第3話 ノマド

 メルフェリアの記念すべき初魔境。


 僅かな距離を小さな歩幅で数分程歩き、入って来た箇所が木々で隠れてしまったところ。意を決して踏み入れたのは良いが、予想外にも穏やかな道のりに覚悟との落差が彼女の情緒を仄かに狂わせていた。


 彼女が目にしたのは、普通の森と何ら変わりない。いや、それどころか割と舗装された道程であった。魔物の気配も無ければ、特に変わった植物が生えているわけでもない。


「どうだ?初めての魔境の気分は」


 そんな胸中を知ってか知らずか、斜め前を歩くロンゼルは前を向いたままメルフェリアに問う。顔は見えていないが、意地悪く笑っているであろうことが声色から容易に想像できた。


「あ、いえ、何と言いますか……。意外と、フツウ、だなぁと」


 恐る恐ると言った様子の回答に、ロンゼルは明確な笑声を上げる。


「まぁ、そう思うよな。ここは冒険家を志す人間が最初に訪れる場所の内の一つで来訪者も多い分、わりと整備されてるんだ。まともな『道』があるってこと自体がもう魔境としては楽勝の部類なんだよな」


「そ、そうなんですね……」


「だからと言って安全なわけじゃない。さっきの怪我人を見たろ?浅い所でも魔物は普通に飛び出してくる。気を抜くなよ。それに、余裕ぶっていられるのもそろそろ終わると思うぞ」


「あ、そうです……よ、ね……」


 不意に、メルフェリアの足が止まる。ロンゼルもほぼ同時に足を止め振り返った。メルフェリアの眉が下がり、小刻みな呼吸が増え、苦しそうに胸を抑えている。


が出たか。少し早かったな」


「こ、これが……。『ノマド』ですか……?」


「そうだ、流石にそれぐらいは知ってたか」


 ノマドとは魔境特有の空気のようなものである。魔物はこれを吸っても何ともないが、慣れていない人間が吸うと様々な悪影響が身体に出てくる。


 今、彼女を襲っているのは薄い膜のような何かが喉に張り付くような感覚と軽い頭痛であり、それはノマドの症状としてはごく軽度のものであった。


 ここの魔境は素人でも入って来れるほど濃度が薄い為この程度で済んでいるが、一呼吸で卒倒してしまう程濃い魔境も存在する。


 対策は。唯一と言って良い。


 バランラカの森に入って直ぐ、ロンゼルが歩幅を小さくして歩いていたのもメルフェリアに少しずつ慣れさせるためであった。


「う……。く、苦し……」


「ま、最初は誰だってそんなもんだ。俺もそうだったしな」


 エルダに背を撫でられながら苦悶を浮かべる少女を前に、ロンゼルは穏やかな郷愁を顔に浮かべた。


 ノマドは人間にとっては毒であるとされているが、魔物にとっては人間でいうところの酸素のような存在であり、ノマドが無いと逆に魔物の方がメルフェリアと同じような症状を起こしてしまう。


 故に、魔物が人間界へ出現することは稀である。


「よし、ちょっと休憩だ。ホラ、そこの岩にでも座ってろ」


「え……で、でも」


「言いたいことは分かる。だが、焦るな。素人がノマドに慣れないまま進める程、魔境は甘くない。ちょっとしか歩いてないのにとか、そんな風に思わなくてもいい。常に万全を維持することだけを考えろ。いいな?」


「……」


 小さく頷き、道端に転がっていた岩に小さなお尻を乗せる。


「ホラ、飲め」


「あ、ありがとうございます……!」


 魔物の革で作られた水筒を受け取ると、メルフェリアは一気に喉へ流し込んだ。ノマドの症状はあまり緩和されなかったが、少女の表情は少しだけ落ち着いていた。


「ノマドの症状のせいで余分に水を飲んでしまった結果、その後の水が確保できず脱水症状に苦しむ奴も少なくはない。本当はその程度で水を飲むべきじゃないんだが、今回は例外だ。水を飲んでも緩和されないという事を身体に染み込ませておけ」


「はい……!」


 更に水筒に口を付ける少女を前にロンゼルは苦笑を浮かべる。今にも立ち上がろうとする雰囲気の彼女を制止する意味合いも兼ねて彼は口を開いた。


「流石にノマドの存在は知っていたか。なら、ノマドにはレベルがある事ももちろん知っているな?」


「はい。現時点で6段階まで存在することは知っています。0から5まであるとか……。そして、その濃さに応じて魔物の凶悪さや攻略難易度も上がると……」


「その通り。そして今日の魔境のレベルは『2』だ」


「『2』なんですか?一番簡単な『1』ではなくて?」


「どうした?もっと楽な方が良かったか?」


「い、いえ。そういうわけでは……」


 弱気な発言を悔いながら、水筒の水を飲むふりをして照れを隠すメルフェリア。その仕草に御守り役の口元も緩む。


「鳴らすなら『2』ぐらいからが丁度良いんだよ。経験則だけどな。それに、ここはノマドは少しだけ濃いが魔物自体はそんなに凶悪じゃない。初心者がノマドに慣れるのにうってつけの魔境なんだ」


凶悪ではない。というのはあくまでも他の魔境に比べての話であり、普通に襲われ命を落とす冒険者も少なくない。


「そしてその口ぶりだと、レベル『0』に関しての事は知っているらしいな」


 メルフェリアは少し自信に満ちた表情で頷いた。


 ノマドはどの魔境も基本的に『1』以上だ。『0』というのは人間界と何ら変わりない。だが、人間界とは明確に区別されている謎多きレベルだ。数多の魔境を踏破してきたロンゼルですら一度しか足を踏み入れたことが無い。それも、ほんの一瞬だけ。


 まるで水中の泡のように魔境を漂う寄る辺無き空間。それがレベル『0』だ。


 そもそもが御伽噺のような存在である為、基準として語られることはまずない。


「探索する上で面白いのはやっぱりレベル4か5だ。魔物も環境も出鱈目でまるで飽きない。ま、飽きる程の長居が出来るような場所でもないけどな」


「ロンゼル様は何度も踏破されているのですよね!?」


「お、おう……」


 急に元気を取り戻したメルフェリアが前のめりで瞳を輝かせる。


「『デグダルの墓場』とか『フューリンの花畑』とか。それなりにな」


「はわわぁ~!どちらも伝説級の魔境じゃないですか!凄いです!ど、どんな冒険だったのか、詳しくお聞きしたいです!!」


「……大分元気そうだな。先に進むか……」


「も、もう少しだけ休んでいきませんか?」


「オイ」


「ご、ごめんなさい……」


 とは言え、メルフェリアがまだ完全にノマドに慣れきっていないのも事実である。その後の十数分間。ロンゼルはメルフェリアの質問攻めに遭うのであった。


 エルダも無表情ではあるがロンゼルの話に聞き入っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メルフェリア冒険譚 〜死刑囚の女王と魔人の旅人〜 まさまさ @msms0902

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