるのかと思ったが、近づくと浸食がすすんだ海岸線が、大地にきりこんでいた。

 亀裂のはしが見えないくらい、内陸部にまでつづいている。

 対岸まで100メートル以上はひらいており、崖からしたは30メートル。海とつながっている。


「道をはばまれました。飛びこすには遠いです」


『うーわ高すぎ』

『海にジャンプしろ』

『降りるの無理だろ。遠回りだな』


「私がとれる行動はふたつあります。第一案は直進です。崖をおりて、海をおよいで崖をよじ登ります。第二案は迂回うかいです。亀裂がなくなるまで砂漠にむかって歩きます。どちらがいいと思いますか?」


『死にたいなら最初の案がいいと思う』

『実質一択だろ』

『最初の無理すぎて吹く。はやく飛び降りろ』


「ひどい意見ありがとうございます」


 テラノヴァはふちから崖下をながめた。はるか下にある海面は、おだやかな波がたゆたっている。


「直進できれば時間がかかりません。崖はとっかかりがたくさんあるので、おりられそうです。海は……コラリア、私が泳いでいるあいだ、守ってくれる?」


 手首に触手をからませていたコラリアは、つぶらな瞳でテラノヴァを見つめると、触手を左右にふった。拒否の意思表示。


「うん。私もそう思う」


 犬かき程度の水泳能力では、向こう岸にたどりつくまえに、肉食魚や海底にひそむ怪物に襲われる。


「念のため、確認しておきましょう」


 食べかけのハムを取りだして削り、海に投げこんだ。ひらひらと回転しながら、こぶし大の肉が着水、水しぶきがあがった。一呼吸おいて海面が泡立った。

 肉食魚が肉をとりあって、うろこがキラキラと反射している。


「わぁ……」


『これ無理だな』


 くちばしがレイピアのようにながい魚が、いちはやく肉片をくわえて水面をはねた。水中から水のやいばが飛び、魚を空中で両断した。水面で待ちかまえた大型魚が、ずらりとならんだ歯をひらいて丸吞みにした。


「やめておきましょう」


 コラリアも触手をうごかして同意した。


「ということで迂回うかいします」


『確認できてよかったね』

『うんうん』

『早くあきらめろ』


「月の人はまっすぐ進めと言いましたが、そういう言動はよくないです。反省してください」


『えっ?』

『は?』

『????』


 テラノヴァは亀裂にそって歩いた。

 ほぼ垂直の斜面には、亀裂や穴があいている。

 あまりふちに近寄ると、黒い穴から青白いミミズのような魔物がのびてくる。魔物図鑑でみた記憶がないが、ワームに似ていた。


 あごのしたに細長い触手が横並びに生えており、胴体は子供をまるのみにできるほど太い。

 えものを見つけると、ゆっくりと鎌首をもたげ、しなりをつくり、触手の先端がめくれて、ぬれた針がとびだした。針から白い液体がしたたり落ちている。  

 テラノヴァは暫定的に崖ワームと名付けた。


「有用な素材が取れると思いますか?」


『殺してから考えよう』

『毒もってそう』


 崖ワームはある程度はなれると、穴のなかにもどる。

 襲われるギリギリまで近づいて、からだを縮めたとき、


「コラリア、水渦鋸ストゥリディソー」  


 回転する水の円盤が、ワームのからだを、顎のしたからふたつに裂いた。

 魔法抵抗は低いようだ。肉もあまり強靭ではない。


「あっ……」


 十分にひき寄せたつもりだったが、ワームのからだは重力にひかれ、海にむかって落ちていった。

 着水した音がきこえた。


 したをのぞきこむと、魚たちが死体に群がっていた。


「もっと引き寄せるべきでした。おしいです」


 はるかしたにある穴から、べつの崖ワームが顔を出し、あたまを垂らして魚を一匹つかまえた。もりのような触手につらぬかれた魚が、口にのまれる。それにもういちど魔法を撃ってもらうと、穴からたれさがった。水につかった部分が食われる。


