第55話 空夜

 最近、寝つけない日が増えた。

 ベッドに入り込んで目を閉じても、頭が休まらない。このままじゃまた倒れる。でも寝ようと思えば思うほど眠気は去っていく。


「働きすぎなんですよ」


 夜中に寝返りを繰り返すルナに、ハンクが穏やかに語りかけた。椅子の背もたれにだらりと身体を預けて瞼を下ろしている。


「散歩でもします?」

「君が休めない」

「どっちにしてもちゃんと寝れるわけじゃないし。日中も仮眠とってたら疲れは取れるんで。陛下に倒れられる方が厄介だ。」

「んー…」


 こうして話している間に、呼吸が落ち着いてくるのを感じた。視界から光を遮断する。


「なんでもいいから話して」

「えぇ?なんでもいいが一番困るんだよな…せめてなんか話題くださいよ」

「君の故郷の思い出話がいい…」


 脳裏に空を反射した海の色が浮かぶ。少し鼻につく、磯の匂い。裸足で砂を踏む感覚。さざ波の音。


「うちの村、なんでだかフィッシュパイが郷土料理って言われてるんですよ。陛下も昔食べましたよね。」


 ああ、よく覚えている。

 こんがりと焼けたパイに、新鮮な魚の身。臭みもなく、ボソボソとした食感もない。


「でも実はあれ、村の中じゃ不人気なんです。

唯一うちのおふくろだけが、、。だから――……」


 ――カタン、と音がした。

 一瞬、夢か現実か区別できなかったが、暗がりに浮かぶハンクが、すぐ側まで来ていることを確認して、現実であることを実感する。


「…誰かいるの?」


 せっかく眠くなってきていたのに。再び脳が活性化した感覚があった。


「ねずみですよ」

「俺の部屋そんな汚いかな」

「いーえ全然。汚いのは部屋じゃなくてねずみ自身です」


 バン、と音を立てて部屋の扉が開いた。慌てて身体を起こすが、「じっとしてて」という声で、壁に身を寄せて呼吸を整える。


 侵入してきたのは、三人。布で顔を覆って隠しているが、体格的に恐らく男だろう――しかも、鍛えられた肉体とみた。


 だがハンクはそれを物ともせずに押しのける。ルナには一切近寄らせない。

 相手がこちらに短剣を投げつけようと、途中で弾き落としてしまう。

 なんとも頼もしい。


 ひとまず、捕まえるか。いくらハンクが強くとも、一対三で戦わせ続けるのは酷だ。


「動くな」


 本来なら、国王であれどこんな言葉だけの命令に効力などない。

 ――本来なら。


 ピタリとその場にいた者たちの動きが止まる。時間でも止まったかのように。


「あ、呼吸はしていいよ。あと、ハンクだけ解放」


 ぶは、と呼吸が再開する声。顔を隠していない一人だけが時間を取り戻す。


「なんですかそれ」

「催眠魔法だよ」


 保身のために、とルートからいくつか魔術を教わったのだ。


 催眠魔法は強力な故、魔獣や動物の懐柔によく使われている。全員が全員使える術ではなく、その人の魔力の特性などによるらしい。ルナは使える側だった。

 人に対しての使用は原則禁じられているが、そこは王の権力と正当防衛の釈明でどうにでもなる。やましいことするわけでもあるまいし。


「質問に答えろ。君たちをここに差し向けたのは、ウェヌムだね?」

「ぐ…はい」

「そう。金で釣られたの?」

「…それもあります」

「それ?他には何がある?」

「…私達には陛下を信じる理由がありません」


 耳が痛い話だ。ルナはまだ、人々に自分を支持してもらえる十分な材料を提示できていない。

 幸いなのは、父上から正式に王位を頂けたということか。危うく、成り行きで王になっただけの人間になるところだった。


「わかった。とりあえず、しばらく不自由に生きる覚悟だけしておいて。牢屋に連れて行く」


 ハンクに一人で連れて行かせるわけにもいかないので、部屋の外の警備でも呼ぼうと扉へ向かう。


「陛下!待って、俺が行きます」


 はっとしてハンクが叫ぶ。


 え、と思った瞬間乱暴に扉が開かれた。

 そちらへ目線を向けたときには、短刀がキラと闇を反射していた。



 ――生命の本能には頭が上がらない。

 鈍った体が動いたのは奇跡に近かった。


 飛んできたナイフは、ルナのこめかみ近くの頬を掠めて通り過ぎていった。


 指先で頬に触れる。

 暗闇でもわかる鮮やかな赤がついた。微かに鉄の匂いを感じる。


 主の傍に辿り着いたハンクが、扉から飛び出してきた騎士を押し倒す。


「あ、いた!パウル先輩、こいつら牢まで連れてってくれませんか」


 他の騎士が見つかったらしい、ハンクの声が廊下に響く。

 部屋の三人をパウルとやらに預ける。

 その間に催眠魔法は解いたが、特に抵抗はしてこなかった。


「陛下、医務室に行きましょう。毒でも塗られていたら困る」


 ハンクが、再び思考を巡らすルナに上着を羽織らせた。

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