33 月明かりの人影

 翔はダイニングに突っ伏して眠っていた。度数の強い酒を飲むなんて久しぶりで、それこそ翌日に響くからとあの社長ですらもやらなかった上に部下にもやらせなかった行動だ。

 一番近い記憶は、大学時代の飲み会の、それもたまたま出席していた時に飲んでしまったバジルリキュールのロックくらいだ。そんな人間が久しぶりに度数の高い酒を、しかもサラサラと流し込むように飲んでしまえばどうなるかは誰の目にも明らかだった。

 テーブルの上にはオイル煮のフライパンと、フランスパン。あれから酒と一緒に食べるために、わざわざ残った油をつけながら翔はフランスパンを齧っていた。


「ん、頭いって……一杯飲んだだけなのに。弱くなってんのかな」


 頭をかきながら翔は起き上がる。少しだけ警鐘を鳴らす脳みそをなんとか覚醒させて、グラスとフライパンをキッチンの流し台に戻した。


「食い過ぎたとはいえ、まだあんまり腹が減ってないってことはあんまり時間も経ってない……のか? 月の位置で時間測る方法覚えときゃ良かったな。それにしても、シャワーとか浴びれないのかなここ」


 農園の作業で汗をかきすぎている翔は、いくら体を拭いていたとしてもどうにもならないほどにベタついている。とりあえずの応急処置として翔は借りている部屋に入ると自身の着ていた作業着を脱ぎ、ラフな服装に着替えた。

 がた、と音が鳴ったのは、その着替えが終わって五分ほど経過した時だった。


「アーミアか?」


 そう翔は呟くが、足音がしない。ベッドから転げ落ちたのだとしたら一大事だが、ここにずっと住んでいるアーミアに限ってそんなこともないだろう。

 ネズミか、とも翔は思ったが、ネズミにしては音が大きすぎるような音だった。

 そろ、と部屋の扉を開け、廊下を覗き込む。


「ムト〜? なんか忘れものでもした〜?」


 声をかけてみるが返事はない。真っ暗な木製の短い廊下と、その先に見えるダイニング以外に何が見えるわけでもなく、そしてそこには誰もいない。

 がた、とまた音が鳴った。


「……外か? マルハス達が何かやってんのかな」


 月明かりが家に入ってはくるものの、その眩しさは全く不快にならないほど。それもそのはずで、すでに月は頂上にまで上がっており、ダイニングに置かれた時計は深夜の二時半を少しすぎた頃合いを指していた。

 翔はマルハス達が動き出したのかとつぶやいた言葉を一瞬にして脳内で訂正する。こんな時間に物音を立てるほど動くとは到底思えなかったからだ。


「……夜行性の動物でもいるのか?」


 静かな家の中を、翔はゆっくりと歩いていく。靴は履いているとはいえ、よくできた建物の中で木が軋む音はあまりしない。だからこそ、夜の静寂が耳鳴りのように翔に襲いかかってきた。

 ただの好奇心といえばそれだけである。農園の入り口は翔の部屋以外には閉ざされており、外部から入ってくる動物は農園に害意がないという条件でなければ入ってこれないはずだ。

 翔の中で自分を脅かす何かではないだろうと勝手に予想をつけていた。

 ゆっくり、ゆっくりと歩みを進めていく。もし驚かせてしまえば、逃げて行くような臆病な動物かもしれない。

 翔は玄関の扉に手をかけて、ギィ、と開いた。


「誰か……いるわけではないか」


 夜の闇の中、少しだけ照らされた土が灰色に照っている。

 がた、とまた音が鳴る。


「餌場の方からか……?」


 音の方向は、確かに家の裏手からだった。

 翔はゆっくりと扉を抜け、外に出る。深夜の静けさの中、草花を踏むくしゃっとした音だけがやたらと大きく聞こえてくるような気がした。

 懐中電灯は持っていないが、それでも月明かりでなんとか凌そうなほどに明るかったことだけが、翔にとってはありがたかった。

 ゆっくりと翔は家の裏手に回っていく。近づくにつれだんだんと聞こえなかった何者かが蠢くような音が翔の耳に届いてきた。

 それと同時に、聞いたことがないような声色の話し声が聞こえてくる。つまり、夜行性の何かではない。人間の言葉を話す何者か、だ。


「……と…………に……」

「あ……ね…………こ…………」


 何を言っているかは定かではないが、その声はアーミアでもムトでも、カートラ三兄弟でも、ましてやキーウィの声ですらない。

 ゆっくりと翔は手近にあった角材を手に取ると、足音を忍ばせて声のする方に歩く。

 翔が餌場に到着すると、そこには三人の人影があった。しかし、月の光を家が遮っているせいかその顔が克明に見えることはない。


「誰だ!」


 翔が勇気を出して叫ぶと、人影の三名がバッと翔の方を振り返った。三者三様の目が、暗闇の中きらりと光って翔の脳髄を凍てつくように刺していた。

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