第6話 揺れるロンゼル
「……バカが」
紅い果実を抱きながら道なき道を疾駆するロンゼルは、遠くから聞こえてきた何者かの悲鳴に舌を打つ。魔境では、欲を断ち切れない者から命を落とすのは常識であった。
草むらや木の影から飛び出してくる魔物をナイフで荒々しく切り捨てながら、ひたすら森の奥目掛けて走り続ける。今日の彼はどことなく荒っぽかった。
一時間ほど走り続けただろうか。伸ばした手の指先すら見えなくなるまでに濃かった霧は次第に晴れてゆき、見通しが良くなった頃には目的地へと到着していた。
ロンゼルが辿り着いたのは、森が口を開いたかのようにぽっかりと現れた湖。対岸が霞んで見える程巨大なその湖の透明度は凄まじく、雲一つない空から降り注ぐ陽の光は遥か彼方に泳ぐ魚をくっきりと映し出していた。
本当に水が張っているのか。そう疑問に思ってしまうまでに透き通った湖は、まるで巨大な水槽のよう。色鮮やかな魚が舞うように泳ぎ、どこからともなく噴き出す泡が視界を揺らす。
その千変万化な景色は見る者の心を容易く奪い、見惚れて湖に落下する冒険者も少なくない。尚、水には毒性があり、長く浸かっていれば命を落とす。
しかし、そのあまりの美しさに死を恐れず潜る冒険者も少なくない。湖底には何人かの骨が沈んでいるという。
「……ふん」
が、ロンゼルは少し覗いただけ。特に心が動くことも無く、来た道を真っ直ぐ帰って行った。帰路でも魔物に幾度となく襲われたが、涼しい顔で撃退し、あっという間に魔境の入り口まで辿り着く。
「おや、相変わらずお早いお帰りで」
少し離れたところで待たせていた馬車から、筋骨隆々の御者が顔を出す。
「どうでした?何か良い発見はありましたかな?」
「……出してくれ」
ロンゼルは客席に乗り込むと、座席に大きな身体を横たわらせた。
今朝、苛立ちの勢いのまま酒場から飛び出し魔境に突入したロンゼルであったが、何一つストレスの解消にはならず、仄かな疲れとバカシーヴァの果実を持ち帰るだけとなった。
―――――
「ロンゼル様、おはようございます!」
翌朝。まだ人の往来も少ない時間に酒場を訪れたロンゼルを、一人の少女が出迎えた。カウンター席から飛び降り、ロンゼルの邪魔にならないように少しだけ身体をずらし道を開ける。
「……」
門扉を潜ったロンゼルは明らかに迷惑そうな表情を浮かべ、荒い足取りでカウンター席へ向かう。カウンターの上には既にミルクが置かれており、どうやらマスターがメルフェリアをもてなしていたようだ。
「よぉ、遅かったじゃねぇか」
マスターはグラスを取り出しロンゼルの前に置くと、強めの酒を少しだけ注いだ。
「早い方だろ」
「何言ってんだ。レディーを待たせちゃ駄目だろう?」
「……」
隣で背筋を伸ばし立っていたメルフェリアが照れくさそうに微笑む。ロンゼルは無視し、手にしていた袋をマスターに渡す。中にはバカシーヴァから頂戴してきた果実が入って居た。
「ツケの酒代だ」
「おいおい、バカシーヴァの果実じゃねぇか!これまたとんでもないもん持ってきやがったなぁ……。見な!お嬢ちゃん!」
マスターは袋から真っ赤な果実を取り出し、メルフェリアに見せる。そしてそれがどんなものかを説明すると、メルフェリアは瞳を輝かせ、舐めるようにその果実を見詰めていた。
「これ一つで半年分の酒代にはなるな!いつもあんがとよ!」
「す、凄いです!流石はロンゼル様!」
無邪気を顔に湛え見上げてくる少女に、ロンゼルは冷たく言い放つ。
「失せろ。目障りだ」
「おいおい、そんな言い方は無いだろ。折角お前を頼って来たんだぞ。今日だって、俺が店を開ける前から店の前で待ってたんだぜ?」
