橋を渡って
rainy
第1話 油の木 1
ラドゥの目の中に、大粒の汗が太陽の光ごとなだれ込んだ。一瞬、目の前が真っ暗になった。ラドゥは自分の太い首に掛かったくたくたの手ぬぐいで荒々しく汗を払った。
ほぼ一時間、休み無く続けていた仕事の手を止め、畑のあぜ道のずっと先に視線を向けた。油の実を運搬する荷台の轍が刻まれた赤茶色の道の両側には、油の木がずらりと並んで鬱蒼と揺れていた。人の背の高さの三倍程の木の頂きからたくさんの枝葉が噴き出していたが、その様は何本も腕を持つ化け物の立ち姿のようであった。そして枝は揺れる度に、人の呻き声のような憂鬱な音を立てた。
あぜ道の向こうから、ラドゥの一番上の息子のオーンが荷台を引きながらやって来るのが見えた。背丈は自分と同じ位。自分に似てがっちりとした体つきに育った息子も、あぜ道を覆いかぶさるようにそそり立つ木々の間で、まるで押し潰されそうな程小さく見えた。
オーンがラドゥの傍で荷台を止めると、ラドゥは息子と並び、先程刈り取って地面に落としたばかりの油の実の房を、先を削った竹で突き刺し、荷台に投げ入れる。
赤紫色の毒々しい油の実は、決して素手で触れてはならない。もしうっかり触れようものなら火傷したように爛れて、その後長い事苦しむ事になる。それを防ぐための肩まで届く長い手袋が、炎天下の労働をさらに過酷なものにしていた。手袋を脱げば指先から滲み出た汗がどぶどぶと溢れ出すはずだった。
オーンは竹に挿した房を持ち上げ、見入った後、
「虫食いだらけだ」
と呟き、竹を振って実を荷台に投げた。オーンはラドゥに似て口数が少ない。しかし息子の言葉の裏には様々な思いが絡みついている事を、ラドゥは知っていいた。ますます苦しくなる生活。ひもじい毎日。借金の滞納。妻のクーメイの暗い表情、幼い末の娘の泣きわめく声……。
かつてこの地には水田が広がり、この時期にもなると青々と光る水を湛えていた。しかしこの国を支配するカサン人の命令により、水田を潰し油の木を植えて以来、苦難続きだった。油の木の収穫によって農民達の生活は向上し、ずっと豊かになる……そういう触れ込みのはずだった。しかし実際は違った。
(そんな事はとうに分かってた……カサン人は偉いし文明人だ。だがこの土地の事はずっとこの地を耕してきたおら達農民が一番よく知ってる。先祖代々稲を育ててた土地に油の木は合わねえ……)
慣れない作業にも農民達は苦しんだ。収穫高に応じて「賃金」が与えられるのだが、それは全く働きに見合ったものではなかった。
ラドゥは農民達の意見を束ねる立場だった。なぜならラドゥは貧しい農民達の中で、数少ない読み書きの出来る人間だからだ。ラドゥはこれまで何度も村長に対して賃上げを申し入れた。しかし聞き入れられる事はなかった。村長は「農園労働者の賃金を決めるのはカサン人の農園経営者であって、自分は彼らに任命された監督者に過ぎないから何一つ決める事は出来ない」と言う。
「ならばその経営者はどこにいるのだ、会わせて欲しい」
とラドゥらが頼んでも、村長は首を横に振るばかりだった。
「私ですら容易に経営者に会う事は出来んのだ。お前達があの方に会おうとしても無駄だ。それよりも油の木の増産のために出来る努力をしたまえ。そのために融資制度もある」
ラドゥは黙って頭を垂れるしかなかった。ラドゥはこれまで融資制度を使って様々な事を試みてきた。油の実を刈り取るための長い柄の付いた鎌や取入れのための網、新しい肥料を買い入れた。皆で協力し合い、水路をいくつも堀った。しかし土地はますますやせ細り、収穫高は向上せず、農民達の生活は苦しくなる一方だった。
ラドゥが押し黙っていると、村長はさらにこう続けた。
「ラドゥよ、お前は度々村人を集めて勉強会や集会を開いているそうじゃないか。こういう事も今後控えるように」
「なぜです!」
ラドゥは驚いて顔を上げた。
「農民達の中に、徒党を組んでカサン人を襲おうと企てる者がいるからだ」
「そんな! そんなばかな事、考えるわけねえ! 畑を良くするために話し合いをして、勉強しあってるんです!」
ラドゥには、カサン人がそんな命令を下した事が信じられなかった。カサン人は勉学や向上心を重んじる人々であるはずだ。
「それは分かっておる。生産性を上げるための勉強会ならそんなに長々とやる必要はない。集会では皆が好き勝手な事を言い合っているようだが、そんな事もいらない。お前が全てを決めて皆に指示すればよい」
「そんな訳には……」
「いいかね、私はお前を信頼している。お前はこれまで村のために実に良くやってくれた」
言葉を失ったまま村長を見返すラドゥに対し、さらに村長は言葉を続ける。
「それに君はハン・マレン君と共にオモ先生の下で学んだからね。ハン・マレン君と私の息子は進学先の高等学校で随分仲良くしていたようだ」
ラドゥはハッとした。彼の名を久しく耳にしていなかった。この少年の存在は、いつも光や喜びと共にあった。しかし今のラドゥの生活に憩いも安らぎも無い。
「マル……ハン・マレンは今どこで何をしているのでしょう」
「カサン帝国の首都のトアンの大学に留学して卒業し、新聞社に勤めているという話を聞いている。文才のある青年だったようだからね」
その時、ラドゥの脳裏には、遠い昔の光景が強い日差しに照らされたようにありありと蘇った。そして、アジェンナの強い日差しの全身に纏わりつく汗を吹きさらうような澄んだ歌声も……。
ハン・マレン。かつてはマルと呼ばれていた幼い少年の歌声だった。
(川の近くに行けば、いつだって聞こえてきたんだ、あの歌声が……。川の向こうには、妖怪と共に暮らし妖怪を操る汚らわしい『妖人』が住んでいると村人達は話していた。そして実際、川の向こうの人達は貧しく汚い格好をしていた。わざわざ橋を渡って向こうに行く人などめったにいなかった。そして幼いマルは、ボロボロの服を体にぶら下げ、服からはみ出した体は醜いイボだらけ。だが歌声は心に染み渡る程きれいだった。マルの歌は、川を難なく飛び越えた。おらはあの歌声に引き寄せられるように、川を渡ってオモ先生の学校に通ったんだ。妖人のためにカサン語を教えに来た、勇気ある若い女の先生のいる学校に……)
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