第4話 魔物狩り雑談配信
テラノヴァは10日間の休みを取った。
ふたなりペニスを縮小させるポーションの作成に、どうしても必要な素材が売っていなかった。ギルドに依頼をだしても届かない。
必要な素材の収集にでかけると言って、工房長を説得した。
テラノヴァが抜けるとスケジュールに支障が出るため、工房長は調整をするから、しばらくは待ってほしいという。
しかしテラノヴァは自分の予定を最優先するタイプだったので、依頼を前倒しにしてもらった。
魔石ランプの明かりのなか、昼夜を問わずポーションの精錬にはげみ、身体が休息を欲しても、覚醒ポーションを飲んで完全にシャットアウトした。
2倍の時間働けば、作業効率も2倍である。
20日の仕事を無理やり10日で終わらせて、残りの10日で採取の旅に出発した。工房長のニコラスはあきれ半分、もう半分はからだを心配して、気を付けていけと言ってくれた。彼の妻はテラノヴァに一日分のお弁当を作ってくれた。
馬車に乗って東にある黒緑平野をめざす。
2日後、街道の宿場町でおりて、あとは徒歩である。
「うう……」
かたい馬車の座席にすわりつづけていたお尻が痛い。
「コラリアは大丈夫?」
片手にかかえた壺に話しかけた。クラーケンの幼生がはいった壺から、ちゃぷりと水がゆれる音がした。
経験上、反応があるときは平気である。
コラリアが怒るとどんなに話しかけても反応しない。オウムガイに似た殻に閉じこもってテラノヴァを無視した。
宿場町で水を買ってから、南の森をめざして歩きだす。
ここから森を抜けるのに1日。復路を考えると、黒緑平野には4日間滞在する予定だった。
なだらかな平地から、ごつごつした岩の多い森にはいる。森のなかは薄暗い。
ブナやシラカバの木が密集して生えており、倒木もあって視界が通らなかった。
左手に鈍足の杖を持った。
コラリアは右手のひじあたりにしがみついている。すでに魔物の生息圏内なので、注意するに越したことはない。
せっかくなので配信球を点けた。
「今日は森を進んで、黒緑平野を目指します。今は平野をさえぎっている森のなかです」
しばらく歩いているとコメントが来た。
『リードちゃんは?』
『密林』
『鳥の声がうるさいな』
「今日は森のなかを進むだけです。残念ながら私ひとりです」
コメントには不満が渦巻き、視聴者数がへっていると
若木のはえた斜面をのぼり、苔むした大きな岩を
「ブラックベリーです。これは料理やお菓子に使いますが、薬の材料にもなります」
『おいしそう!』
『非常食だ。食べてみようぜ』
「生はすこし危ないです。これを食べにきた虫や動物の、悪いものがついている可能性があります」
『安全なブラックベリーって保証もないし』
『うんうん』
「餓死しそうなときに食べてみます」
『不穏でわらった』
小声で話しながら進んだ。整備されていない森林は日光がさえぎられて、視界が悪い。地面もつねに湿り気をおびていた。
できるだけまっすぐ進んでいるが、大量にはえたブナの若木が視界をさえぎり、
くぼ地やひくい地面も避けた。
経験上、そういう場所はとくに水分をふくんでおり、ゆるい泥にはまって足をとられたり、湿った腐葉土や苔ですべる可能性があった。
「あっ、山羊です」
頭にフランベルジュのようなねじれ角をはやした動物が、あたまをあげてテラノヴァを見ていた。口を動かして葉を食べている。みあげるほどおおきい。
お互いに距離をはかっていたが、山羊のほうがさきに動いて、森のおくに消えていった。
「ふぅ……襲ってこなくてよかったです」
『食べられる?』
『あの角で体当たりされたら耳とか飛びそう』
「気性が荒いオスにであうと、目があっただけで襲ってきます。本に書いていました」
敵対的でなかったため、運がよかった。
もし森に棲んでいるトロールやホブゴブリンといった
むだな苦労はしたくなかった。
雑多ないきものの鳴き声が聞こえる森のなかを、足音で増やしながら進んでいった。
『左に見える大きな岩のうえ、なんかいたぞ』
「……?」
月の人のコメントに足をとめる。
左の斜面に、横長の岩が何層にもおりかさなった場所がある。ここだろうか?