 なんどか試したが、ワームが輪切りになるだけで、死体が手にはいらなかった。崖のあなからワームがすべり落ちて、黒い穴がのこる。


『角栓抜きみたいでスッキリする』

『無益な殺生で笑った』


「……さきに進みます。あまり立ち止まってはいられません」


 この一帯には崖ワームの天敵も、おなじ場所にすんでいる。


 テラノヴァは視線を感じていた。

 海にせりだした崖にはいった、縦にながい亀裂。そこに生物のフォルムがみえる。黒い昆虫の脚と、ながい触覚がはみ出していた。


 テラノヴァはななめに移動して遠ざかったが、昆虫はすきまから出てきた。

 巨大なハサミムシの魔物だった。人間でもつかまえられそうな尾角、ながい触角のつけ根にあるレンズのような複眼、感情のない暗い色をしている。

 スキマのしたにある岩棚には、茶色く変色した環形動物の死骸がのこっていた。

 テラノヴァがワームを殺しまくったせいで、競合生物だと思われたのかもしれない。 


 ハサミムシは食べられれば選り好みはしないのか、テラノヴァめがけて走ってきた。腹がそりかえり、顎のような尾角がカチカチと噛みあう。

 鈍足の杖をかけると、土ぼこりをあげながら目のまえでとまった。殻は短剣がとおらないほどかたい。迷妄の杖であたまを叩いて、崖のまえにハムのかたまりを置いた。


 鈍足から覚めたとき、崖めがけて走ったハサミムシは、そのまま肉をくわえて、水平線にむかって飛んでいった。高度が尽きたとき、海中で宴がもよおされるだろう。


「またハムが減りました。崖は危険ですし、すこしはなれて歩きます」


『虫だらけだもんなァ……』


「崖にすんでいる生き物は、穴のなかでずっと獲物をねらっています。私だったら退屈してしまいそうです」


『あいつらに高等な感情はないだろ』

『体がでかくて脳がちいさいから、独自のコミュニケーションってメスを呼ぶくらいじゃないか』


「人間のような感情がないなら、退屈もない……食事と繁殖だけが目的なら、合理的です」


『そうだよ』

『生き残るための習慣化された知恵、いわゆる本能に従っている。生物ごとに独自の工夫があるなら、その使いかただけを知っていればいい』


「たとえば蜘蛛がもっている巣とか毒とかは、獲物をとる工夫だと思います。では、誰がそう作ったのでしょうか。神さまがつくったのなら、工夫したのは神さまじゃないですか?」


『おまえんとこは、そうかもな』

『適者生存、生き残りやすい形に進化したんだと思う』

『わかる』

『作ったのは誰かわからない。でも誰も干渉していない』

『※ザナ※と※※ナミが天からおりてきて、国生みをしたんだぞ』


 とりとめのない会話をしながら、礫砂漠の深部にはいっていった。

 内陸に向かうにつれて、地面が柔らかくなってゆく。

 足を取られる砂地が多くなる。亀裂近くの地面はかたいが、あまりに近いと、引きこまれそうで怖い。


 柔らかい砂地には、新しい種類の魔物がいた。地面がクレーターのように盛り上がって、そこから節足動物らしき脚がはみ出していた。おそらく砂蜘蛛だろう。脚には青紫色の太い毛が、ところどころに生えていて、よく燃える植物の葉の色にそっくりだった。


『倒して』


「倒しません」


 砂のうえをどすどすと歩く足音がする。

 遠くの砂丘をラクダのむれが疾走していた。その後ろを巨大なヒヨケムシが追いかけている。最後尾のラクダが転び、そのうえにヒヨケムシがのしかかる。頭に生えた二対の鋏角きょうかくが、胴体にかみついた。ピンクの内臓がこぼれる。


「倒しません」


『まだ何も言ってない』


 実際、倒す意味はあまりなかった。

 ヒヨケムシの鋏角は、甲殻防具屋ならほしがるかもしれないが、殻を加工する手間を考えるだけで、やりたくなかった。

 あたまから鋏角をちぎって、中身をきれいにほじりだすだけでも大変だ。そのあと洗って乾燥させると数日はかかる。


「生かしておいてあげます」


 ヒヨケムシにむけてつぶやいた。ラクダはますますばらばらになり、ヒヨケムシは背後で陽炎のなかに消えていった。


 進むにつれて亀裂はせまく、低くなってゆく。あわせて20時間ほど歩くと、深さは4メートルほどになり、亀裂のはばも2メートルを切った。浅くなった海の波が、上下にゆれてしぶきをたてている。

