ネイルもハンドクリームもいらない

ちゃんと言えるようになったから

 小さい頃から両親が共働きで家にいなかったこともあって家事の手伝いをしていたせいか、私の手はいつもささくれだらけでボロボロで、周りのおしゃれな友達みたいにかわいいネイルもしていないし良い匂いのするハンドクリームも持っていなかった。別にそんなのやろうと思えばできたけど、それはもう自分の中でのちょっとした反抗心みたいなもの、いや、私はみんなと違って家事をしている、という小さなプライドだったのかも。とにかくそんな小さな小さなプライドを、私は少し前まで手放せないでいた。


「え、こんな時間……」


 気が付けばじっと自分の両手を見つめていてはっとした。もうすぐマサが帰ってくる。今日はせっかく休みだったから、掃除も料理も完璧にしておきたかったのに……。いつの間にか部屋が薄暗い。冬から春に切り替わるのって突然だ。


 慌ててイスを引いたら、フローリングがキュッと鳴ってあまり滑らずに変な位置で止まった。微妙に狭い隙間にそのまま体をねじ込む。腰にテーブルが当たって痛い。こういう時、めんどくさがらずにイスを引きなおせば良いんだとわかっていてやらない自分に腹が立つ。あと、痛い腰にも。


 腰をさすりながらベランダへ向かうと、洗濯物が風に揺れていた。風、強かったんだな。今日何してたかもあまり覚えていない。何か趣味でもあったら良かったんだけど。親に褒められたいがために家事と勉強ばかりして、休みの日に何をしていたら良いのかもわからないつまらない大人になってしまった。掴んだマサのTシャツが冷たくて申し訳なくなる。


「ただいまー」


「えっ、おかえり」


「えってなんだよー」


 洗濯物を両手いっぱいに抱えたまま、玄関から聞こえた声に返事をする。マサ、帰ってきちゃったか。全部完璧、あとはお風呂入っている間にご飯温めとくね、ができなかった。いつもはできているだけに悔しい。洗濯物をカゴにおろすと同時に、マサがキッチンにエコバッグを置いて笑った。


「……なに。なんで笑ってんの」


「クソー!って顔して洗濯物取り入れてるから面白くて」


 えっ、そんな顔してた?思わず自分の顔に左手を当てると、またマサが笑った。かわいい、だって。もう結婚して半年になるのにこの素直さには全然慣れない。マサは私と違って思ったことはすぐに口にするタイプだ。でも、言葉にするのはありがとう、とか、美味しい、とかそういうのだけ。私は感情表現が苦手だから、それに見合ったものが返せない。いつもいつも、ありがとうって言いたいのに。


 近くの雑貨屋で適当に買ってマサに持たせている帆布のエコバッグから、帰りにお願いと頼んでいた焼きのりとすりごまが出てくるのを横目に見る。手、洗ってからやってよ、と声をかけたかったけど、恥ずかしくて声にならなかった。目線を戻して冷たくなったジーパンを畳む。


「フーは、今日なにやってたの?」


 フー、というのは私のあだ名。風香ふうか、だからフー。マサがつけた。


「今日は……トイレ掃除と作り置きちょっと作ってた」


「そっか、ありがと」


 なんとなくこっちを向いて言っているだろうなと思ってキッチンに目をやったら、ニコッと微笑まれた。うっ、心臓が……。トイレ掃除と作り置きくらいで好きな人の笑顔を見られるのなら毎日だってやるよ、そう思ったけど、うん、しか言えなかった。いつものことだ。


 エコバッグをきれいに丁寧に畳んで、マサは手を洗いに洗面所へ行った。順番がなあ……と思うけど、言わない。もちろん言う時もある。でも、今日はいいやという気分だった。たぶん、自分のすることが完璧じゃないというのもある。後ろめたいのだ。断じてそんなことを思う人じゃないことはわかっているけど、お前今日休みだったのに何も終わってないじゃんとか考えてたら、と思うと怖くなった。


「ねえ見て」


「ん?」


 畳んだ洗濯物をまとめていたら、ジャジャーン!と口で効果音を言いながら、マサがキッチンに戻ってきていた。大げさな効果音の割に、手には何も持っていない。え、なんだろ。俺が戻って来たよってこと?マサはちょっと天然入ってるし、ないこともないかな……。


「えーと……」


「あっ、そこからだと見えないか。これこれ」


 リビングで正座して洗濯物囲まれた私に向かって、マサが早歩きで嬉しそうに近寄ってきた。手には、薄水色の……映画のBDだ。それもかなり昔の。


「これさ、今日駅で500円で売ってたんだよ」


「ああ、南口の古本屋さん、たまにあそこでワゴンセールやってるよね」


 それ!とマサが勢いよく頭を振った。そんなメタルバンドのヘドバンみたいに……という勢いで目を輝かせて振るので、おかしくて笑ってしまう。


「これ、今日朝会社行く前に見かけてから絶対フーと見るんだって思って」


「うん」


「楽しみにしてて」


「うん」


「トイレ掃除と作り置きありがと!あと洗濯物も」


「あは、さっき聞いたよ」


 なんで今なの、もう勢いがすごすぎて、笑いが止まらなくなる。ご主人様と遊んでもらいたい大型犬のように、フリスビーを中古BDに持ち替えて帰ってきた。なんて愛おしいのだろう。しかもこの映画、先月契約したサブスクでも見られるやつだ。いっぱい映画観ようね、と自分で契約してたのに。かわいいなあ。もう。


「ごめんね。家事終わってなくて」


 笑いすぎて出た涙を拭きながらなんとか言えた。マサは、ぽかんとした顔でこちらを見ている。


「そんなのいつもありがとうだし一緒にやれば良いよ」


「帰ってすぐお風呂入ってご飯食べたくない?」


「うーん……まあそういう時もあるけど、今日は一番にこれを見せたかったし」


 ね、とまたBDを振り回すから、やめてよ、と言いつつ笑えてきてしまった。なになに?と顔を覗き込んでくるし、もう洗濯物はぐちゃぐちゃで、あーあ今日はもういいや!


「あのね」


「うん?」


「今日、親指にできたささくれが痛くて洗い物キツイんだ」


「えっ、じゃあ俺やるね!待ってて」


「今じゃない夕飯の後だよ」


 スーツ姿のまま手には中古BDを持ち、今すぐ洗うと言わんばかりにキッチンへ向かうマサの背中に慌てて声をかける。ハイッ!という返事がどうしようもなく面白い。マサにはかなわないなあ。


 指にできたささくれのことなんて、ちょっと前までの私だったら絶対に言わなかった。絆創膏貼って何事もないふりして、全然平気な顔して家事をしていただろう。でも今は、そんな小さなプライドなんてゴミの日に出せちゃうくらい、マサがいれば大丈夫なんだってことに気付けた。かわいいネイルもハンドクリームも、強がりも必要ない。愛しい私の協力者よ、映画は夕飯の後にね。


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