じっと目を凝らす。
ただの岩の輪郭にかくされた、生物的なフォルムが見えてきた。
爪の生えた指が、うろこをまとったからだが、三角形のあたまがわかる。
おおきなトカゲがうずくまっていた。
体長は6メートルほど。岩の模様だと思っていたのはトカゲの目。灰色の目がこちらを見ていた。
日光浴していたのか、獲物をまちぶせしていたのかわからないが、トカゲは立ち上がった。
赤い舌を出し入れしている。
「
すでに目があっている。
テラノヴァは考えた。
先制攻撃をすれば有利になるが、戦闘となればおおきな音がでて、ほかの生き物をよびよせてしまう。苦労がまちがいなく増える。それはよくない。
殺し合いではなく、一時的に戦闘を避けられれば、一番平和的かつ安全ではないか。
かばんに手を入れ、ポーションを取り出した。毒々しい黒と赤紫の液体が、びんのなかで対流している。これは失敗作からできたビランポーション。
『やるのか』
『逃げないのかよ』
「撃退できればそれでいいです」
ポーションを投げた。威嚇するために手前に落として割れるはずだったが、身体を回転させたサラマンダーの尻尾が空中でびんを割った。
「あっ」
ビランポーションが直接トカゲのからだに降りかかった。皮膚に穴がぶすぶすとあき、むきだしになった筋肉がとけてゆく。
「ゲゲゲゲゲッ!」
けたたましい叫び声があがった。胴体部分の背中がとけて、悲惨な有様になっている。背骨がとけて信号がおかしくなったのか、右足と左足が逆方向にすすもうとして地面をかいていた。
『ひでええ』
『おえ』
「逃げます」
ケミカル臭のなかに、肉体がとける生臭い臭いが混ざっている。とにかくその場から走って遠ざかる。
『ゾンビ映画のモンスターみたいになったぞ』
月の人がよくわからない言葉をいっていた。
倒木を乗りこえ、茂みを突っ切り、蜘蛛の巣がかかるのも気にせずに走った。トカゲの咆哮で生き物たちがおびえ、シンと静まった森をかける。やがてその沈黙を恥じるように多彩な肉食生物の吠える声が聞こえた。
「うわ」
坂のしたを緑色の狼のむれが、全力疾走していった。
フードをかぶって木の根のそばにふせる。通りすぎるまでは、石のまねをした。
『やべえ』
『匂いでばれるんじゃないか?』
「コラリア」
クラーケンの幼生を根のうえに置いた。視界を共有し、あたまを伏せたまま周囲を確認する。300度に近い視界を持っているコラリアの目には、根のあいだに隠れたテラノヴァのかわりに、周囲が安全を教えてくれる。
むれが走ってゆく。しんがりの狼がふり返ったが、そのまま走り去っていった。
「ありがと。長居はしていられないです」
『ここはひとりで来る場所じゃない』
『そのうち死ぬって説教された意味が分かってきた』
「この程度は危険のうちに入りません。月の人は心配性のかたが多いです」
そのあとコメントが何か
数時間がたった。森はいよいよ深く、薄暗くなってゆく。
いきものの鳴き声にまざって、遠くからうなるような話声が聞こえてきた。
地形に身を隠して進み、声の方向をさぐる。数人の声だ。
巨大なセコイアの幹のそばに3人の人影がいた。成人男性よりもあたまひとつ分、背がおおきい。
(森オークです)
緑色の皮膚に、獣皮のこしまき。白い革をつなぎ合わせて作ったマスクで、首からうえを覆っている。マスク全体には、彼らの信仰する邪神の加護を記していると言われている、赤黒いうずまき紋様がいくつも描かれていた。
蛮刀と投げ槍を肩にかついでいる。
どうやら狩りのあとらしく、一匹の丸々とふとった山羊が、脚を縛られて横たわっていた。死んだ黒い目はひらいたままで、形容しがたい無常を感じた。
今度こそ平穏に、後ずさりしてその場をはなれる。
足音を殺してまっすぐ後ろにもどった。
「森オークは戦う価値がありません……倒してもらえる戦利品は、腰巻、死んだ山羊、野蛮な装備、毛皮の靴、そして頭部を覆った邪悪なマスクです。戦利品というよりは、ゴミにちかいです」
『へぇーいちおう考えているんだ』
『わかる』
『カネでも持っていればいいのにな』
『殺すところがみたいからはやくして』
「月の人が見たくても危ないことはやりません」
殺しても得られるものがすくない場合は、労力を惜しんだ。
略奪を生業にする野盗が森オークを評価したならば、殺す価値もないゴミカスだと言うだろう。
テラノヴァもそう思った。
さらに半日。
途中で珍しい青羽ホオノキが果実をつけていた。青いトゲの生えた楕円形の果実に、水滴形の種子がたくさん詰まっている。食あたりをなおす素材になるため、いくつかもぎたくなったが、我慢した。
かばんの容量は有限、これは帰りによゆうがあれば取ろうときめた。
日が暮れるころに森の外縁部にまでたどり着いていた。
あと1キロほど進めば森がきれ、黒緑平野に入る。
テラノヴァは倒木を転がして平らな地面を作った。
そこに不可視のテントを立てた。