 テラノヴァはジャンプしてすきまを越えた。


「ふぃー……」


 これからふたたび崖にそって、海岸までもどる。

 地図とコンパスをみると、砂漠を北北西に横ぎれば、最短距離で目的地までたどり着ける。すこし行ってみようと思ったが、あたまをふってバカな考えを追いだした。


 海岸にもどる途中で、ゆるい土が陥没して、すり鉢状になっているくぼみを見つけた。

 好奇心から近寄ってみる。


「丸いです」


 中心に向かって、やわらかい砂がさらさらと崩れている。蟻地獄と言うよりはクレーターだった。半径が10メートルほど。中央部では黒い甲虫が土にうもれていた。口には崖ワームをくわえている。両方とも死んでいるのか、うごかない。甲虫の甲殻には、夜空のような模様があった。


「これは天河天道です。背中の模様は、成虫になった日の夜を映しているといわれています。こんなにはっきりと、夜空の模様が出ている状態はめずらしいです。雲のない日に変態したのでしょう」


『星座に詳しい人が見れば、いつ成虫になったのかわかるな』

『テントウムシが捕まえているのって、崖から生えていたみみずだろ』

『俺もノヴァちゃんとヘンタイしてぇな(笑)』


「奇麗な甲殻はたかく売れると聞きました。二匹とも死んでいるみたいですし、千切って持っていきましょう」


『おまえ……学習能力がないのか?』

『気を付けろよ』


 クレーターに一歩足をふみだすと、足首まで砂にしずんだ。想定よりも地面がゆるい。念のためにロープを出して、岩にくくりつける。


「コラリア、危なくなったらひいて」


 腰にロープをむすび、コラリアに持ってもらう。

 中心までは5メートルほどおりる。ずぼずぼと足をとられて進んでいると、途中で斜面がくずれ、半透明の黄色い岩が露出した。黄色く濁った水晶のようだった。

 その周りだけ、砂のうごきが速い。


「これ、土の魔石です」


 土に刺さったつららのような魔石をぬいた。砂を落とすと蜂蜜のような黄色にかがやく。

 この魔石をあつかった経験があった。

 ちいさな粒は高価ではないが、ある程度のおおきさがあると武具などに使われるため、一気に値段があがる。今持っている魔石は、削りだして短剣にするのにちょうどいい。

 黒い岩のなかにいくつも魔石の筋が走っている。さらにちいさい塊も、天河天道のちかくに散らばっていた。埋もれている魔石を掘りだせば、ひと財産になるだろう。


「私は手近なものだけもらっていきます。あとはこれを見ている月の人にさしあげます。地上にきたときにほって路銀にしてください」


『魔石助かる』

『うんうん』


 すり足でおりて、クレーターの底にきた。魔石をひろいつつテントウを観察する。完全に死んでいた。

 テントウの背中にのる。鞘翅しょうしのつけねを切断すれば、丸ごと甲殻を取れるはずだ。

 背中をのぼり、翅を持ちあげてうごかそうとしたとき、右腕に痛みが走った。


「え?」


 何かが足首にからみつき、背中から砂のうえに落とされた。


「が……!」


 呼吸が止まった。悶絶しながら足元を見ると、崖ワームがしきりに触手の針を、ブーツに刺そうとしていた。そのまま噛みつかれる。

 円形にならんだ牙が貫通し、円形の痛みがやってきた。

 とうに死んでいたと思っていた青白い長虫は、まだ生きていたのだ。


「うっ……」


 からだがしびれ始める。 

 ブーツを貫通した冷たい針のさきから、おそらく麻痺毒を流されている。

 からだの制御が急速にあやしくなる。不自由になるまえに、なんとしてもワームを殺さなければならない。砂のうえに落ちた短剣をひろい、ワームの頭部をなんどもつき刺す。白い体液がこぼれる。しかし口を離さない。

 くり返すごとに手の感覚がなくなっていった。右手の小指から、人差し指までの感覚が消える。


『やばい!』

『大丈夫?』

『逃げろ』


「こここのののわたししししががが、ににげたりりりしまません」


 意思のちからで肉体の不調を凌駕りょうがする。

 自分は無敵の人間だと思いこみ、精神に変調をきたすかわりに、自由に肉体をあやつる。 

 

