第2章
第1話 おしりが痛い
「……姫様。城を発ってもう四日になります。大丈夫でしょうか……」
メイランドの庶務室にて。今にも泣き出しそうな表情を浮かべた若い臣下が、顔が隠れてしまう程山積みになった資料に囲まれながら呟く。
女王であるメルフェリアが席を空けてからというもの、城の者達は夥しい仕事に追われていた。
「心配するな。姫様はああ見えて逞しいお方だ。きっと、また我らの前に元気で明るい姿を見せて下さるに違いない」
最高齢の臣下であり、メルフェリアの教育係であったオルマドは、部下に心配を掛けまいと柔らかい声で告げる。周りで作業していた者達も最長老のその言葉に縋るような頷きを見せると、不安を押し退けるかのように目の前の仕事に没頭した。
「オルマド様!国民がまた城門へ詰めかけております!如何致しますか!?」
「そうか……。分かった。儂が行こう」
兵士からの慌ただしい報告に、オルマドは深い吐息を漏らし立ち上がる。
国民もメルフェリアの処刑に微塵も納得しておらず、毎日のように城へ押しかけ嘆願していた。オルマドにも、そして他の皆も、国民と同じ想いである。
しかし、堪えてもらうしかないのだ。
(……愚王であれば、どれだけ楽だったものか……)
心の中で唾棄し、忠臣は今日も女王の想いを民に説くのであった……。
―――――
「まずはテストの意味合いも兼ねて、浅めの魔境に行ってみようと思う」
馬車と同じタイミングで揺れる男の言葉に、冒険者の服を着こなした姫君は唇を堅く閉ざし、神妙な面持ちで頷く。
ロンゼル達が居た町がまだ肉眼で確認できるにも関わらず、既にメルフェリアは居心地が悪そうに尻の位置を何度も調整していた。
「……安物の馬車は、初めてか?」
「そ、そうですね。結構荒々しくて、びっくりしています」
「これから何度も乗る事になる。慣れておけ」
「は、はい……」
馬車の狭い客室で微笑むメルフェリア。その隣では、相変わらず無表情なエルダがどこから取り出したのか消毒液を浸した脱脂綿を少女の頬に当てていた。
よく見れば、メルフェリアの頬に仄かな傷が。
これは出発前にロンゼルと手合わせした際に付いたものである。手合わせ、と言っても現時点でのメルフェリアの体力と剣技を確認する為に行ったものであり、結果は言うまでも無かった。
「おい、その程度の傷、一々気にするな。これからもっと傷だらけになるんだからな」
「……」
エルダは無愛想な視線をロンゼルに向けると、脱脂綿を薬液の入った小瓶に詰め、腰のバッグに仕舞う。メルフェリアは小さく礼を告げるが、反応は無かった。
「最初の目的地は『バランラカの森』。目指すのは森の奥にある滝だ。到着までに丸一日かかる。探索には行きと帰りで二日は掛かるだろう。今の内に寝ておけ」
「は、はいっ」
車輪が小石にぶつかり、馬車が跳ねる。素直に返事をしたのは良いが、常に尻を板で叩かれているような状況で眠れるはずも無かった。
「浅い魔境とは言ったが、素人が足を踏み入れれば一瞬で魔物の餌にされる世界だ。死にたくなかったらぴったりと俺の後についてこい。いいな?」
メルフェリアは小刻みに首を縦に振る。
「それとお前の名前だが、メルフェリアだと長い。魔境の中では『メル』と呼ばせてもらうぞ。俺の事は自由に呼べ」
「あ、分かりました……!」
「……?」
一方的に呼び方を決められたというのに、目の前の少女は小さな口を緩め、ふんわりとした笑みを浮かべている。その反応に疑念の視線を向けられていた事に気付いたメルフェリアは頬を掻きながら口を開いた。
「す、すいません……。昔、お友達にも親しみを込めてそう呼ばれてましたので……。何だか、懐かしくなってしまいました」
「……あ、そう……」
これから死地に向かうというのにこの危機感の無さ。大物なのか、はたまた平和ボケなのか。どうせ魔境に足を踏み入れればそんな軽薄さも吹き飛ぶだろう。ロンゼルは敢えて指摘しなかった。
……と言うよりは、こういうのんびりとした空気に彼が慣れていなかっただけなのかもしれない。
その後、度々の休憩を挟みながら漸く目的地に到着した時には、既に陽は地平線の彼方に姿を隠していた。
「はうぅ……」
まるで老婆のように腰を曲げ、ひょこひょこと馬車から降りるメルフェリア。手を貸すエルダは何事も無かったかのように背筋を伸ばし、涼しい表情を浮かべている。
「流石は帝国最強と謳われる騎士団のメンバーだ。尻も相当鍛えているらしい」
「……」
嫌悪感に満ちた細い視線が、乾いた笑声を漏らすロンゼルに向けられる。メルフェリアは居心地が悪そうに苦笑を浮かべながらも、エルダの大きな尻を不思議そうに眺めていた。
「さて、取り敢えず今日の移動は終わりだ。明日に備えて腹ごしらえするぞ」
ロンゼルが着崩れたコートを直しながら二人を先導する。
彼らが辿り着いたのは魔境……ではなく、その手前に設営された冒険者達の拠点であった。所謂、ベースキャンプである。周辺は平野に囲まれており、明るい時には遠くに森が見える。その森こそが今回挑む魔境、『バランラカの森』であった。
馬車が砂煙を上げ去っていく中、一行は文字が掠れて読めなくなった木造のアーチを潜る。拠点はちょっとした村程度の広さがあり、宿屋と酒場だけでなく鍛冶屋やその他の店のような建物。街の隅には二つの物見やぐらもあった。
今は夜の為店は閉まり、酒場と宿屋の灯りが暗い大地にぽつりと浮かぶ。
「ここは……?」
「冒険者の拠点だ。魔境に入る前の準備を整えたり、獲って来た物を売ったりする場所だな。ここは比較的危険度の低い魔境の拠点って事もあって観光客も来たりする。毎年何人か魔物に襲われて死ぬけどな」
物騒な説明にメルフェリアの曲がっていた腰が伸びる。薄暗い風景も相まり、恐怖心を煽られた少女はロンゼルの背後にぴったりと着いて歩いた。
その後、三人は酒場で簡単な食事を済ませると、宿屋で部屋を三つ借りた。
「ちゃんと寝ておけよ。明日はまともに眠れないかもしれないからな」
別れ際にそう言われたメルフェリアであったが、慣れない土地の雰囲気に、尻の痛みと魔境への興奮も重なってなかなか寝付くことが出来なかった。
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