マントとブーツを脱ぎ、コラリアを花瓶に入れて、座りこんだ。歩きどおしだった足が熱を持っている。
マッサージしつつ水を飲む。
冷たい水が喉をすべり落ちていった。もう一杯飲んだあと、水に魔力を込めてコラリアの花瓶に注いだ。
「今日は疲れました。森のなかは歩きにくかったです」
『お疲れ』
『よくがんばった』
緊張がとけると、精神的な疲れがおしよせてきた。もう何もしたくない。
テラノヴァは寝転がったままかばんを開き、食料のつつみを開けた。乾燥した杏子をいくつか花瓶にいれる。
内部で水音がしてコラリアが杏子をたべていた。
「今日は終わりです。またあした」
わずかに残っていた視聴者がコメントを返した。
魔石ランプに灯りをともし、テントの入り口をわずかに開けた。
闇のなかを飛んでいる羽虫が見えた。夜行性の生き物たちの声が聞こえる。熱いお茶を飲みたかったが、火を使うならそとにでる必要がある。しかし煮炊きは危険だった。
入り口を閉めてふたたび寝転がった。
食糧の包みをさぐる。ごろりとした塩辛い豚の乾燥肉をナイフでけずり、乾燥した根菜も同様に。木製の皿に水をはり、干しブドウをいくつか浮かべた。そこに切った豚肉と根菜をいれる。
しばらく待てばわずかに甘辛い味のついた、冷たいスープの完成である。
「……」
表面だけがふやけた、かたい肉の繊維を歯でちぎる。ごりごりと咀嚼する。
ときおり甘い干しブドウを口にふくむ。せめて暖かければ満足度があがるのに。あごの鍛錬をしているようなかたい肉をかじりながら、そう思った。
食事のあとは毛布のうえで瞑想した。
魔力の流れを落ち着かせ、心の乱れをなおす。
一時間ほどで精神がほぐれ、ささくれだった疲労が落ちついた。おざなりだった警戒心が戻ってくる。
おおきな獣がゆっくりと歩いている足音が聞こえる。その振動が遠ざかってゆくのを感じていると、眠気がやってきた。
安全な空間にいると意識すると、眠くなった。
毛布をひっぱり出して、くるまった。ほのかにリードの匂いが残っていた。
「……」
あまい声、かわいい裸、いろいろな表情──それらをくっきりと思い出した。毛布にくるまって、ゆっくりと深呼吸した。
翌朝、わずかに残った疲労感を、からだを伸ばして打ち消し、乾燥果物を朝食とした。
テントをしまって歩き出す。
朝の森は生命にあふれ、鳥の鳴き声がこだましていた。
「おはようございます。今日は黒緑平野に出ます」
配信をはじめるがコメントはない。まだ退屈な内容と判断されて、通知がいっていない。
木の根がむき出しになった坂をくだり、斜めにかたむいた巨木からたれさがった毒ツタをさける。
木のむこうに開けた広場が見えた。目を凝らすと様子がおかしい。
「何かいます」
『おはノヴァ。配信してたのか』
『見にきたよ』
木に登ってながめてみる。
地面には大量に穴があいていた。
病原体に犯された皮膚のような水玉模様だった。穴だらけの広場の中央には、巨大な
『朝飯前に勘弁してくれ……』
『閲覧注意の通知がきたから、エロだと思って見にきたらこれだよ』
『俺ぜんぜん平気だけど嫌な人もいるんだな』
「すごく甘い匂いがします……おそらくアルラウネの変種です。地面の穴は小動物をとらえるための罠です」
少しながめていると、赤ん坊ほどのおおきさのウマバエが、ふらふらと広場に飛んできた。そのまま穴の
やがて動きがせわしなくなり、脚を広げて痙攣した。穴に落ちる。緑のふたがスライドして閉じた。
広場の周囲にある木は、葉が茶色や黄色に変色している。そちらからも養分をうばっているのかもしれない。
「アルラウネの根は惚れ薬の原料になります。帰りに余裕があれば伐採します」
テラノヴァの声に反応したのか、巨大な薄ピンク色の
太腿からうえが薔薇ににた花弁から生えていた。遠目に見れば、全裸の女性が胸と股間を手で隠し、髪をたなびかせている。
あまい香りが強くなった。人間を発情させるフェロモンが出ており、動悸が早くなった。
「とても魅力的な香りです。これで判断力を失った人が引き寄せられて、食べられてしまいます」
『こわい』
『気を付けよう』
『テラノヴァちゃんはおペニスを生やすほうの性別だから危ないよ?』
「私は誘われたりしません」
『ふたなり薬をつかって逆に
「──ふふっ、私が魔物を襲うのですか? ふふふっ」
あまりに低知能なコメントに、思わず吹き出してしまった。人食いの魔物に性交でいどむなんて、程度の低い春本に登場する英雄のようだった。
くすくすと笑っていると、アルラウネは両手を広げ、にっこりと微笑んで乳房を強調、誘惑をくり返していた。あの魔物もまさか自分が犯される話をされているとは思わないだろう。
──グゴオオッ!
怒号が聞こえた。空気が震えた。
広場の向かい側にある大木が、めりめりとへし折れ、黒い塊が広場におどり込んできた。
ゴアッ! ゴルッ! ゴォ!