 熟達した戦士は毒をうけても、自己治癒力をたかめて抵抗する技術を持っているが、それをさらに限定的にして、魔力によるあやつり人形と化す。


 無敵の人になったテラノヴァは、短剣をつよくにぎった。崖ワームのからだを半分きりとった。傷口からさらに腕をいれ、喉のうえにある神経節とおもわしき部分をこじりまわす。長虫から力がぬけて牙がはなれた。砂のうえでだらりと倒れた。


「……」


 唇がしびれてうごかない。指先の感覚もなくなりはじめていた。


(コラリア、ひいて……)


 せめてうえに登ろうと思念をおくる。ゆっくりとロープが引かれた。


(まだ動ける。なぜなら私は動ける人間だから。毒なんて無視、無視。私は弱くないから効かない。そう決まっているにゃ)


 物語の主人公──魔導獣人のすがたを思いうかべ、それになりきる。

 しびれはじめた下肢が言うことをきかない。

 足首から股まで一体化したような感覚だった。砂の坂にかみつくように手をにぎり、のしかかり、からだをおしあげる。


 目がかすむ。コラリアと視界を共有すると、岩に触手をからめて、ロープを後ろに送ってくれていた。


(ありがと)


 ほとんど動けなくなった。砂に顔面をつっこんだまま、ずりずりと引きあげられた。

 クレーターのふちをこえたとき、地面にあった礫が顔面をこすっていった。


 麻痺が解けたのは数十分後だった。口のなかが砂と血で汚れている。頭痛がして気分が悪い。


「うぅ……」


 なんとか起きあがる。そばでコラリアが守ってくれていた。


「ありがと」


 礼を言って抱きあげると、腕に絡みついてきた。強くしめつけられ、すこし痛みを感じるほど、心配させてしまった。


 水で口をすすいで、なんどか吐きだす。

 近くに配信球が落ちていた。魔力の供給がとだえて、自動的にオフになったのだろう。魔力をこめると、すぐに浮きあがった。

 何かいうまえに、月の人たちの発言が滝のように流れた。


『生きてた! いやったー!』

『おかえり!』

『心配してた。よかった……』

『驚かせやがって。もし死ぬなら死に顔くらい見せてくれよな(##### → 金貨3枚 銀貨1枚に変換)』

『無事でよかった!』


 月の人たちは本気で心配していたらしい。テラノヴァは素直に喜びつつも、性行為と殺戮がだいすきな月の人が自分を心配していて、すこし不思議に思えた。


「お待たせしました。コラリアが助けてくれました。私の従魔は役に立ってえらい子です」


 腕にしがみついているコラリアを見せる。


「今は心配して、しがみついています」


『かわいい』

『かわいい。おれもほしい』

『心配させるな』

『いつか死ぬって言われていたけど、こりゃその日も遠くないな』

『がんばれ』

『そのイカを非常食にしろ』


模造生命マギ・シュミラクラ、月の人の発言を消す方法はありますか?」


(もちろんあります。発言を消したり、発言できなくしたりする機能が備わっています)


 テラノヴァはやり方をたずね、コラリアを食料にする旨のコメントを消した。


「コラリアを揶揄する発言はゆるしません。これから先もそういったものは削除しますし、しつこくくり返すなら発言不可に指定します、覚えておいてください」


『はーい』

『BANされたいときはコラリアをけなせば一発だな』

『みんなも気を付けよう!』

『どんなラインが駄目か明示しないと無意味な警告だぞ。配信者と視聴者の権力こう配を考えると、不公平って判らないのか? 少数者の権利をないがしろにする決定は無効(##### → 銀貨1枚に変換)』


「……えっ? ドエロベスピエールさん、意味がよくわかりません」


『なんだいまの?』

『長文で笑った』

『図星を指摘されて焦っているな。信者にはこれでも勝ちに見えるんだろうが、エコーチェンバーって知らないだろうな(##### → 銀貨1枚に変換)』


 模造生命マギ・シュミラクラに発言削除の命令をすると、確かにコメントが消えた。さらに不可設定をすると、指定したドエロベスピエールの名前が、不可触リストの一覧に表示された。