「マスター、まさか懐柔されてんじゃないだろうな。えぇ?」
白々しく掠れた口笛を吹くマスターに、ロンゼルの眉間が狭まる。
「メルフェリア、とかいったか?お前、魔境がどんな場所か分かってんのか?夢やロマン溢れる素敵な世界と勘違いしてないか?残念だが、その妄想は捨てろ。汚くて、臭くて、そこら中に死体が転がっている地獄のような場所だ。お前のようなガキが物見遊山で行っていい場所じゃねぇんだよ」
「それは!理解しています!……いえ、している、つもりです……」
実際に見た事も無い人間が理解出来る筈が無い。それを解っていたからこそ、メルフェリアは咄嗟に言い直した。
「だからこそ、私は知りたいのです。魔境の本当の姿を。お願いします!どうか私を同行させて下さい。弱音も文句も言いません。例え命を落としたとしても、感謝こそすれ恨むことなど決してありません。どうか、どうか……」
深々と下げられた少女の頭からは、仄かな汗の匂いが漂った。
「……くどい。何度言われようが無駄だ。大人しく国に返って、静かな余生を過ごすんだな」
突き放すようにそう告げると、ロンゼルはグラスの酒を一気に喉に流し込み、挨拶も無しに酒場から出て行った。彼の足音が消えるまで、メルフェリアは頭を下げ続けて居た。
「……お嬢ちゃん、アンタの気持ちは分かるけどさ、ちょっと難しいと思うぜ?」
グラスを拭きながら呟くマスターの言葉に、メルフェリアが寂しそうな笑みを浮かべながら顔を上げた。
「気を悪くしないでやってくれ。お嬢ちゃんが頼んでるからダメってわけじゃないんだ。そもそもアイツは誰とも組まないようにしてるのさ」
「そ、そうなんですか」
「あぁ。昔はどうだったか知らねぇが、少なくともここ八年はアイツが誰かと行動を共にしてるところを見たことがねぇ」
「……それでも。私は、あの方の冒険に付いて行きたいと思っております」
「アイツじゃなきゃダメなのかい?アイツ意外にも優秀な冒険家は居るぜ?何なら、俺が紹介してやってもいいぞ?」
「ありがとうございます。お気遣いを無碍にしてしまい、申し訳ございません」
汚い酒場の店主にすら素直に頭を下げる女王様の姿に、マスターは困ったように爽やかな頭を撫でた。
「いや、良いんだ。でも、決断は早めにな?アイツは毎日この酒場に居るわけじゃねぇ。数日、いや、一月以上顔を出さない事もザラだからな」
「承知しました。お教え下さりありがとうございます。……あの、ミルク、とても美味しかったです。本当に、美味しかったです」
少し汚れたドレスのポケットから代金を取り出そうとするメルフェリアを、マスターが止める。
「お代はいらねぇよ」
「えっ?で、ですが……」
困惑する少女に、マスターは朗らかな笑みを浮かべる。
「このミルクは、俺からの餞別みたいなもんだ。頑張りなよ、女王様。俺は、応援してるぜ?」
「……はっ、はい!ありがとうございます!」
小粋なウインクに、メルフェリアの顔には年相応の笑顔が咲いた。あまりの可憐さに年甲斐も無く少しだけ心がときめいてしまったマスター。
「あの、また、ここに来てもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。何時でも来な。ミルクぐらいならご馳走してやるよ」
「あ、ありがとうございます!」
メルフェリアは再度頭を下げると、気品漂う所作で酒場から出て行った。その背を、酒場の隅で静かに佇んでいたエルダが追う。
「……」
門扉の揺れが収まる。
朝の静けさを取り戻した酒場の中では、マスターの軽やかな鼻歌が響いていた。
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