54 竜歌う峰
茎の折れる軽やかな足先からの感触と同時に翔の目に飛び込んできたのは、遮られることのない草花の咲き誇る草原と爽やかな風を纏った青い山嶺だった。
谷、そう呼ばれていることが真実であるように、広い草原の向こうに通ってきた方角以外全てが山で囲われている。
髪の毛を揺らす風が耳をくすぐるが、体温を下げることもないほどの暖かな空気が通り抜けるという事実だけでそれは不快感ではなく心地よいものになる。
澄みきった空気の向こう側では山嶺に後光がさすように真っ白な雲が流れ、翔の吐く息は全て雲に飲み込まれてしまいそうなほどに雄大だ。
翔は息を呑んでいた。呼吸も忘れ、まばたきも忘れ、その瞳孔に焼き付けるように美しい景色を眺め続けていた。
拍手喝采のように風に揺れる草花が擦れ合う音が耳の奥で響き、倒れ込みたい衝動に駆られる。
「この季節のここはいっちゃんええ景色になりよるんよねぇ。と、ほら。アーミアからアンタに土産やとさ」
「……へ?」
荷物を確認していたキーウィが手のひらに収まるサイズの直方体を翔の方に投げてくる。翔はそれを受け取ると、それを手のひらの中で転がした。
「カメ……ラ?」
それはカメラだった。と言っても翔の言うような動画撮影用のカメラではなく、写真を撮るためのカメラだ。そしてその形や色が、翔には見覚えのあるものだった。
「写○ンですかよこれ!」
「うわっ!? びっくりするからやめてなぁ」
「あ、すまん……。アーミア、なんでこんなもん持ってんだ」
「ムトってのに買うてもろたらしいで。電気も使わんからアーミアでも使えるとかなんとかで」
そう言われて翔がフィルム残量を見ると、残りは十三と表示されている。基本的にフィルムが一巻二十七であるため、十四枚ほど撮影していたということになるだろう。
「これ、使ったことはないんだよなぁ……」
翔は大学の頃に同じ部活の誰かが好き好んで使っていたことを思い出していた。その誰かに、使い方を教えられた記憶もあるからだ。
「って言っても、フィルムの残量的にシャッター切るだけで良いか」
手のひらの中で転がしていたカメラを構えると、翔はその場で軽くシャッターを切った。
「うん、使える。ってことは……キーウィ、まだかかりそう?」
「手伝ってくれるって提案ならありがたいけど、お断りさせてもらおかな。ここに男二人は厳しいわ。もうちょっと待っとってな。バロップは帰りも走ってもらわなあかんからまだ撫でんといてもらえると助かります」
「あはは、そういうことじゃなかったんだけどまあいいか。わかったよ」
翔は草原を見渡す。遠景を撮影することと、キーウィの荷馬車を見失わないようにする、この両方を同時に行わなければならない以上、現在位置からあまり画角を変更することはできなかった。
だが、幸運なことに翔が太陽の光に背を向けると、ちょうど山の峰を一望できる景色であった。
ファインダーを覗きながら、翔は一枚、また一枚とシャッターを切っていく。
「……なんだ、アレ」
最初に来た違和感は風の中に混じる低い音だった。
強く吹いた突風かとも思われたそれは、しかし断続的かつ不規則に翔の耳に届く。風の止まったタイミングでも流れるその重低音は、それが自然由来のものではないことを翔に気づかせた。
気付いてからは早かった。
カメラのファインダーから目を離し、翔が山嶺の方をその視界ではっきりと捉えた時には、もうすでに山の峰の中にポツポツと天のようなものが上下している様子が見てとれた。
それはぐんぐんと大きくなりながら、翔の方に飛んでくる。真っ赤なそれは、その威厳を保ったまま近寄れば近寄ってくるほど翔にとっても見覚えのある姿形になっていった。
翼を携えながら、歌うように重低音を響かせて雄大に飛ぶその姿。それはファンタジー世界の中でも一、二を争うほどに人気で有名なもの。
「ドラゴンだ……」
「おうおう、来たなぁ」
翔がつぶやいた横で、荷車から顔だけを出したキーウィも同時に呟く。
刺々しい鱗がだんだんと見えてくる頃に、その危険を思い出して翔は馬車の方に走った。
「キーウィ! 逃げないと!」
「ン? 何言ってるん? 自分」
焦る翔とは裏腹に、余裕そうなキーウィが悠々と草原に降り立った。
ドラゴンが迫る。その翼が空気をかきむしる音が聞こえるほどにまで近寄ってくる。
逃げられない、そう悟った翔は、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
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