第75話 朧月

 教会を覗くと、遠くからでもわかるほど、最奥の棺が光り輝いていた。目が眩むほどだ。

 光を発している正体は聖杯だった。


 ルナはそれを手にとって、魔力を込めた。

 たちまち光は空間に充満して、聖杯から発する光で像が照らし出され、すぐにそこに女神ルクスが現れる。


 自分を女にして少し儚さを足したような、艷やかな美人の姿。

 神々しくて、月みたいにあたたかく柔らかな雰囲気を纏う。


 そう、月。

 ルナにとってのルクスは、太陽よりも月のような印象があった。


「お久しぶりです、国王ルナ」

「再びお会いすることができ光栄です、女神ルクス様。御力をお貸しいただけませんか」


 深々と頭を下げると、ええ、と女神は微笑む。


「そのために私はここにいるのですから。

さあ、ルナ。あなたの血肉を私に貸してください」


 血肉を貸す。

 もしかして、つまり、乗っ取られてしまうということだろうか。

 いや、女神の力になれるというのは本来誉れあることなのだろうが……。


「ご心配なく。役目を果たせば直ちに返します」


 小さな疑問を打ち消すようにルクスはいざなう。

 悪魔に魂でも売るような気分だ。女神を悪魔に喩えるなんて失礼な話だが。


 自分の肉体が自分の管理下から離れるのはたいそう恐ろしい話だった。

 でも、仕方がない。

 約束を果たすためだ。


「わかりました。具体的にどうすれば?」

「その聖杯の、最も大きな宝石を外して」


 中央にわかりやすく嵌め込まれている、透き通る青の宝石。

 この盃には細かな宝石が多く散りばめられているが、この石だけは目立つところに印のように飾られている。


 恐る恐る引っ張ってみると、思いの外簡単に外れた。


「それを、飲み込んで」


 次に下された指示に、ルナは一瞬、ほんの一瞬だけだが、聖杯を地面に叩きつけようかと思った。


 この宝石を、飲めと?硬貨ほどもあるこの大きな石を?


「あなたに、私の遺品を取り込んでもらわねばならないのです。この場にあるもので、最も手安いのはそれしかありません。」


「陛下、」とレイが不安げな声でルナを呼ぶ。

 それがむしろ、ルナを奮い立たせた。


 自分だけでも胸を張っていようと決めたから。

 不安は消えないけれど、それでいい。

 前をしかと向いて背後を信じて突き進むことに、もう迷いはない。


「レイ。ハンク。」


 大事な大事な自分の身を預ける。


「俺を守れ」


 宝石を顔の前まで持ってくると、やはり大きい。

 数日後に腹を壊す未来が見える。でも。


 こんなのどうせ一瞬だ。

 イオの三十年の苦しみに比べれば。


 青い輝きを口に食んで、数秒舌の上で転がしてから、顎を上げ瞼を強く瞑り、意を決して嚥下する。



 窒息しそうになりながらどうにか喉をこじ開け、石は胃に到達したようだった。

 ふっと意識が揺らぐ。


 力の抜けた身体で、最後に一瞬だけ、ハンクの体温が背中を包んだのを感じた。




 次に彼が目を開けた時。

 その眼光でレイは、彼が彼ではないと悟った。


 ハンクの腕から離れた彼――いや、彼女は、女神ルクスは、動作を確かめるように手足を動かし、一通り済むとこちらに微笑んで見せる。


「魔王イオは海辺にいます。急ぎ向かいましょう」


 作り物みたいなルナの顔が、作り物みたいに笑う。

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