41 ほうじ茶のタルト
「お前は今から私と和解したことにするんだ。お前の世界に戻るまで、ずっとだ」
階段を登りながらムトがゆっくりと翔の首筋に爪を当てて言う。
「もちろん約束なんて破るモノだからね。遠慮なく破って助けを乞うために泣き叫んでくれて構わないさ。でも、そうなった時はその首筋に牙を立てちまうかもしれないねぇ」
翔の背後からゆっくりと首筋に生暖かい息がかかる。それと同時に、うなじにねっとりとした熱くも冷たくもない、それでいて少し尖った何かがゆっくりと触れた。
今はただ触れているだけのそれが、皮膚に食い込むような幻覚に翔は襲われる。そして、そんな状況にしたムトを恨んだ。
「それに、手が私に触れても噛み殺す。力が抜けるなんて思わない方がいいさね。お前の腕を噛みちぎれば済む話だからね」
だが、翔はその声に違和感を抱いていた。
何が、とはわからない。だが、そのトーンは脅しでありながらどこか既視感のある雰囲気があった。
だからこそ、抵抗せずに従おうと決心できた。
石でできた階段をゆっくりと上がり、地下室の扉から外に出ると光の魔法ではない自然光で翔の目が一瞬眩む。だが、それはあくまでも一瞬であり、自然光の優しさにすぐに目が慣れる。
ふと、台所の方から小麦の焼ける匂いがしてきた。パンでも焼いているのか、と翔は一瞬思ったが、何か違う匂いだ。
「この匂いはどこからだい」
「え、多分キッチンの方だけど……」
「そうかい。じゃあそっちの方に行ってもらおうかね」
「何でだよ! 別に行かなくても構わないだろ! 俺だけ連れて帰るんじゃなかったのかよ!」
焼ける匂いがしているということは、アーミアがまだキッチンにいる可能性が高い。ならば、キッチンに近づける訳にはいかないと翔は考えていた。
家にもいくつか出入り口はあるはずで、一番大きな玄関に向かうルートを通ればキッチンの前に行く事は免れないだろう。だからこそ、翔は何かを焼くいい香りがした瞬間に、別の場所に向かおうとしていたのだ。
だが、カルラはそれを悟ったのだろう。
「ふふふ、ハハハハハ! お前らが守ろうとしていた女か? お前が従順に従ってくれるなら、私はその女には手を出さないでいてやると約束しようじゃないか」
背中をバシバシと強く叩かれ、翔はカルラの申し出を素直に受けるしかなかった。拒否しても強引に連れていかれる事は確実であり、その場合にアーミアがどんな目に遭うかもわからなかったが故にしょうがない選択だった。
「あれ? その人って……」
キッチンに向かうと、アーミアがちょうどオーブンから何かを取り出しているようだった。取り出されたそれは丸い形をしており、タルトのようだ。ほんのりとかおる茶葉の香りが、絶望的な状況で萎縮していたはずの翔の胃袋を刺激する。
「あはは、誤解が解けたんだよ」
「そうなんですね。あ、じゃあ壊したみんなの餌場とかも直して貰えばいいじゃないですか! あるいは他にできる方を知ってるかも」
アーミアの切り替えの速さには翔も驚いたが、よくよく考えてみれば突然開いた異世界の扉からマルハス達が連れてきた翔を見て尚こんな待遇をしているのだから、この程度の受け入れは屁でもないのかもしれない。あるいは、信用し過ぎているだけなのかと少しだけ翔は不安になった。
「そうだね。今から色々と処理しに行ったらそれも手伝ってもらおうかな。ムトも先に行ってるらしいけど、見なかった?」
「見てませんね……って言っても私もちゃんと集中して見ていたわけではないんで、気が付かなかっただけかもしれないですけどね。あ、タルトはじゃあ後で食べる方がいいですね」
そんな他愛もない会話を繰り返す翔とアーミア。そんな最中、一際大きな音でぐうと腹の虫が鳴いた。
「カケルさん、そんなにお腹空いてたんですか?」
「い、いや……今のは俺じゃなくって……」
翔が振り返ると、カルラが恥ずかしそうに額を抑えて立っている。
「あ、あはは……食べます? 三人では食べきれないかなって思ってたんですよ」
オーブンから取り出された鉄板の上には、豊かな香りを含んだ湯気がもうもうと湧き立っている。アーミアは完全に翔がカルラと和解したと信じ込んでいるようで、無防備なままにタルトを近くに置いて切り分け始めた。
「せっかくだけどアーミア、急がないといけないからまた後で……」
「いや、何言ってるんだい。せっかくだ。時間もあるから貰おうかね」
何を言っているんだ、という顔で翔がカルラの方を見る。アーミアから一刻も早くカルラを遠ざけたい翔の意思とは裏腹に、テーブルに着席したカルラの前にタルトが一切れ置かれた。
席の下ではおこぼれに預かろうとしていたマルハスたちがアーミアに叱られてもなお、少しでも食べこぼしを狙おうと必死になってその様子を眺めている。
「体の大きな方ですし、お腹も空いている事でしょうから少し大きめに切ってみました。一応もうちょっと美味しくする予定だったんですが、これでも十分美味しいんで召し上がってください」
アーミアがフォークを差し出すと、カルラはゆっくりとそれに口をつけた。最初こそ警戒しているようだったが、自分のことをほとんどわかっていないであろうアーミアがカルラよりも先に口をつけたことに安心したようだった。
「あ、おいし」
「よかったです。ほうじ茶……って言ってもわからないですよね。お茶の葉っぱを練り込んでみたんです。紅茶ほどの明るい香りはないですけど、その分優しい甘さが引き立つような落ち着く香りなんですよ」
「そうなのか。翔、あんたは食わないのかい? ならもらっちまうよ」
返答を待つ前にカルラは翔の目の前に置かれた皿にも手を伸ばす。そしてペロリと平らげた。
「ご馳走さん。おいしかったよ」
「ありがとうございました。またいつでも食べに来てくださいね! ちょっと食材を買い過ぎてしまって……」
「え、ああ……本当にいいのか?」
「ん? ええ、構いませんよ。和解されたんでしたらいつでも。それに今度は一緒にいた二人の方もどうぞ来てください」
恥ずかしそうにはにかみながら言うアーミアが手を振る。
「おい……早く行くぞ! アーミアには手を出さない約束だろ!」
翔も一緒に席から立ち上がると、小声でそう言いながらカルラの脇腹をこづくが、カルラは動かない。
それどころか、何かを言おうと口を開け閉めしながら、しかし何も言えないままだ。
そしてカルラの頬に、涙がこぼれ落ちた。
「ど、どうしたんですか!?」
アーミアの焦る声が家の中に響き渡り、周囲ではマルハス達が何事かとオロオロと走り回り始めていた。
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