『消されてて笑った』

『残念ながら当然の結果』


「ではもう一度、はねをとりに行きましょう」


『えっ? バカなの?』

『懲りろ』


 クレーターのふちにゆくと、天河天道のからだがふるえていた。丸いからだをもちあげて、ゆっくりと鞘翅をひろげる。内側から透明な羽がまろびでた。


──ヴォン


 テントウが飛んだ。クレーターをこえて空高く太陽をさえぎり、テラノヴァの近くに着地した。鼓膜をたたく騒音と、盛大に土煙があがって視界をさえぎられた。

 襲われるかと身構えたが、楕円形の甲虫はとまったまま。

 黒真珠のような2つの瞳に、テラノヴァのすがたが反射してうつっていた。


「……」


『なんだ?』

 

 攻撃されるでもなく、そのまま見つめあっていると、天河天道がこきざみにゆれた。

 メキメキと音をたてて、肉体が内側に折りたたまれてゆく。翅がもちあがり、身体の中心に吸いこまれる。目に見えて質量が減り、幻影魔法のように輪郭がぶれた。

 頭部がメリメリと圧縮された。足の数がへり、統合され、甲殻のかわりに肌が生まれた。人間のような肢体──茶色い肌に、すらりとのびた手足、藍色の髪の毛、のけぞった上半身で乳房がふるえた。よつんばいで、あたまをあげ、黒い瞳が空をみあげている。

 夜空の色をした布が生まれ、帯のごとく巻きついて身体をおおった。

 

「ワーレディバグ……」


 獣人の一種だ。人間形態に変身できるワーウルフやワータイガなどがいるが、昆虫系の魔物もいるとは知らなかった。

 褐色の女はしばらく地面に手をついていたが、ゆっくりと起きあがった。鈍足の杖をにぎった。テラノヴァよりもあたまひとつ分たかい女が見つめてくる。


「タ、タ、タスケル。アリガト」

「……」

「ムラ……クル。レイ、ヤル。チカイ」


 区切り区切りでゆっくりと、共通語を話している。甲虫はジジジやビーっといった雑音しか出せないと思っていたため、その知能の高さにおどろいた。ワーレディバグは両手を出した。早くつかめと言わんばかりに、手を広げている。


「クル……イイ?」

「……」

「イイ?」


 無言でいると、悲しそうに眉をさげる。人間のように感情表現ができている。

 テラノヴァは変身する獣人など、危険な亜人デミの一種だと思っているが、意思疎通をこころみてくるため、敵性だと判断がつかない。


「……イイ?」


『かわいそうになってきた』

『喋れるし大丈夫だろ。行ってみろ』


 月の人たちの能天気な意見を聞きながしつつ、なやむ。

 確かに共通語をしゃべる亜人デミは珍しい。感謝をしめし、村によんでくれている。比較的温厚だと言えるだろう。


「わかりました。行きます」


 いざとなれば始末すればいいと考え、手を取った。

 ワーレディバグは喜びで顔をかがやかせた。


「イク! ワタシ、トブ! トブ!」


 ローブが盛りあがり、背中からテントウムシの羽がはえた。両腕をつかまれ、10メートルほど浮きあがった。


「うわぁ!」


 空を飛ぶ経験ははじめてだった。

 マントが風を受けてたなびく。風が全身をとおり抜けてゆく。

 足元を通りすぎてゆく地面をみると、馬車の2倍以上は速度がでている。


 浮遊感は自由を感じさせる。地面からの解放、空との一体感──地形を無視して移動できるとは、これほど便利なのかと思った。


「コラリア、しっかり捕まってて」


 配信球も肩のちかくで並走している。


『お空飛んでる!』

『地平線まで黄土色だよ』

『風の音すげえ』

『カ※※リ砂漠に行ったときこんな風景だったぞ。※※※ンから半日移動したけど何もなかった』


「月の砂漠は広そうです。今からどこに連れて行かれるか楽しみですが、あまり遠いと帰りが大変です。帰りも送ってくれるか頼んでみましょう。ワーレディバグのすみかなんて初めてですし、歓迎してくれるとうれしいです」