巨大な
笛のような悲鳴があがった。
アルラウネが花弁ごと引きちぎられた。ピンク色の液体がとびちる。長く鋭い犬歯にあたまから丸かじりにされた。
一口目で頭部が消えて、悲鳴がぷつりと途切れた。
猿が咀嚼しているとき、赤緑色の体液がぼたぼたとこぼれた。肌の色が急速に変化し、焦げ茶色になった。四肢がぐったりとして完全に枯れた。
「……うわぁ」
『すげえ』
『バカかよ早く逃げろ』
『あぶない!』
テラノヴァは静かに木をおりた。足音を殺して広場から遠ざかる。最後に振り返ったとき、
ときどき、狂おしい遠吠えをしている。
「勝算はないですけど、すこし戦ってみましょうか?」
『!?』
『なんでだよ』
『テラノヴァちゃんって頭おかしいの?』
「冗談です」
十分後、もう安全だと思われる距離に来たとき、ようやく落ち着いて話ができた。
「たぶん、あの
『おれもそう思う』
『エサのかわりに天敵をおびき寄せてしまうなら、虫を食っていたほうがましだったな』
『テラノヴァちゃんが旨そうに見えたから、がんばって誘惑したんじゃないカナ? おじさんも味見したいな!? ナンチャッテ』
『頭ではダメだとわかっていても、やめられないことってあるよな』
「ええ。理性で感情をとどめられる人は偉いです。私もうまくできません」
もし事前に未来の結果を知っていたなら、アルラウネも誘惑を止めていただろう。知識、行動、感情、どれも予測できないから難しい。
『おまえの後ろから猿が出てきたら、危なかったよな』
「言われてみればそうです。もしあんな魔物が来ると知っていたら、すぐにその場を離れていたでしょう。結果だけ見れば私は生きていますけど、反省が必要かもしれません」
『反省して!』
『具体的にはどうするんだ』
「あっ、もうすぐ森が切れます。ようやく黒緑平野です」
『おい反省』
昼過ぎに森がきれた。小麦色の大地がひろがっている。短い草のほかには、白い幹の低木がぽつり、ぽつりと生えている。
遠くに川の流れがみえ、その部分はなだらかに地面が落ち込んでいる。
水があり、平らな地面があり、気候も穏やか。
「つきました」
『いい景色だ』
『サバナじゃん』
『よさそうな場所だが、誰も住んでないのか?』
「ここは危ない場所ですから、住めません」
入植できればかなりの人口を養えそうな土地だが、今までなされていない。
テラノヴァはテントを広げた。
なかでフード付きのマントとローブを脱いで、かばんにしまう。露出行為に月の人は喜んでいた。
薄青色に染色されたポンチョを下着のうえから羽織った。
足元まで隠れる長い裾だった。
さらに同じ薄青色の頭巾をかぶる。口の部分には呼吸用のながい口吻、目の部分には同じ色をしたレンズが入っている。
『何その恰好。テロリスト?』
『顔が見えない……』
「これが黒緑平野で必要な装備です」
マスクのしたで話すと、くぐもった声になった。
「工房で染色剤を作ってもらって、染物屋でそめてもらいました。これを着ないと、平地トロールに襲われる可能性があります」
『迷彩服か』
『防護服みたいなものか』
さらにポンチョの上から虫よけポーションを振りかける。ブーツと足元にもすり込んだ。
「では、行きます」
短い黄色の草地を踏むたび、やぶ蚊が何匹も飛びあがった。
ポンチョのなかで蚊が飛びまわり、皮膚に当たってくすぐったいが、そのうち虫よけを嫌って出ていった。
「虫に刺されると危ないです。病気になります」
『知ってる。マラリアだろ。東南ア※※で流行ってるもんな』
『風土病か……』
黒緑平野にいる蚊やカメムシ、ハエは、ここに住んでいる生物の血を吸って暮らしている。
それらに人間がさされると重い病気になった。手足が膨らんで使えなくなったり、皮膚や内臓が腐ったりする。
かつては何度も入植を繰り返し、そのたびに集落が壊滅した。それらの集落にいた指導者の日記や手記は、警鐘として知らしめるために、この地方独特の出版物として販売されていた。それらの話をすると、月の人は
『思ったよりも汚ねぇ土地だ』
『ア※※※大陸かよ』
川のそばまで来た。
上流と下流、どちらに進んでも目的地にはつく。マスクのなかは息苦しく、うっすらと汗をかいている。
「これで決めます」
小枝をひろって投げた。
先端は下流をさしていた。
「よし」
川にそって下流を目指す。
『何がいいんだよ』
『適当すぎて笑った』
川べりを歩く。わずかに水分を含んだ風が、ポンチョの内側にはいって涼しかった。
ときおり透明な水の流れに目をやる。浅くてひろい川には、魚がキラキラと光っていた。よく太っていて食いでがありそうだった。
「……あれ?」
魚とは違った光が川の中に見えた。
青みがかった視界を凝らしてみると、水中にかがやく鉱物らしき塊があった。
「川のなかに何があります。行ってみます」
『ピンク色の真珠にみえる』
『岩にはさまってる』
配信球で見ている月の人のほうが、マスク越しのテラノヴァよりもはっきり見えているらしく、詳細な情報が来た。
低い土手をおりてもっと近くで確認すると、吸い込まれそうなピンク色の石が確かに水中にあった。
