8 なんでこんなところで

 翔は約束の時間から三十分ほど遅れて弁護士事務所に到着した。


「なんか、思ってたよりも小さいな」


 弁護士などという、その存在が高給取りであることの象徴と言わんばかりの職業であるにも関わらず、事務所は翔がそう呟いてしまうほどに小さかった。

 インターフォンを押し、誘導されるままに翔は事務所の中に入っていく。スタッフがいないのか誘導は張り紙で行われており、誘導されるままに本当にただのオフィスのイメージそのままな一角についたてを立てただけの簡素なスペースに翔は入って行った。

 テーブルの上に置かれたメモにはソファの上座に座るようにと書かれており、翔はそれに案内されるまま座る。

 暫くすると、奥から眼鏡をかけた女性が歩いてきた。タイトなスーツに身を包み、大きな丸いメガネをかけてショートボブの髪の毛でまとめている。おとなしい茶色の髪色ではあるが、その美麗な容姿と相まって女性人気のある女性アイドルのような強さが見え隠れしていた。


「……!? お、お待たせして申し訳ありません。オウル法律事務所、代表の六戸むつのへと申します」


 六戸と名乗った女性は一瞬翔を見て驚いていたが、それが幻覚かのように一瞬でかぶりを振って営業モードの冷めた表情に戻り、翔に名刺を差し出してきた。


「うわ、結構汗かいておられますね。どうしましょう。シャツ程度であればお貸しできますけど……」


 六戸はそう言うとどこからともなく男性用のシャツを取り出した。


「あ、すみません。いいんですか」

「良いんですよ。ちょうど前の方が商品の宣伝にって置いていかれたんですけど、この事務所私一人でやってますし、それ男性用ですし。着てもらった方が服も喜ぶと思います」


 翔はありがとうございますと言うと、一度オフィスから出て六戸の見えないところでシャツを着替えた。どうやら本当に多量の汗をかいていたようで、脱いだシャツは春先であるにも関わらず夏場と同じように湿っていた。


「あ、そのシャツ洗っておきますよ。また今度すぐにお呼びすることになると思いますから」

「いや、それは流石に……」

「良いんですよ。契約していただいた方なんですから気にしなくても。個人事務所だとこういう積み重ねが大切なんですから」


 そんな事を言っていいのかと思いながら食い下がる翔は、しかし六戸の圧に根負けしてシャツを渡してしまった。

 その後、契約内容の確認になったのだが、六戸は大津からほぼ全てを聞いていたようで、翔はほとんど何も話す事はなくスムーズに契約に移っていくことになった。六戸は続けて、最終的な契約書を翔に差し出してくる。

 差し出された契約書にサインを書く前にと一連の文言を眺めている間に、六戸の方も契約書を眺めていた。


「お名前、ショウさんじゃなくてカケルさんなんですね」

「そうですねぇ。最近はショウって読む方が多いらしいですけど、自分はこれでカケルって読む方で」

「ふぅん、やっぱりそうか」

「そうなんですよ……ん?」


 一瞬、違和感を翔は覚えた。ただの些細な既視感だ。


「ど、どうかされました?」


 六戸は頬に少し汗を垂らしながら翔の方を見る。


「いや、すみません。自分の勘違いです」

「そうでしたか」


 パラ、パラと紙を捲る音だけがゆっくりと響く。


「そういえばムトさんってこれから何か予定とかあったりするんですか」

「ん、ないぞ。アーミアのところにでも行くのか? ……あ」

「やっぱそうじゃねぇか!!!」


 翔は契約書をテーブルの上に置くと、六戸に迫った。


「ところでなんでばれたかな……? 結構しっかり変装していたつもりなんだが」

「なんでって……ちょっと怪しいが積み重なって、まあどうせ変に思われてももうほとんど合わない相手だからカマでもかけてみようかなと」


 翔の言葉に、ムトは呆れた様子で頭を抱えた。


「それでこれなんだから笑えるな」

「ところで、なんでムトがこっちの世界で弁護士なんかやってんだ」

「暇つぶしだが?」


 バレたからもういいかと言わんばかりに足を伸ばしたムトが、先ほどまでの丁寧さを全く無かったことにしたように悠然と答える。

 もう隠す必要もないからとスーツのスラックスが足首から消えていき、ハーピーのように鳥の足に変化していった。


「で、なんだ。残業代か。適当にやっとくから」

「あんた、今俺以外の客が来たらどうするつもりなんだ……」

「そんなもん、人払いの魔法をここにかけてるに決まってるだろ」


 余裕そうに呟きながらムトが指を鳴らすと、翔にも見えるような色で事務所の入り口に壁が作られているのが見えた。


「はぁ、じゃあよろしく。裁判に関してはマジだから。あとシャツは持って帰るから返してくれ」

「え、もう洗濯機にイレチャッタカナー……?」


 明らかに嘘だが、これ以上暴れても仕方がないと悟った翔は、家に戻って行った。


「マジでシャツ使って変なことすんなよ?」

「もう洗ったんだからできるわけがないだろう」


 指をさされてなお、ムトは余裕綽々な表情で事務手続きを開始していた。翔が事務所から出て行くにも関わらず、その見送りすらムトは六戸としてする事はなかった。

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