第36話
「きちぃ〜……」
テストはついに来週に迫り、追い込み期間もあと少し。
専門科目は一通り勉強したが、90点以上というハードルが重くのしかかってくる。
これまでの人生において90点以上は目指すものであり、確実にとるものではなかた。
そんな点数を連発していたのは、それこそ小学生の頃くらいだろうか。
かがみに言われた通り、睡眠はしっかりとっている。
食事はサイカに面倒を見てもらっているから問題なし。
けれど、これだけ毎日暇さえあれば机に向かうのは本当に久しぶりのことで、どうしても疲労が溜まる。
しっかり寝ていてこれだ。
あのとき指摘されずに無理をし続けていたら、本当に倒れていたかもしれない。
またかがみに借りを作ってしまった。
爽太と渚、もちろんかがみも、みんな心配してくれている。
良い友達を持った。
心の底からありがたいと思う。
あいつらとの出会いがなかったら、俺はきっとサイカの秘密を知る機会にも恵まれなかったし、今ここで頑張ってもいなかっただろう。
仮に頑張ろうと奮起しても、折れていた気しかしない。
まったく。
感謝してもしきれないな。
目の奥が重い。
目を瞑って目頭のあたりをぐりぐりしてみる。
こうしている間もずっと瞼の裏に数式やら記号やらが飛んでいるように思えてしまう。
本格的におかしくなりそうだ。
「精が出ますね」
集中していると、いつの間にかサイカが隣に来ていた。
どうぞ、とカフェオレを出される。
以前ホットミルクを出され、眠ってしまうから次回からコーヒーにしてくれと頼んだ。
しかしサイカは了承せず、抵抗したところ、折衷案で少しコーヒー薄めのカフェオレとなった。
「ありがとう」
カフェオレを口に含むと、まろやかな甘みが口内を満たした。
冷房で冷えた身体が内側から温まって、凝り固まっていた疲れが溶けだしていくような気がした。
一息ついたことで集中力が切れ、頭の中が空っぽになった。
ふと気が付いた頃には、無意識のうちに口へ出していた。
「サイカ」
「なんでしょうか?」
こんなこと訊いちゃいけないよなと思いながらも、理性が歯止めをかけてくれなかった。
「もしもだぞ? もしもその記憶が失われずに定着できる未来がきたとしたら……どう思う?」
あまりよくないことを訊いてしまった。
今そんな未来が訪れる兆しすらないのに、期待を持たせてしまうかもしれない。
けれど、やはり不安が消えないのだ。
サイカが以前、『これでいいのです』と言っていたことがどうしても気になってしまう。
サイカのためとか理由をつけてみたり、家族だからと言い訳してみたりしているけれど、本当にサイカがそれを望んでいなくて、俺の独りよがりだったとしたら……。
疲れから気弱になっているだけかもしれないけど、このところそんな考えがちらついて仕方がない。
だけど――
「はぁ。なんですか、いきなり」
「いいからさ、ちょっとだけ考えてみてくれよ」
だけど、俺は同時に、かつてサイカの見せた寂しそうな顔もまた、思い出していた。
本当に現状に満足しているなら、あんな表情は見せないのではないか。
あれは、自分だけ置いて行かれているという疎外感からきたものではないのだろうか。
だから、それを確かめたかった。
「そうですね。今のままでも特段不便はしていないのですが」
サイカは顎に手を当ててしばらく俯いた。
やがて考えがまとまったらしく俺の方を見た。
サイカはほんの僅かだけ、目元を緩め、口許を綻ばせた。
ともすれば見逃す、些細な変化だ。
しかしあまりに美しくて、思わず見惚れてしまった。
「あまり想像は出来ませんが……もしそんな日が来たら、きっととても素敵なことでしょうね」
「あ……」
俺は浮かび上がってくる感情を噛みしめる。
「そっか。そうだよな――」
不安でずっと強張っていた身体が脱力し、安堵で満たされる。
続けて、内側からふつふつとやる気が湧いてきた。
訊いておいてよかった。
サイカの気持ちが伝わってきて、これからの未来でやろうとしていることが、意味のないことでないと確信できた。
サイカのためになるとわかっているのなら、俺はいくらでも頑張れる。
少々大げさかもしれないが、未来の自分も含め、すべてが報われた気がしたのだ。
疲れはいつの間にか吹き飛んでいた。