魔力を含んだ宝石だろうか。
ちょうど川の中心あたりに落ちている。
「取りに行ってきます」
『もしかしたら罠かもしれないぞ。気を付けろ』
川のなかに一歩踏み出したとき、強烈な違和感が襲った。
「……!?」
慌てて後ろに飛びすさった。
川底は細かい石でできているはずだが、踏みしめた場所は、木の板を踏んだような弾力があった。
川岸を走って土手を駆けあがる。背後で水面がもりあがった。
ふり返ると、水しぶきをあげて巨大な蟹がすがたを現した。
足の先にヒレがついている。テラノヴァが踏んだのはこれだった。ヒレが感圧版の役目をはたして川に入ってきた獲物を感知していた。
「ひぃ」
灰色の甲殻は川底に擬態した模様だ。甲羅の中心にはピンク色の宝石がはまっている。
長いはさみが背中を追ってくる。ジャンプしたとき、真下の土手がなぎ払われた。
タイミングが遅ければ、脚か胴体が両断されていただろう。はさみの内側は刃物のように鋭くとがれていた。
「……!」
『うおおおお』
『あぶねえ!』
水滴が舞ってきらきらとかがやいていた。
蟹は2つの目玉を高く伸ばし、全方向をせわしなく見回している。口元からはぶくぶくと泡を吹いていた。
再度のはさみはあたまのうえを通過した。チリッとかすった音がした。
蟹は追いかけてきている。意外にすばやい。
すきをみて、かばんにある麻痺のポーションを投げる。精密な動きではさみが空中でびんを捕まえた。先端にはさんで壊さずに保持している。
「はぁ……すごい」
思わず感嘆してしまった。巨体に似合わない繊細なうごきで、びんを下流になげすてる。
泡を吹きあげ、目玉が甲羅に引っ込んだ。太陽を信仰するように全身で低くうずくまり、次の瞬間、脚を伸ばして飛びあがった。
着陸予想地点は、テラノヴァの真上だった。
巨体が落ちてくる。
地面のしみになるまえに全身でジャンプした。川の方向は地面が低い。ごくわずかでも距離をのばせる。
巨体が土埃と草をまきあげて着陸した。
「ぐっ」
ぎりぎり踏みつぶされはしなかった。かわりにはじけ飛んだ岩の欠片が、後頭部にあたった。
迷妄の杖をふったときのように、視界がにごる。
蟹はガサガサと脚を動かし、旋回してテラノヴァを探している。両断されて食われるか、つぶされて食われるときが近い。
ゆれるあたまで鈍足の杖をにぎった。
「えほっ、けほぉ」
吐きそうになる。
うごくだけで自動的にせきが出た。片手に麻痺のポーションをふたつつかみ、投げつける。これも空中でとめられた。
はさみがあがったので、脚がみえた。横に走りながらうしろのあし2本にむけて杖をふった。
おいすがる蟹の旋回がとまった。今度は逆方向に回転しはじめたので、それにあわせて走る。動かない脚の近くにいれば、攻撃されずにすむ。
思考がはっきりするまで時間がほしい。
蟹がちいさく飛んで2つのはさみを振り回した。
かがんだ頭の上を、伸ばした甲殻がかすっていった。はさみにはえた棘に引っかかり、マスクが飛んでいった。
(蟹ッ……!)
脳内で罵倒して、杖に魔力を込める。あたまに血が上った。
狙いの定まらない視界のなか、何度も撃てばあたると考えて、むやみに撃ちこんだ。
片方の脚がすべて止まった。
蟹は旋回をやめ、怪我を負ったと肉体が自動で判断し、根元付近で脚が取れた。
丸太のような4本の脚が脱落する。
脚をうしなったからだが横向きに倒れた。
残った脚で胴体をもちあげ、ふたたび倒れこむ。わずかに前進して、川に戻ろうとしていた。
「はぁ……はぁ……まったく……」
外気にさらされた髪が、風にすかれて涼しい。ごろごろと転がっている脚を避け、地面におちたマスクを拾う。硝子の端にひびが入っていた。かぶりなおすと、ヒビの線が右目の端に見えたが、問題はなさそうだった。
「んむぅー」
リードのようにうなってみるが、破損個所がなおりはしない。
胴体を浮かせて進む蟹の背中に、杖1本分、15回分の強度で鈍足を当てた。パズルのように重ねた大きな杖から、力を失った一本が脱落した。
蟹は2本のはさみを空高くかかげ、おおきな音をたてて土手に倒れた。川まですぐそこだった。
『やったぁ!』
『すげえ』
『やるじゃねぇか』
「手こずりました。沢蟹のくせに……」
短剣を抜く。蟹は完全にとまっていた。甲殻によじ登り、背中の殻のうえに立つ。
足元にはピンク真珠があった。すでに光っていない。
短剣の
台の接合部分には、血管らしき管がつながっていた。宝石自体を眺めまわして見るが、生体部分はない。
「この宝石は蟹が背中で作ったみたいです。生かしておくとまた取れるかもしれません。殺さずにおきましょう」
『やさしい』
『えらい』
『かしこい』
「すごくどうでもよさそうな発言、ありがとうございます」
宝石をかばんにしまう。蟹にはほかにも価値ある部分があった。
「はさみはリードさんのお父さんへお土産にします」
リードの父親は甲殻防具店を営んでいる職人で、この平野の情報をくれたのも彼だった。この蟹の殻もほしがるかもしれない。
はさみのとなりに立って、長さをはかる。
