第6話 気づかれない布教活動
歴史の授業で必ず学ぶのが、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによるキリスト教の布教です。自ら入信するキリシタン大名も現れますが、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発令し、それ以降は禁教令、鎖国、キリシタン迫害などが行われます。
しかし、「八幡神(やはたのかみ)」が聖書の唯一神で、万物の創造者である「ヤハウェ」で、「稲荷大神」が「イエス・キリスト」であるなら、すでに日本全国に布教されていたといえます。
戦国時代のキリスト教の布教は失敗に終わりますが、奈良時代から平安時代にかけての「秦氏」による布教は見事に成功したといえます。布教の成功で「秦氏」は権力も手に入れたと考えられます。
日本という国は、世界の中でもっとも古く、万世一系の天皇の治世が太古から続く国家です。表向きには文化や伝統を重んじる保守的な国ですが、その裏では誰の思惑で政治がコントロールされているのか、よく分からないところもあります。
現代でも、政府与党が夫婦別姓や同性婚などに消極的なのは、表向きには保守的であることを理由にしていますが、選挙協力の見返りに新興宗教の方針に従っている可能性があります。
「八幡神」の布教は、571年の「宇佐八幡宮(宇佐神宮)」の創建に始まり、749年に東大寺の鎮守神となって創建された「手向山八幡神」と全国の国分寺に八幡宮を勧請して神仏習合が進められます。
「宇佐八幡宮」の狙いとしては、全国の国分寺の総本山である東大寺の鎮守神となることで、国分寺を拠点に全国に「八幡神」を布教できると見込んでいたと考えられます。しかし、国分寺の建立が全国的にはスムーズに進まず、「八幡神」の布教も狙い通りには進まなかったと思われます。
その後、801年に坂上田村麻呂が岩手県奥州市に「鎮守府八幡宮」を創建し、征夷大将軍との関係を築きます。
そして、807年には大安寺の僧「行教」によって「元石清水八幡宮」、859年に男山の「石清水八幡宮」に遷座して、再び朝廷との関係が強固になります。
921年には筑前国一之宮「筥崎宮」(福岡市東区)が創建されます。現代では、宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮の三社を三大八幡宮とします。
武士が台頭してくると、1045年に源義家が「石清水八幡宮」で元服し「八幡太郎」と称するようになります。
1063年には源頼義が鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡八幡宮の元宮となる「鶴岡若宮」として勧請、1064年に河内源氏発祥の地とされる「壺井八幡宮」(大阪府羽曳野市)が創建されます。
1191年に源頼朝が、社殿が焼損したことから、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制として、改めて石清水八幡宮護国寺を勧請して、「八幡神」は武運の神として、源氏の崇敬により全国への布教を盤石にしていくのです。
なぜ、奈良の石清水八幡宮は歴史から消されたのか? @tataneko
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