『うんうん』

『遊牧民の村みたいな感じなのかな』

『命を救ったんだから何かもらえるかも』

『メスをもらえ!』


 1時間ほどの飛行で、砂漠のなかにちいさな森が見えた。中心部に水をたたえたオアシスが見える。


「ムラ! ツイタ!」


 あたまのうえで弾んだ声が聞こえた。高度がさがりはじめる。森のちかくには、小柄な人影が何人もいた。ワーレディバグではない。子供がローブをかぶっているようなシルエットだが、腕が地面につくほど長い。

 おりたときに正体が分かった。猫背な灰色のモグラの魔物だ。長い爪で草を抜いたり、岩を運んだりしている。


 テラノヴァたちが近づくと、作業の手を止め、地面にひれふした。


「ムラ、イク!」

「……」


 先導するワーレディバグはモグラたちを一瞥いちべつもしない。モグラたちのへりくだった態度から、下層労働者、あるいは奴隷階級なのかもしれない。ことなる種族の魔物を、労働力として使役するさまは珍しい。


『このモグラたち、目があるな』


 あたまを伏せている横顔に、茶色い目がついていた。目が合うとさらに顔をふせる。徹底的に服従をしこまれている。

 森の南東部分に、洞窟がくちを開けていた。日に焼けた赤茶色の地面がえぐられ、地中につづくゆるい坂になっている。


 ワーレディバグが手を引いてなかに入ってゆく。坂の途中でべつのワーレディバグにであったが、無反応だった。なんどか曲がったさきで視界がひらけた。広大な地下空洞に出た。


 思わず息をのむ。

 木造の伽藍を中心に、地上とそん色ないくらい果樹園が広がっていた。

 琥珀色の魔石に照らされた、色素のうすい白緑色のリンゴの果実がある。地上よりもさらに多くモグラたちが働いていた。


「これは……」


『すげぇー』

『地下農園じゃん』


「コッチ、クル」


 コロシアムに似た建物に案内された。

 大伽藍の中央には、昆虫形態の天河天道が8匹、円をえがいて座っていた。どこかあまい匂いがただよっている。


「タスカッタ、イノチ、ウレシイ」


 テントウたちは何やらカチカチとあごを鳴らし、盛んに触覚をうごかしている。


「ウン、ウン、ワカッタ!」


 何もわからぬうちに謁見がおわり、伽藍からつれ出された。

 建物の裏手に案内される。そこにはレンガと天然石で作られた露天風呂があった。視線をさえぎるものがほとんどなく、地下果樹園で働いているモグラたちの様子が丸見えだった。


「マツ。ミズ」


 しばらく待っていると、モグラの魔物が何匹も、桶をあたまのうえにかかげてやってくる。地上から運ばれた暖かい湯が、湯船に満たされてゆく。

 浴槽をかこんでいる黒い石のレンガは、水はけの良い溶岩製だ。テラノヴァは連れ込み宿でみた覚えがある。

 浴槽はレディバグ状態にはせまいおおきさだ。


「ここは人間になったときに使うお風呂ですか?」

「ソウ! ヒト、ナル! ハイル! ハイル! ウレシイ!」


『やったぜ』

『フロ、ハイル! ハダカ、ミル!』

『ハイル! ハイル!』


 月の人がワーレディバグの真似をして盛りあがっている。

 ワーレディバグはすでにローブをぬいで、肌をおしげもなくさらしている。


『見ろよあのデカパイ』

『尻もボリューム感あるよな』

『ありがてぇありがてぇ』


 種族の外見の面影が、人間形態にも残っているのだろう。胸も尻もまるみをおびておおきく、太ももはむっちりとしている。蜂のように腰がくびれているだけに、余計に肉付きが強調されていた。


 湯をまっているあいだに、モグラが果実を乗せた盆をもってきた。うやうやしく頭のうえにかかげ、ひざまずいている。


「クウ! クウ!」


 青白いリンゴが1つ、水色のグミの小山、10個ほどの粒がついた黄色いナツメヤシが一房、ピンク色の苺が5つ、芽キャベツのような外見をした謎の植物が1つ乗っていた。


『おお、まともそうな食い物』

『毒は平気なのか?』


 ワーレディバグは手づかみでむしゃむしゃと食べはじめる。あごの力が強く、リンゴが一口で半分以上がけずりとられた。

 果汁が飛びちり、テラノヴァはすこし距離をとった。


 色の濃い果実は地上産、その逆は地下だろう。しかし謎の植物だけは何かわからなかった。

 