はさみのある腕は付け根から先端まで、テラノヴァの身長よりも長かった。切り離さないと持って帰れない。
短剣を関節に差し込んだ。薄い膜でつながっている関節は、なんとか刃がとおる。切れ目をいれて肉を斬り、一周すると爪の部分がごろりと転がった。
「ううぅ……」
それをひっぱるが、重い。
抱えるのはあきらめて、地面に寝かしたまま鞄にしまおうとした。かばんの入り口に何とか入る太さだった。
「コラリア、口を開けてて」
クラーケンの幼生に頼んで、かばんを広げておいてもらう。反対側から押すと、ずるり、ずるりと蛇が獲物を飲みこむように、なかに入っていった。
重量軽減効果が働いて、持ち運びできるようになる。
しかし余剰インベントリの1割がハサミで埋まってしまった。
『バカみてえな光景で笑う』
『手品かよ』
『おれもそんな鞄がほしい』
「魔法のかばんは魔術ギルドで売っています。容量のおおきさと重量の軽減で値段がちがいます。高いものはお家が買えるほどの値段がするらしいですが、私は師匠からうけ継いだのでよくわかりません」
『よくある無限収納はないのか』
「……無限に収納できるかばんは存在しないです。もしあるなら海を枯らしてみたいですが……」
『世界に影響すごそう』
『海底を歩いてみたいよな』
『もうすこしかわいい発想をしてくれ』
「かわいい発想……無限にかばんに入るなら、たくさんお土産をもって帰れます。喜ばれると嬉しいです」
『かわいい』
ありえない話だが、おもしろかった。
蟹はそのままにして、出発した。
ときおり休憩をはさみつつ、下流を目指す。
やがてまっすぐに空にたちのぼる煙が見えてきた。さらに近づくと、物見やぐらの上部分がみえてきた。
集落を囲んだ木のさくがある。
いくつか立っている物見やぐらは、骨組みがむき出しの粗末なつくりで、5メートルの高さもない。
やぐらには黄土色の皮膚をした、小柄な人影がたっていた。小柄だが、筋肉が盛りあがっている。おおきなまるい石を皮膚のしたに埋めこんだかのように、肩や膝がふくらんでいた。
全身のシルエットはずんぐりむっくりだった。
「あれは平地トロールです。ある程度の文明を持った魔物で──えっ?」
トロールがテラノヴァに向けて手を振っている。
(見つかって……? それとも後ろにいる?)
振り返るが何もいない。だったら挨拶なのだろうか。杖をさぐって手早く黙らせる方法を考える。
しかし平地トロールは別の方向をむき、また手を振った。警戒しつつ見ていると、単に虫を払っているだけだった。
「……」
『怖いか?』
『勘違いして笑った』
「うるさいです」
マスクの奥で深呼吸をした。じっとりとした汗が背中を流れる。万が一でも感知されたら、集落全体が蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。何のために暑い思いをして、トロールの視界に映らない服を着こんでいるのかと、一瞬後悔した。
慎重に足音を殺して、集落にちかづく。内側は草がかりとられ、遊牧民のテントのような円錐形の屋根がいくつも並んでいる。
「ゲヒャー」
「ゲッヘッヘッヘッヘッヘ」
集落の中央では大きなかがり火が焚かれ、そこには串を刺された
等間隔に4人。
「やめっ、やめてくれぇ!」
そしてまだ生きている一人が、あたまから地面に押さえつけられていた。
「やげべえぇ!」
男はおけのまえで喉を切られた。血があふれトロールたちが歓声をあげている。
テラノヴァは顔をしかめた。
『死んだ』
『魔物すぎる……』
さらに近寄る。
血抜きの終わった男は、肛門から木の杭をさされて、かがり火の近くに立てかけられた。すでにいる先客は程よく焼け、脂がこぼれるたびに、ぱちぱちと薪がはぜた。焼きあがった人間は降ろされ、石のナイフで肉を切りとられていた。
「うっ」
臭いで吐き気がこみあげてくる。
しかしこの臭いがあるからこそ、嗅覚で気づかれる可能性が減っていた。
マスクの下で涙目になった。人肉の匂いが出ていかない。
彼らはおそらく平野近くの森にすんでいた農民か、何も知らずに黒緑平野に逃げこんできた奴隷あたりだろう。よく焼けたひとりが巨大な平地トロールにまるかじりされていた。
悲しすぎる人生の結末だ。
『グロー……』
『さっきから酷いシーンしか映らない』
『低俗すぎる。この配信どうなってるんだ』
月の人たちも困惑している。テラノヴァもおおむねその通りだと思った。
カニバリズムの中心部を避けて、集落の周辺を歩く。酸鼻たる光景がくりひろげられているが、利点もあった。
(いた)
黒い色をした狼が数匹、集落の近くに座っている。首輪とリードをつけられ、地面にさした杭につながれていた。平地トロールは黒狼を狩りに使うと文献で読んだが、その通りだった。
狼たちは大腿骨らしき骨にかじりついていた。
(これを使います)
赤い粉が入った小瓶を振って布にまぶし、石をつつんで黒狼の近くに投げた。
「グウウウ……グルルル……キャン!」
「キューン、クゥーン」
黒狼たちは前足で鼻をこすり、苦しそうに鳴いている。布にかけたのはスコーピオンペッパーの粉末だった。
