57 触れる

げきりん【逆鱗】「ーーに触れる」▷竜のあごの下にある、さかさのうろこに触れるものは必ず殺されるという故事による。(岩波国語辞典 第三版より一部抜粋)


・・・


「なるほど。そこまで知っておるか」

「いや、知ってると言うより有名な話というか……ただ、異世界のドラゴンまでそうだったとは思わないというか……」


 キーウィに言われて翔も気がついたのだが、あごの下に確かに一枚だけ、少し色の薄くなった鱗がある。そしてそれだけが、少し他の鱗とも形状が異なるものだった。


「では、そもそもこれが何かはわかっておるのか?」

「……そういえばなんなんだろ。キーウィ、わかる?」

「そういや、自分も触れたら殺されるようなトコ、ってくらいしか知らんわ」

「ンなとこ触らせようとするなよ……」


 キーウィの冗談のような一言に冷や汗を流しながら、翔は安易に撫でようとした手を引っ込めた。


「くはは! そのような場所を露出させるわけがないであろう? これはただの一つの器官だ」


 ルルートが言うにはこうだ。

 逆鱗というものは、本質的には鱗ではない。その部分だけ体表から飛び出した皮膚の一部である。鱗に覆われたドラゴンが空を飛ぶ時に、鱗で覆われた体では風を感じ取ることができないからこそ、唯一剥き出しになったそこを頼りにして風を感じ、空を飛ぶ。

 それらは竜にとってなくてはならないものであり、簡単に触れられて傷をつけられると困る部分であるからこそ、結果的に皆拒否をする。

 そして出来上がったのが、「逆鱗に触れると殺される」というまことしやかな迷信だったということだ。


「ってことは尚更触ったらダメな場所ってことじゃん!」

「そういうわけでもない。一介の人間風情が安易に触って傷をつけられるような、そのような軟弱さを持ち合わせているのであれば、我の飛行に耐え切れるはずもないだろう?」


 そう言うと、ルルートは余裕を見せながら仰向けに寝転がった。


「触ってみろ。それとも地を這うだけで臆病になった生物だと笑われたいか?」


 本当に、それは本当に強者の余裕だった。

 今ここで翔が何をしようとしても、真っ先に反撃ができる。そういった余裕と、それが実行できるという実感。それが逆に翔を安心させていた。

 ならば、触れてやろうではないか、と。

 翔はゆっくりと指を伸ばし、少し色の違う鱗に這わせる。ぷに、とした感触は確かに鱗ではなく皮膚だ。そして、何よりも柔らかい。


「おっ……よいぞよいぞ……はふぅ」


 先ほどの傲岸不遜とも呼べるような態度とは一変して、その表情は温泉に入った猿のように緩んでいく。しかしそれはルルートの想定以上のものだった。

 彼は、人間風情のタッチでとろけるとはひとつも思っていなかった。だが、それは誤算だった。

 それもそのはずで、風のような空気の機微を感じ取ることができる器官が、鋭敏でないはずがないのだ。

 そこに翔の指が触れる。未知の生物であったとしても全く問題ないその技術で、鋭敏な部位を刺激されてしまったらどうなってしまうかなど、誰の目から見ても容易に想像できるだろう。


「あ〜……♡良いぞ……」

「うっわ……ドラゴンまでできるんかいな……適当こいたけどほんまにきっしょ……」

「アンタ、けしかけといてそれはないだろ。でも、ここだけめちゃくちゃ柔らかくて触り心地が良いんだぞ。ほら、触ってみろよ」


 翔が少し横にずれる。キーウィも少し興味はあるのか、ルルートの喉元に近づいていった。ルルートも、それを許容している。いや、翔の指使いに恍惚として気がついていないだけかもしれないが。


「ほな失礼して……」


 キーウィがゆっくりと逆鱗に触れると、その瞬間にルルートの口から火が飛び出した。


「違う! お前の触り方は雑すぎる!」

「指先が触れただけですやん!」


 怒るルルートから逃げるようにしてキーウィは馬車の裏に隠れた。


「アンタ騙したやろ! そんな誰にでもできるみたいなことしくさってホンマ!」

「そんなことないんだけどな……ほら」

「おっほ……良いじょ……」


 涙目になりながら吠えたてるキーウィを横目に、翔はルルートの逆鱗を撫で続けていた。

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