9 夜に息を吸う
第57話 傷
ようやく。ようやくだ。
ルナと話をする時間ができた。
招かれたのは今までの隅の部屋ではなかった。城の真ん中のあたりにある、国王の書斎。本が多く立ち並んでいて、前よりも広い。
「レイはよくやってるよ」
その部屋の中央に置かれた机について、ルナが微笑む。
「騎士団の三分の一近くは寝返ると見込んでいたのに、今まで大規模な反乱が起こらなかった。戦況としても、どうにか拮抗は保っている。花畑の村の方も、頑張ってくれたみたいだよ。
間違いなく君のおかげだ」
いいや。最初に裏切り者を突き止めたのはルートだ。
彼が、裏切り陣営の主格はエンだと伝えてくれなければ、説得に走ることも出来なかった。
まあ、でも。
一人判明してからはレイも頑張ったと思う。
特に、エンの説得。あれには命を賭けた。よくやったと自分を褒めたいくらいだ。
お陰で多少周りからは、変人――むしろ狂人に見られつつあるけれど。
「ただ。
既に城下町の一角でデモが起こったと言うし、俺の身にも少し、あったんでね。そろそろちゃんと、前に出て話す必要がありそうだ」
そう言う彼の頬には横向きに一筋、傷跡が入っている。
北平原戦及び花畑の村会戦の直前――騎士たちが出払って警備が薄くなっているところに、四名の騎士が彼に襲いかかったらしい。
幸い、ハンクは見事に責務を果たした。ルナの陶器のような頬に傷が残ったのは残念だが、刺客四人に対しこれひとつで対処しただけ大きな功績だ。
「それで。今後について相談があるんだ」
近い内に民衆の前で演説を行う、とルナは説明した。
彼の悠然とした笑みを見れば民も納得してくれるだろうか。むしろ苛立ちを煽ってしまうだろうか。
「レイさ、」
話が途切れ、ふとルナが名を呼んだ。
その透き通った瞳をじっと見つめ続きを待つ。彼もまたこちらを見つめていたが、その視線はなんだか不安そうに見えた。
「…本当に、良いの?」
「何がですか?」
「騎士を、辞めてしまっても」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
どうしてそんなことを聞くんだ。
「だって、ルートさんに鍛えられて君はとても強くなった。今なら騎士として大成する可能性も見えるでしょ」
レイが僅かに眉を顰めたのを見てか、ルナは弁解する。
全く見えない。
いや、見る気がない。
騎士を辞める覚悟はとうの昔にした。今更引き返す気にはならない。
「私はもう、戻る気はありません」
なんだか唐突に悲しくなった。
しかし、自分が何に悲しんでいるのかはわからなかった。
「…わかった。じゃあひとまず予定通り動いて大丈夫。」
そう言って手元に目を落としたルナの後ろから、ハンクがこちらを見ていることに気がつく。
チラと目配せして、発声せずに口を動かす。
言っちゃえよ、と。
何を?
別段、わざわざ不満を言うほどのことはなかった。悲しみの理由さえわからないのに何を言えと。
ああ、でも。
もういいや、と思った。
ハンクは、レイが何か違和感を感じたことに気が付いた。それだけで、悲しみに似たこの感情は孤独なものではなくなった。
だから、拘らなくていいや。
「――わかりました。」
そう言ってレイは微笑んだ。
ルナが何か言いかけたが、それより先に、扉を叩く音と、「失礼します、財務大臣様がいらっしゃっております」と使用人の声が届いた。
「では、私はこれで。また何かあればなんなりとお申し付けください」
人がいる場で話すわけにもいかないし、ひとまず予定通りで大丈夫だそうだから、ここは引き揚げるとしよう。
レイは、まだ何か言いたげな瞳に背を向けた。
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