第2話 歴史的・政治的な背景とは?

平城京遷都と平安京遷都の年号は覚えていますか?

・なんと(710)立派な(きれいな)平城京

・なくよ(794)うぐいす平安京

都が平城京(奈良)にあった時代を奈良時代、平安京(京都)にあった時代を平安時代といいます。


奈良の「八幡神社(元石清水八幡宮)」の創建は807年、京都の「石清水八幡宮」への遷座は、その52年後の859年です。まさに、奈良時代(平城京)から平安時代(平安京)への「時代の転換期」でした。


奈良時代には、天然痘の流行や地震などの災害から国を守るために、聖武天皇は仏教を深く信仰します。東大寺を総本山とする国分寺を全国に建立し、現代でもシンボル的な存在である奈良の大仏が作られました。


このとき「八幡神※1(やはたのかみ)」は大仏建造協力の神託※2により、東大寺の鎮守神となり、手向山(たむけやま)八幡宮が創建されます。「八幡神」は東大寺の鎮守神になったことで、全国の国分寺の鎮守神にもなりました。


しかし、聖武天皇が亡くなった後、宇佐八幡宮(宇佐神宮)の神託を利用して、僧の道鏡が天皇になろうとする事件が起こるなど、仏教勢力の政治への影響が大きくなります。


しかし、聖武天皇が亡くなると「八幡神」と習合(結合)したと考えられ、祟り(たたり)を防ぐために「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」の号が贈られ、「八幡神」はより一層、奈良仏教とのつながりを深めていきます。


しかし、第50代の天皇に即位した桓武天皇は、仏教勢力の影響力を排除するために山背国※3(京都)への遷都を実行します。これには「八幡大菩薩」となった「八幡神」と朝廷とのつながりの解消も含まれていたと考えられます。



※1「八幡神」は現代では「はちまんしん」と読むのが一般的ですが、宇佐神宮が創建された当初は「やはたのかみ」でした。「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」の号が贈られた以降、「はちまんしん」の読みが一般化していきます。


※2「神託(しんたく)」とは神様のお告げ、その内容を「託宣(たくせん)」といいます。


※3「やましろのくに」の漢字表記は、当初は「山背国」で、後に「山城国」になりました。「やましろ」とは「やまうしろ」の意味で、一般的には「奈良山のうしろ」が由来とされます。


歴史書「ホツマツタヱ」では、滋賀県高島市安曇川町や大津市坂本の日吉大社の辺りに、古代天皇の宮があったことから、琵琶湖から見て「やまうしろ」であるのが由来と考えられます。

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