あれだけ苦労していた内容もすべて理解できるし、すべて覚えられると本気で思った。
来週の試験までのラストスパートを、俺は全力で駆け抜けた。
*
試験本番。
ここまでの日程を消化し、残すところはあと一科目のみ。
今までのところ、専門科目に関してはわりと出来ていると思う……多分。
おおむね90点以上あると思うし、仮に出来が悪かったとしても80点以上は確実にあるはずだ。
目標としたオールSがとれているかについては断言できるほどの自信はないけど。
一応保険のつもりで一般教養科目も前日には勉強したので、赤点ギリギリ連発みたいな酷いことにはなっていないと思う。
さすがの爺ちゃんも、例え専門の成績はよくても、再試の山となり、夏休み中大学に出ずっぱりみたいなやつを助手として使おうとは思わないだろうし。
うぅ……。胃が痛い。
キリキリと間隙なく締め付けてくる。
試験期間が始まってからずっとこうだ。
朝に胃薬を飲んできたけど、効果は感じられない。
せめて勉強していた方が落ち着くか、と思ってノートを開いた。
しかし目はノートの上をするすると滑っていく。
内容がまるで頭に入ってこない。
これじゃダメだと一旦顔を上げると、視線を感じた。
かがみが心配そうにこちらを見ていた。
へらっと笑って軽く手をあげ、健在をアピールする。
本当は元気でもなんでもないけど、俺に気をとらせてかがみの調子まで落とすのは悪い。
けれどそんなことはお見通しだったようで、かがみは不安そうな表情を崩そうとしない。
だいじょうぶ、と口をパクパクしてアピールし、手を払って前を向くように合図すると名残惜しそうに前を向いた。
試験なんだから俺のことより自分の心配をしろよ、という気はしないでもない。
けれど、それをしてしまうのが、月並かがみという人間だ。
視線を落とすと開きっぱなしだったノートが目に入ってくる。
あのときは視野狭窄になっていたせいか、よくまとめられていてすごいな、としか思わなかったけれど、今思えばおそらくこれは俺のためにわざわざまとめ直してくれたノートだったのだろう。
よくよく記憶をたどってみれば、見せてもらったノートはほとんど新品同様だったし、そもそもかがみが自分で勉強するために、わかっている内容を新たにまとめなおす必要なんてほとんどない。
そんな手間をかけるくらいなら、一度でも多く読み返した方がずっとマシだと思う。
ノートの表面を撫でる。
このノート自体は俺が書いたものだけど、中身はかがみから受け取ったものだ。
かがみが何を考えながらまとめてくれたのかを想像しながら文字を指でなぞっていくと、嘘のように落ち着いてきた。
胃の痛みも引いてきて、曲がっていた腰がひとりでに伸びていく。
前を向くと、講義室の様子が目に入ってきた。
比較的後ろの方に座っている俺は、全体を見渡せる。
ほとんどの人がノートや教科書をせわしなくめくり、凝視するように見ていた。
落ち着いているのなんて、かがみを含むごく一部に過ぎない。
みんな不安なんだという現実を知ると、妙な自信が湧いてきた。
たった一か月だったけれど、この期間、俺は誰よりも努力したはずだ。
今までの科目でも、成果は出ている。
ならばこの試験も同じはず。
過剰に緊張する理由なんて何もない。
ただ確認するくらいの気持ちでノートを見返す。
ページをめくるたび、頭の中がどんどんすっきりし、ほどけていく。
サイカのことを思う。
かがみのことを思う。
爽太や渚のことを思う。
「――では、教科書を仕舞ってください」
担当教員が講義室に入ってきて、指示した。
みんな本当の直前まで執念深く見ようとしていたけれど、俺はすんなりと片づけられた。
雑音の無くなった講義室に、壁掛けされたアナログ時計の長針の音だけがカチカチと響いている。
身体の奥深くから、静かな――しかし力強い心音を感じた。膝の上で拳を握りしめる。
試験用紙が配られた。
裏を向けられた白紙の用紙に集中する。
「――試験開始」
合図とともに表を向けた。
まず学籍番号、そして名前を書いて試験に挑む。
もう不安はない。
さあ、全力を尽くそう!
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