「これは何ですか?」

「パン。アブラパン」


 ワーレディバグが濃い緑色をした実を手にとり、メキメキと割った。内部はあかるい黄色がかった実がつまっている。中心に橙色の種がひとつ入っていた。片方をわたされた。思わずうけとってしまう。


「クウ。ウマイ」


 ニッとくったくのない笑顔を向けられる。

 黄色い断面から、ほのかにあまい香りがした。

 ワーレディバグは皮ごと果実を食べている。ギュム、ギュム、とかたそうな咀嚼音が聞こえた。


「いただきます……」


 おそるおそる、皮をむいてかじってみる。

 生焼けのパンのような、もっちりとした噛みごたえがした。噛むたびに、わずかなあまみを持った果汁があふれる。痛みや痺れはない。


「ん……これ」


 唇が果汁ですべる。果汁に油分が大量にふくまれている。

 だからアブラパンなのだろう。

 ひとまず害はなさそうだったが、生食よりは焼いたほうが、おいしく食べられるのではないかと思った。


「……」


 テラノヴァが持っている果実を、ワーレディバグがじっとながめている。かじりかけで悪いと思いつつさし出すと、目をかがやかせて受け取り、ひとくちで食べた。

 成人女性の外見をしているのに、子供のようにほおばるすがたはギャップをおぼえた。


 風呂の準備ができた。


「フロ、ハイル! イッショ!」


 ワーレディバグが一足先に飛びこみ、なかから手招きしている。

 こんな魔物の巣で服をぬいでは危ない。しかし断ったとき、機嫌を損ねたあいてが戦いを決意し、修羅の巷をつくりだす可能性もある。

 それをふまえても、風呂は魅力的だ。

 砂漠の野営では、ときどきからだを拭くだけ。湯船は透明なお湯で満たされ、はいれば清潔感をもたらしてくれる。


「いただきます」


 誘惑に負けた。マントを脱ぎ、ローブをたたみ、下着を置く。コラリアだけはもって風呂にはいる。


『ハダカ! ミル!』

『魔物より貧相な身体だ』


「あー……きもちいいです」

「キモチイイ。アー」


 なさけない声を出したテラノヴァを見て、ワーレディバグがまねをして笑っている。月の人の低知能な感性とちかい。

 お湯の中にいる浮遊感。空中とはまたちがった、溶けるような解放感があった。

 ワーレディバグが肩にいるコラリアを指さした。


「タベモノ?」

「違います。仲間です。仲間、食べる、だめ。理解できますか?」

「ワカッタ」


 ワーレディバグがとなりまで泳いできた。腕につかまってあたまを寄せてくる。


「ヒヒヒ」


 みょうな笑い声をあげた。舌で頬をなめてくる。あたまの奥がむずがゆくなる。そのままキスされた。


「んむっ」


 果物のあまみを残した舌がからんできた。背中に微弱な快感がはしる。

 いますぐ走り出したくなるような衝動が、唾液を味わうたびに背中にはしる。

 やんわりとおし返そうとしたが、無理やり浴槽の壁におし付けられて、お腹のうえにまたがってくる。


「イヤ? イヒヒ……イヤ?」


 豊満な胸の感触がする。やわらかいパンのように腕にあたってつぶれる。首に腕を回され、もっちりとした肌で、全身をこすりつけられる。ざぶざぶとお湯が波打った。

 ふたたびキスをされ唾液を流しこまれた。


『レズ! レズ! レズ!』


「ん……」


 見た目があまり人間とかわらないため、昆虫人間と性行為をおこなっている忌避感はうすい。ただ、あまりに付きあいが薄いため、精神的なつながりなどなく、行為自体では興奮はできなかった。


