2.まかないを喜ぶ飯島


「飯島、明日シフト入ってるよな?」


「ふぁい」


「明日も雨降るらしいぞ」


「ふぇっ、あひたふぉ!?」


「……そんなに口いっぱいに頬張るなよ……」


 そんなこと言われても、仕事を終えて腹が減っているのだから、仕方ない。それに矢島店長の作るホットサンドはとてもおいしいから、夢中で食べてしまうのだ。


「……やっぱりまだ乾いてない……合羽も。どうする? その制服で自転車乗って帰るか?」


「ふぇっ!? いやれふっ!」


「でもなぁ、これ、まだずいぶん湿って……ああ、車で送って行こうか? 自転車は置いて」


「あ、お願いします!」


 やっと口の中のものを飲み込んだ僕は、矢島店長の提案に食いついた。こんな女子の制服を着て自転車で帰りたくない。きっとじろじろ見られてしまう。特に同じアパートの住人には見られたくない。それにもう六月とはいえ、ニーソックスとスカートの間がスースーするのだ。夜に自転車に乗ったら寒いに違いない。


「おう。その代わり……」


「……その代わり……?」


 矢島店長がうつむいたまま、言い淀む。僕はごくりと生唾を飲み込み、次の言葉を待つだけだ。


「またそれ着ろよ」


「言うと思った! 嫌です! 絶対に嫌だー!」


「じゃ、それ着て自転車で帰れ。雨は止んでるみたいだしな」


「……くぅっ……!」


「着るのはいつでもいいんだぞ。明日でも」


 そうだ、明日も雨が降るらしいとさっき矢島店長が言っていた。どうせ着ないといけないなら、お客さんが少ない日に限るよな、そうだよな、それなら……!


「……明日、着ます……!」


「オッケー。ブラウスはもう一枚あるんだ。俺もう帰れるから、おまえも支度しとけ」


「もう一枚……何でそんなに用意がいいんですか……」


「普通だろ? 二日連勤するバイトだっているんだし」


「まあ、そうですけど。あ、そういえば店長、一つ疑問が」


「何だ?」


「夢とロマンが詰まったこの制服、女子に着せればいいじゃないですか。何で女子は採用しないんですか?」


「……おまえ、痛いところ突いてくるな……。女子からは応募が来ねえんだよ……」


「えっ、そうなんですか? めちゃくちゃおしゃれなカフェなのに」


「……俺の口の悪さが、口コミで広まってて……SNSとかそういうので……」


「ああ……」


 今はそういう時代なのだ。一度広まってしまった口コミを完全に消すことは難しい。矢島店長もそのことに気付いているのだろう、しょんぼりと下を向いている。


「だからおまえでいいんだ」


「おまえ、で!」


「で、でいいだろ。それとも何か? おまえ、が、いいんだって言ってほしいのか?」


 そう言われ、ふと考えてみた。「おまえがいいんだ」の方がいいかもしれない。僕は意外とこの店と矢島店長のことを気に入っているのかもしれない。バイトを始めた頃はさすがに店長の言い方に驚いていたが、円形ハゲはできなかったのだ。やめようと思うこともなく、矢島店長にしごかれながらも続けているのは、きっとそういうことなのだろう。


「そうですね、そうかも」


「よーしわかった、その制服はもうおまえのだ。覚悟しとけよ」


 僕が同意すると、矢島店長はうれしそうに言った。「覚悟しとけよ」というセリフをうれしそうに言う人は、この人生で初めて見たような気がする。


「いや、そういう意味じゃなくて……」


「じゃあどういう意味だよ。つーか食器は自分で洗えよ」


「あ、はい」 


 言われたとおり、バックルームと扉一枚で繋がっているキッチンに食器を持っていき、洗剤をつけたスポンジで洗う。ざーざーという水流音の中、開け放してある扉の向こうで矢島店長が何か言っているのが聞こえた。


「…………る、か」


「は? 何か言いました?」


「何でもねえ。いいからしっかり洗っとけ」


「はぁい」


 自分が着て来た男子用の制服を、僕が食器を洗っている間に矢島店長が何度も触っていたことに、気付いてはいた。一応、気付いてはいたんだ。ただ、まだ湿っているかどうかを確かめているだけだと、この時の僕は思っていた。


「あれ似合ってたから、これはいらないよな。……よし」


「店長、独り言多いですね」


「そうか? んなこといいから、さっさと洗っちゃえよ」


「はぁい」



 ◇◇



 翌日も矢島店長と約束したとおり、僕は新しいブラウスを借りて女子の制服を着た。黒いニーソックスの圧迫感にはだいぶ慣れたが、スカートにはまだ全然慣れない。


「昨日、制服……乾かなかった?」


 食器洗い係と清掃係を兼ねているコミュ障兄ちゃんの田原さんが、珍しく話しかけてきた。確か年齢は僕より四歳年上のはずだ。新卒で入った会社に馴染めなくてやめてしまい、今は気軽にできるバイトをしていると聞いたことがある。


「あ、そうじゃなくて、昨日の帰りに店長の車で送ってもらったので、その代償です」


「代償……」


「本当はこんなの、着たくないんですけどね」


 まだ勤務開始には時間があるため、更衣室を出てバックルームの椅子に座って話す。僕が苦笑いで返答すると、隣の椅子に座る彼がずいっと距離を縮めてきた。縁無しリムレス眼鏡の奥の目は真っ黒で、あまり生気がないように見える。


「でも、似合ってるよ」


「そっ、そうですか?」


「髪が長いから、かな。……あ、結ばれてない髪が……」


「えー、ほんとですか、めんどくさー」


「めんどくさいなら、やってあげようか」


 田原さんの右手が僕の左肩に近付いてきて、何か考える前に咄嗟に髪を手でかばいながら身を引いてしまった。僕は、髪に触られたくないのだ。これまでそれほど話したこともない人に。すると田原さんが、傷付いたような、しょんぼりとした表情に変わった。


「あっ……、その、自分でやる……」


「おい、何やってんだ、おまえら! もう時間だぞ!」


 僕が言いかけた言葉にかぶせて、突然矢島店長の大きな声が響いた。


「えっ、もうそんな時間!? 髪直したら行きます!」


 僕が髪をほどいて結び直している間に、田原さんはそそくさと厨房へ行ってしまった。


「飯島、おまえ……」


「すっ、すみません、急いでやるので!」


 わさわさと髪を触りながら答えるが、焦ってしまい、うまくいかない。何度もほどいては結びほどいては結びを繰り返していると矢島店長が「しょうがねえな、やってやるよ」と言い、僕の手から髪ゴムを取り上げた。


「うう……、お願いします……」


「ずいぶん伸びたな。もう背中半分くらいまであるぞ」


「そうですか、そろそろ切ろうかな」


 温かみのある手が気持ちいい。その大きい手は、コーヒーと紅茶をいれるのが上手だ。僕が憧れる、バリスタの手。


「……よし、できた。ホール行け」


「またホールですか……」


 ホールは嫌だけど、これで矢島店長の機嫌が良くなるなら安いものだ。たぶん……たぶん。

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