第69話 刻
ダウン団長は、少し甘すぎるな。
レイを、防衛軍に組まなかった。
確かに、ルナの護衛と助力のため動き回ることになるとは前々から伝えてあったけれど。
あまり戦場から離されると悔しくなってくる。
怪我が完治していなくても戦っている騎士は他にもいるのだから。
そんなわけで、剣を片手にレイは城壁を登った。
ここからだと平原がよく見える。魔獣の姿が見えたら、下に降りて現場に向かうつもりだった。
肌寒い夜だった。
空に雲はない。月は見えない。
時計を持ってこなかったから、どれほど待ったかはわからない。
しかし、時計なんてなくてもわかった。
空が色を変えたのを見た。
地の咆哮を聞いた。
時空が歪んだのを感じた。
息をしていることも忘れて、瞬きもせずに、耳を澄ませる。
夏に見た、イオの泣きそうな顔が脳裏に浮かんだ。
ハンクは冷気の入り込む古い小屋の壁にもたれかかって、窓越しにソルアラの急変を見た。
思考に靄がかかっている。
人質を取られてしまえば為す術などなかった。
頭を鈍器で殴られた。ルナが懇願してくれたから命は助かったが、右肩にも傷を負った。多分、腱まで切れた。
ドクドクと全身が脈打つのを感じる。
――これ、ワクワクとか言ってる場合じゃなかったな。
戦えないとか言っている場合じゃない。戦わないと、やられる。
人間相手でも上手くいかないことばっかりなのに、まして女神の倒し損ねた闇魔相手に、自分の力などたかが知れている。
――でも。それでも。
抗うことはやめたくないな。
ロープで一つに括られた両足のまま、身体をくねらせ立ち上がる。
そのままジリジリと足を動かして窓辺に近寄った。
隙間から漏れる外の空気がハンクの鼻をくすぐる。
なぜだか海の匂いがした。
裸足で砂の感触を味わう。
砂漠の砂はもう少しサラサラしている。水分を含んで足にまとわりつく海の砂の方が、この足には心地がいい。
悲しいことはいくらでも思いつく。自身の罪も、常に頭の真ん中にのさばって息を詰まらせる。
最期になるであろう今でも、生まれてきたことを祝福も感謝もできやしない。
――けれど、悪くない人生だったとは思う。
こちらの事情を知っても尚みんな優しかった。
確かに、貶され怖がられ石を投げられたこともなくはなかった。
しかし、決して孤独ではなかった。
太陽みたいな瞳を思い出す。
闇に呑まれる定めをもった自分をも照らす光。
それから、海みたいな瞳も。
自信みなぎる笑みと、震える声で伝えようとした、それぞれの想いに救われたから。
自分は、彼らが約束を果たそうと奔走するのを、一番に見届ける義理がある。
結果がどう終わろうと、ありがとうと笑って幕を閉じる義務がある。
――時は来た。
突如、頭の中に様々な想いが交錯する。
それは、イオのものではなかった。
今まで、何千年にも渡る輪廻で魔王の器となった者たちの、痛く儚い記憶。
辿っていけば、最後に見つけた。
魔を追いやった女神の姿。
――大丈夫、必ず救われてやるから。
辺りが闇に包まれていた。
轟々と鳴り響く混沌の中で、イオは海の匂いを嗅いだ。
それは、安らぎの瞬間だった。
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