刺激臭で嗅覚にすぐれた生き物の鼻を攻撃し、機能を一時的に破壊できる。
また粉末が目に入るだけで一時的に失明にもできた。
黒狼たちは地面で暴れまわっている。
すこしだけ気の毒に感じたが、バーベキューになっている人間を狩りだしたのも、この狼たちだろう。
さらに近寄り、確実に命中できる距離から、睡眠ポーションを投げた。
土のうえでぐしゃりと潰れたガラスの内側から、強力な催眠効果が揮発した。
おどろいて飛びあがった狼がいたが、よたよたと数歩歩いて、やがて倒れた。
つぎつぎと昏倒してゆく。
舌を出したまま倒れている狼もいた。
にぎやかさから一変、静寂がおとずれた。
「無力化しました。これで数時間は目をさましません」
『すごい』
『狼無力化記念(##### → 金貨2枚 銀貨7枚に変換)』
背景が赤でいろどられたコメントが表示された。発信した人の名前と内容が、特別目立つ色ででている。
「この強調された発言はなんですか?」
『ギフトコメントだよ』
『金を払ったら目立つコメントができるんだ。今のは一か月に課金できる最大額』
『お金が入るからお礼を言う人もいるけど、無視する人もいる』
「はあ。それでは後でお礼を言います」
カネを払って目に留まらせても、何の意味があるのかテラノヴァにはわからなかった。ひとまずは狩りに集中した。
トロールたちの警報装置は取りのぞかれた。テラノヴァはポンチョをきちんとかぶりなおす。
いよいよ集落のなかに入る。
見えていないはずだが、緊張した。
一番外側に作られた家に入った。木の骨組みと、獣皮の屋根でできたテントは、簡素だが、なかもろくに家具はなかった。
毛長牛の敷物が中央にしかれ、牛の膀胱で作られた水袋と、ひび割れた土器がある。土器の内部には麦の穂が入っていた。
「ない……」
求めるものはなかった。最初に想定したとおり、平地トロールから奪わないといけない。
杖を分解した。おおきなひとつの杖は、10本の小さな杖の集合体である。すでに9本に減っている鈍足の杖から1本をわける。
もう片方の手に短剣を持った。
カニバルバーベキューの近くに、平地トロールたちのほとんどが集まっている。
まずは離れた見張り台に向かった。
蟲を払い、皮膚をぼりぼりと掻いているトロールの背後に忍びよる。
木製の階段が昇るたびにぎしぎしと音を立てた。
トロールが振り返った。
階段を登るすがたは人間には丸見えだったが、トロールは目をみひらき、あたりを見回した。魔物の目には薄くぼやけた
トロールは歯をむき出し、目をこすった。そのうち諦めて背中を向けて、監視に戻った。
「……」
トロールの背後に立った。テラノヴァよりも頭ひとつ分ちいさい。
杖の先端をポンチョから出して、直接触れた。
「ヴェェェ」
奇妙な声は途中でまのびして、動作が緩慢になった。
短剣で肺をねらって突き刺した。
貫通と毒の
ミニ噴水を作ったトロールは、声も出せずに立ったまま死にはじめていた。
腰巻に目当てのものがつり下がっていた。
黒緑石のお守り。
止めている紐をちぎり、20センチほどのお守りをかばんに入れる。
トロールのからだをうごかして、手すりにもたれかかる姿勢にする。疲れて眠っているように見えるはずだ。
「これを取りに来ました。この調子でやっていきます」
小声でささやいた。
黒緑石はこの平野だけで取れる鉱石だ。なかなか見つからない素材で、平地トロールだけが探す手段を持っていると言われている。
識者の見解では、彼らは黒緑石でお守りをつくり、邪悪な存在に信仰を捧げている。対象はまだ解明されていないが、おそらく闇の精霊もしくは先祖に加護を願っていると言われていた。
4つある見張り台をまわり、孤立していたトロールを殺した。
また途中でみつけたひとりでいる個体も刺した。死体は粗末なテントに引っ張って、寝ている風をよそおった。
外縁を掃除し終わると、あとはたき火で肉を楽しんでいる連中である。
はやし立てる声が聞こえた。
杖を持ったシャーマン風のトロールが踊っている。
毛長牛の漂白された頭蓋骨に、鳥の羽で派手な飾り付けをした兜をかぶっている。杖を掲げるとにごった歓声があがり、びたびたと手をたたく。食べかけの骨付き肉を天にかかげる平地トロールもいた。
魔物にとっては楽しい祭りなのだろう。
たき火を囲む外側のトロールからねらう。
座っているものは鈍足をかけてから、頸椎を刺した。
油断している肉は柔らかい。
「ゴォォ、ゴッ」
ねばっこい咳き込みをあげて倒れる。
平地トロールはとなりで同族が血をはいて倒れても、困惑して立ちあがるだけで、何が、どうやって仲間を倒したのか理解しない。
それも鈍足に捕らわれ、困惑したまま背中を刺された。
テラノヴァは見えない死の風となって命を奪っていった。
眠った相手を刺すように簡単だった。
盛大に痛がる声も聞こえなければ、断末魔もほとんど聞こえない。手ごたえはあるが実感は得られない。
これでは見ている月の人もつまらないだろうと、ひとりで悲鳴の演技をした。
刺すたびに小声で、
(うぎゃあ)
(ぐわぁ)
(きゃああ)
(やめてくれー)
