第34話 山脈の男
自分の知っている世界をすべて見せたところで、スーはアモスにもう一度行きたいところがあるか尋ねると、一番広い『ちゃんとした』牧草地と答えた。
「ああ、1区ね。いいわ、行きましょう」
「あれだけ広かったら、あのヤギたちもすぐお腹いっぱいになっちゃうね」
元は人懐っこい性分なのか、アモスは意外なほどすんなりとスーに懐いた。笑顔こそなかなか見せないが、向こうから声をかけてくることも多い。
「いやー、そう思うでしょ? ところがあれでも結構ギリギリでさ」
スーが知っているのはヤギの生態と飼育方法くらいであるが、それを知らない人間に語るというのは、案外気持ちの良い行動であった。
「そうなの?」
「うん。て言うのも、ヤギってメチャメチャ食べるのよ。だから、毎年草が足りなくなるんじゃないかって冷や冷やするんだ。下手したら、この辺全部荒地にしちゃうかもしれないからね」
「うわ、すごい」
「でしょ? だから、もっとヤギがいた昔なんかは牧草地を四つにして、完全に食べきっちゃう前に放牧地を変えてたんだって」
「前に聞いたやつだね」
「フフフ」
スーは笑いながら、まだ草の生え揃わぬ放牧地を、足元から順に眺めた。
そして視線が空に向かう、その直前に彼女は見つける。
(……あ!)
思わず息をのむスー。彼女が視点を留めたのは、アナ山脈の高度が下がっている部分、人為的に打たれた杭のところであった。
彼が、いる。
黒づくめの動きやすそうな装束に、珍しい黒ターバンを巻いたその男は、スーと同年くらいの若者に見えた。彼は杭のところでなにやら儀式とおぼしき所作を行っていて、こちらには気づいていない様子である。
「……どうかしたの?」
アモスの声が聞こえたが、スーはそちらに見向きもしないで、山の上の男に意識を集中している。
ほどなく、彼は儀式を終了させた。あからさまに集中を解いたのが、遠目にも分かった。
「あ、何? あんな場所に誰かいるよ?」
ようやくアモスも黒服の男の存在を把握したが、それどころではない。彼がいつもこちらに気づいてくれるとは限らないのだ。
(お願い……こっち見て……)
せっかくの偶然なのだ。一瞬でも視線を合わせたい。彼女は真剣にそう願った。
通じたのか、男は不意にスーの方を見た。
「!」
しっかり、目が合う。……が、せっかく願った通りの展開になったにもかかわらず、彼女は固まったまま何もできなかった。一方で男は余裕の表情で、不敵に笑みを作って見せると、片方の手のひらを軽くこちらにかざしてきた。つられるように、スーの顔にもうっすらと笑みが浮かぶ。
刹那の間だけ、世界がふたりだけのものになった……少なくとも、スーにはそう感じた。しかし男はつれないもので、次の瞬間にはもうその場を去っていった。
(あ……)
大声を張れば、あるいは呼び止められたかもしれないのに。彼女はこの幸福な偶然が訪れると、必ず後からそう思う。もちろん、そんな勇気は持ち合わせていないのだが。
男は常に束の間だけ目であいさつをして、すぐに姿をくらます。それはまるで、流れ星を相手に恋をしているような儚さであった。
「……。……ぇ。ねえったら。どうしたの?」
どうれくらい呆然としていたのか。結局スーは、しつこく声をかけるアモスによって現実に引き戻される。
「あ……ごめんね。何の話してたっけ?」
「ねえ、今の人知り合いなの?」
「え? えーっと……そうだなあ……」
知り合い、と言ってよいものだろうか? スーは悩んだ。
話したこともない。名前も知らない。どこに住んでいるのかも知らない。ただ、時々見るだけの存在。
「んー……どう言ったらいいんだろう?」
それだけの間柄にもかかわらず、彼女にとっては特別な存在になっていた。何故かと問われれば答えは簡単だったが、若い彼女はそれをそのまま他人に語るのをはばかった。
「……まあ……知り合い、かな?」
「ふうん」
あまり深く訊いてはいけない雰囲気を感じたのか、アモスはそれ以上詮索してこなくなった。
冬の1区は広いばかりで何もない空間だ。言葉少なになったふたりは、そのまま家まで戻ることにした。吹く風は冷たく、この地に春の恵みがまだしばらく訪れないことを告げていた。
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