32 マスタードとオイル煮と山椒酒と
「ムトも今日は一緒に食うんだな」
「せっかくだ。それに、今回買った食材は私もちだからな。少しでも味わって損はないだろう?」
「もう、普段から一緒に食べていいって言ってるじゃないですか。ムトさんは特別なんだから。カケルさん、ムトさんってやけに律儀でこういうの誘っても一緒に食べてくれないんですよ!」
アーミアがパン切り包丁でフランスパンを切り分けながら言う。ムトは恥ずかしそうに頬をかきながら、それを受け取っていた。
食卓の上には、鉄製の大きなフライパンと中くらいのフライパンが一つずつ並んでいた。
大きな方には未だじゅうじゅうと大量の一口大に切った鶏胸肉が音を立てて乗っている。アーミアが作ったマスタードソースが絡んで、照ったその光が翔には水面に映った月明かりのように眩しかった。
「こっちのレタスで巻いても美味しいでしょうし、この細長いパンと一緒でも美味しいかもしれませんよ」
中くらいのフライパンにはオリーブオイルがなみなみと張られ、その中でエビとイカ、きのこや野菜などがぐつぐつと煮立っている。オリーブオイルとニンニクとバジルの香りが強く部屋中を満たしている。
「オイル煮、やってみたかったんですよね! 王国の方で見かけたことはあるんですけど、油、特にこんなに純度が高くて植物性で、香りも良いものなんて高級品で……」
「市販のものだよ。しかもボトル入りのお得用のやつ。キーウィに見つかったらこの世界の油関連の経済が崩れるから絶対に見せるなって念を刺して、買ってやったんだ」
うっとりとしたアーミアに呆れたようにムトが付け足した。
「それにしても、良い香りだ。この匂いだけでパンが食べられそうなくらい」
翔が呟くのに同意するように、マルハスたちも床の上で踊っている。アーミアが手元で残した切れ端を後でもらえることがたいそう嬉しいようだ。
それ以外にも一人に一つ、椀に入った透明なスープには、オイル煮と同じ野菜ではあるがコンソメで仕立てた優しい香りのするスープが置かれていた。重いメニューの中でもチェイサーになるようにと、アーミアは少し味を薄めに作っている。
「じゃ、いただきましょうか」
三者三様ではあるが、全員が敬意を払って食事に感謝し、そして夕食がはじまった。
翔は油を掬い取るようにしてパンを浸すと、その上に具材をのせて一口食べる。
「あ、おいし。海鮮の出汁が出てる。それになんか……バジルの風味が面白いかも」
「あ、わかります? それだけここで自生してるやつを使ってみたんですよ。味がボケちゃってるんでちょっと多めに入れてみたんですけど、そこまで目立たなくてラッキーでした」
「へぇ、ロケとかで色々と残飯は食ってきたけど、ここまで美味しいのはなかったかも」
「お前……言い方が悪いぞ。それにしても、本気で餌箱を作ろうとしてたとはな」
パンを油に浸して口に運びながら、ムトは言った。
「どういうこと?」
「いや、あれは前までここにいた奴が作ったもんなんだ。なぁ、アーミア」
翔は一瞬びくりとした。ここの先住者に関しては触れにくい話題だと思っていたからだ。だが、アーミアは何も気にしておらず、ケロリとした様子でフランスパンをちぎって口の中に入れている。
「ん、そうですね……。確か、ダイさんが作ってくれて。私もよくあそこでご飯食べてたなぁ」
「何? こういうのが上手い人だったとか?」
「ん、まあそこそこにはな。この家もそいつが主体で建てたものだ」
「へぇ、こんなに大きな家まで作れるとは。本格的な奴がいたんだな。それなら尚更俺には無理な作業だったか」
「いや、翔さんならできるって信じてましたよ!」
アーミアのフォローが沁みるが、翔はそれでも反省し終えていなかった。改めて、ここにきてからできたことは自分のやりたいことが多い。そうではなく、アーミアがやって欲しいこと、それをやらなければと翔は心に誓っていた。
「ふぅ、もう入らん」
「俺も同感」
「私もです……」
テーブルを囲う三人が揃って腹を撫でながらそう呟く。アーミアの作った料理はどれも素晴らしく、翔は普段食べられる量以上に詰め込んでしまったような気がしていた。
「それにしても、ほとんど翔さんが食べてましたね」
「あはは……まあアーミアとムトの食べる手が早々に止まってたし、食べてもいいかなって。途中で聞いたしね。食べてもいいか? って」
「そうですけど、本当にそこまで食べるとは思わなかったんで。本当にたくさん食べるんですね」
「食べようと思えば、だしアーミアの料理が美味しかったから、でもあるよ。こんなにおいしいものを食べさせてくれたんだから、今度は俺が料理を振る舞おうかな」
「ふふ、楽しみです。……と、私はちょっと部屋で休んできます。食べ過ぎちゃった……」
よた、と歩きながらアーミアはそう言うと、自室に戻って行った。
「呑気なものだな。お前の家から出て行く時も帰ってくる時も、あんなに見張られていたと言うのに」
「マジで」
「ああ、だがまあ、あいにく私の方が一枚上手だ。お前の世界は魔力こそないが、多少の魔法くらいは使えるからな。隠密魔法で隠しながら出て行ったら全く気が付かなかったよ」
「なら良かった。それにしても、二人には苦労かけっぱなしだなぁ。本当に俺、料理とか作るか、あるいはここに貢献できる何かスキルを習得しないと」
翔が呟く間に、ムトがキッチンまで行き小さなグラスを二つとった。ムトは一つを自らの前に、もう一つを翔の前に置く。
「いいじゃないか。どうせお前はお前にしかできないことばかりだ。私が魔法と法律が得意なように、お前は動物を撫でる能力とカメラで発信する能力を使ってアーミアを助ければいい。それがどう役立つかは自分で考えろ」
コルクが開かれた瞬間、弾けるような山椒の香りが翔の鼻を突き抜ける。その香りだけで良いそうなそれをグラス半杯ほど注ぐと、上から水魔法で生成した水を同じほどの量注いだ。
「少し濃いが、悩む馬鹿にはそれくらいの方が薬になる。ゆっくり飲んで、さっさと寝た方がいい」
「ムトはどうするのさ」
「私か? 私は普段から使っている寝床があるからな。これを飲んだらそっちで眠るさ」
酒瓶の中身をムトは水も入れずになみなみまで注ぐと、コルクを閉めてキッチンに置いた。そしてその流れで、立てかけてあったフランスパンの端をナイフで切り取る。
「このパン、バターが練り込まれてるんだろうな。存外組み合わせとして悪くない。お前も食って飲んでみろ」
投げ渡されたパンをキャッチした翔は、それを一口齧ってから山椒酒を口に含んだ。
「ッッッ!」
むせた翔を見て、ムトが笑う。
「パンに酒が染みて……口全体をずっと焼くんだが……」
「はっはっは! 傑作だ! まあ慣れれば美味いぞ」
月明かりに照らされるダイニングの中で、翔はさらに山椒酒を薄めていった。
・・・
「開いたぞ」
暗闇の中、フードを被った男女が無言で目を見合わせる。彼らがそのフードを取ると、先ほどまでの見た目から一瞬でそれぞれの獣人の姿に切り替わった。一人は狼の女、一人はイタチの男、一人は狐の女だった。
「ゆっくりだ。隠密の魔法がかかっているとはいえ、他の住民に見られるとまずい」
一人、また一人と蛇のように扉に入っていく。そして、ギィと扉は閉まった。
扉には二〇三と書かれたナンバープレート。そしてその横には、水無月と書かれた表札がかけられていた。
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