などと勝手に心情を
『引くわ』
不評だった。
外縁にいた十数匹を刺したところで、さすがに警戒された。
死体が見つかり、族長らしき大柄のトロールが叫びをあげた。
トロールたちは石や骨の武器で武装した。何やら話をしているが魔物の言葉はわからない。
もし理解していたら、見えない敵に攻撃されていると聞こえただろう。
体格が2倍くらい大きい族長トロールは、近くにあった死体の首をねじ切ると、脚をつかんで振り回し始めた。
周囲に血が飛び散る。
「なるほど」
すがたが見えなくても血で染色されれば、形がわかると考えたのだろう。
下等なトロールにしては頭がまわると感心した。
彼らは少人数にわかれて、集落内を探索しはじめた。族長はかがり火のまえに座り、不機嫌そうに人間の串を咀嚼していた。
「バレました。追跡をはじめたようです」
テラノヴァは見張り台のうえに座って、それをながめていた。叫び声の時点で、かがり火を離れていたのだ。
眠っている狼たちをトロールが蹴っている。
ふかく眠った狼たちはそれでも目を覚まさない。激高したトロールは骨の蛮刀で、狼をばらばらにした。
「行きます」
『何やるかわかってきた』
『これでおわりだな』
平野にくりだした小部隊を襲う。3~4匹で固まって動いているが、彼らは自分たちの足音で接近に気づけない。
杖で触れる、短剣で刺す。触れる、刺す、触れる、刺す──そのくりかえしで間引いてゆく。
夕方までに、集落を構成していた平地トロール76匹を殺した。
ポンチョは返り血で汚れまだら模様になっていた。もう迷彩効果は期待できないだろう。
テラノヴァはいったんテントを出すと、役目を終えたポンチョをしまい、いつもの服に着替えた。虫よけも新しく振りかける。
準備を終えて集落に戻った。
あとは族長だけが、かがり火の前に座っていた。
テラノヴァのすがたを認めると、巨大な族長トロールは棍棒を地面に何度もたたきつけた。
地面が揺れるほどの殴打。夕暮れのなかで咆哮している。
その声には際限のない怒りと、孤独な悲しみが混ざっていた。
一族を奪われた悲しみ、侵略者への憎しみ──まるで高等生物のごとく叫ぶ魔物のすがたは、慟哭をかんじられた。
テラノヴァはようやく敵と対峙している緊張感をおぼえた。
族長は棍棒をふりあげて走る。
蜘蛛の巣の杖を遠くから振った。
網がかぶさり、それを族長は力づくではぎとる。
なんども振った。
糸をとりきれず、目に見えてうごきが遅くなった。
杖がひとつ脱落していった。族長は15回の蜘蛛糸に耐えた。
驚異的なパワーである。
あと135回の使用回数がなければ、族長は復讐をはたし、テラノヴァは地面のしみになっていただろう。一度かたむいた天秤は、二度ともどらない。もっとも俊敏である初動をおさえられた時点で、肉体のみをたよりにする族長に勝ち目はなかった。
闘気による魔法抵抗も、魔力がのった連続攻撃で消耗しつくしていた。
ふかい沼に首までつかっているように、うごきが止まった。
族長はまえのめりに倒れたまま。
「悔しいですか? ざんねんです。もうすこしで私を殴れました」
『心にもないこと言うな』
『性格悪すぎて笑う』
『まぁこいつら人間を殺しているし……』
「魔法効果が残っているうちに、とどめをさします」
蜘蛛の巣から露出した肉体を、きりきざむ作業がはじまった。
かがり火のまえには、食べられた人間の武器がちらばっていた。
半分におれた剣。短い槍。短剣。
せめてもの供養にとそれを使う。肩の筋肉はかたかったがノコ引きの要領でうごかすと、ゆっくりと切れ目がはいっていった。筋繊維のたばをぷちぷちと切ってゆく。骨をはずすまで50往復はした。
「ウゴゥオゥオゥオゥ」
間延びした声が聞こえた。半分だけみえる顔から、なみだをこぼす目が見えた。テラノヴァは罪悪感をおぼえて、悲しげに笑い返してしまった。
『魔物の
『麻酔なしで腕をちょん切られたら誰でも泣くだろ』
喜んでいる月の人との対比で、人間的にほめられない低道徳性は、罪悪感をさらに加速させる。
それは喜びだった。
かつて罪悪感をわざと感じて悲しみを消していた。
その経験から罪の意識とは、余計な感情を消してくれる喜びがあった。
「痛そうでかわいそうです」
声色におさえきれない喜色がにじんでいた。
『興奮してきた』
『リードちゃんがこれをみたら泣きそう』
「私と月の人の秘密にしておきましょう」
折れた槍を目につきさし、柄の部分をたたいて奥にめりこませると、静かになった。蜘蛛糸の効果がきれたあと、首をおとす。
トロール族長は、歯をむきだしにした憤怒の表情、呪詛がこもっていそうで、かがり火のなかに投げこんだ。
集落が全滅した。
死体から黒緑石のお守りを回収する。残った死体は家のなかにひっぱり、屋根を落として
集落から出ていくときに火をつけた。これで死体によけいなものがとりついて、アンデッドトロールにならない。
陽が落ちはじめ、集落の火災は夕焼けとまざってにじんでいた。
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