 身体をあわせて時間にして5分ほど。

 ワーレディバグが不思議そうな顔で首をかしげていた。


「オマエ、ヘン」

「何がですか?」

「ワタシ、スキ、ナイ。ヘン」

「唾液に催淫作用がありましたが、もしかして誘惑していたのですか?」

「ユウワク……ソウ、ワタシ、ユウワク、シタ!」

「そうですか。私は精神耐性が高いので、毒はあまりききません」


 理解できなかったのか、からだをかたむけた。


「ドウシテ?」

「耐性ができるまで、なんども自分にかけました」

「ドウシテ?」

「どうしてでしょう……」


 理由を話したくなかったので、自分でもわからないという風に回答する。じゃっかんあたまのおかしい人に見えてしまった。

 ワーレディバグは考えてもわからなかったのか、湯船をおよいで離れていった。


「ふぅ……」


『おいレズおわりか?』

『いつものねちっこいセックスはどうしたんだよ』

『やる気だせ』


「仕方ありません……もうすこし毒をのんだら、効くかもしれません。誘惑を試してみますか?」

「スル! ン……」


 両手をひろげると、すぐに戻ってきてキスをしてくる。背中がむずがゆくなるが、それ以上の効果はない。


「ン……ン……ヘン……ヘン……」


 ワーレディバグの表情が、ゆるくほどけはじめた。

 風呂の熱で蒸されているのではない。

 性的な衝動が、皮膚をあかくそめていた。誘惑効果は減衰されていたが、魔力によってわずかな快感が共感され、本来の効果としてワーレディバグに伝わっていた。


「ヤル」

「何をですか?」

「コドモ、ツクル。オマエ、ワタシ、ヤル」

「できません。私たちはおなじ性別で、そのうえあなたはべつの種族です。子供は無理です」

「……カナシイ」


 ワーレディバグはあきらめて湯船に沈んだ。ぼこぼこと泡が浮かんだ。


『なにやってんだよレズセしろよ』

『オカズにしようとしたらすぐに終わって風邪を引きそうなんだが?』

『ドキドキしちゃった』


「こんな魔物の巣で何もしません」


 月の人にむけた小声を、ワーレディバグが聞きとがめた。


「シナイ? オマエ、ドコ、ハタラク?」

「私はポーション屋さんではたらいています。いまは休暇中です」

「ウエ? シタ?」

「どういう意味でしょうか」

「シタ……リンゴ、グミ──ウエ……イチゴ、アブラパン」


 必死に言葉をさがして話している。幼児と会話しているようだが、言語レベルはその程度なのだろう。


「ハタラク、ナイ、ダメ」


 ワーレディバグが食べる仕草をした。


「もしかして、ここではたらく場所を決めろと言っているのですか?」

「ウン! ハタラク!」

「ここにとどまるつもりはありません」

「ダメ、ハタラク、シナイ……エサ」

「……餌?」

「モグラモチ、ハタラク、シナイ、ブシャー」


 ワーレディバグがモグラの魔物を指さして、首を切る仕草をした。そのあと口をうごかしている。

 この虫はこう言いたいのだろう。命を助けたお礼に奴隷にするが、はたらかないと食う、と。

 巣から出ようと立ちあがったが、そばにおいていた服とカバンが消えていた。


「えっ」


 下着すら残っていない。ぬれた岩のタイルだけが残っていた。

 恐るべき後悔がやってきた。敵地で装備なし。味方もなし。動悸がはやくなり、湯にまざって冷や汗が流れた。


「コラリア、こっち」


 浴槽のふちにいたコラリアを腕につかまらせる。これで丸腰ではなくなった。しかし装備がなければ、脱出は難しい。

 ワーレディバグが太もものあたりに泳いでくる。無害なふうをよそおって、やってくれたと怒りをおぼえる。


「コドモ、ヤル?」

「やりません。私もはたらきます」

「ウン」

「それで、私の服と装備はどこですか?」

「モツ、ダメ。ミンナ、ツカウ」

「共有財産になったという意味ですか? ですが私のかばんは、私でなければ開きません」                 

「ダメ! ミンナ、ザイサン!」


 かたくなな返事だった。

 テラノヴァは自嘲して、引きつった笑いを浮かべた。

                                   

「困った事になりました……」


『やべぇ~』

『何とか隙をみて逃げ出そう』


「こんなところに長居はしません……月の人にお願いがあります」


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