好きを歌って、恋は語って、愛で黙って

桜 舞華

旅立ちと出会い

第1話 特別な歌



 頭の中で、知らない歌がずっと鳴り響いていた。物心つくずっと前からそうだった。


 今にもこの口から飛び出してしまいそうな歌を押し込めて、飲み込んで、終いには息まで堪えてしまう。

 う、と喉が鳴って、慌てて口を押さえた。


 ノアが歌うと、いつも母が大慌てで飛んできて、まるでノアの息を止めるように口を塞ぐのだ。


 「歌っちゃ駄目!」

 そう言って。



 歌は特別なものだ。

 何が特別なのかは知らないが、歌を歌って良いのは神に仕える者達と、神に選ばれた者達だけ。

 そう決まっているらしい。



「ノアー。ちょっと手伝ってちょうだい」


 草むしりをしていたノアに、母が家の中から声を掛ける。


「……なあに、母さん」


 しゃっくりのように息を呑んで、母の元に駆ける。

 キッチンからは良い匂いがする。


「スープよ。お隣の、ユーナおばさんに。アンナちゃん、風邪ひいてるんですって」


「そうなんだ」


 重たいお鍋を母から預かって、両手でしっかりと支える。


「熱いから気をつけて」


 金属製の鍋は、側面が少し熱い。

 ノアは取っ手を握って、出来るだけ身体が触れないように持ち直した。


「行ってきます」


 村は広く、人口が少ない。

 お隣といえど、広い畑を挟んだ向こうで、ノアの足で歩いても5分はかかる。


 段々と鍋の重みで腕が痺れるのを感じながら、ノアは知らず知らずに鼻歌を歌う。


 小さな吐息のような鼻歌。


 歌っていると、息が楽にできるようだった。

 心なしか、足取りも軽くなる。


 母がどうして歌を歌うことをそこまで強く禁じるのか、ノアにはわからなかった。

 母から離れた遊び場や、お使いの途中で、ノアはこうして時々歌っている。

 大抵は無意識だが、離れていれば母が口を塞ぎにくることはないので、歌っていることに気づいてもやめないことが多かった。


 神様に選ばれた人しか、と言うがノアが歌って悪いことが起きたことなどない。


 母は一体、何を恐れているのだろう。


 少しずつユーナの家が近づいてきて、ノアは鼻歌を止める。

 母はとりわけ、ノアの歌が人に、村人に聞かれるのを嫌がっている。


「ユーナおばさん!こんにちは!」


 鍋を置く場所もないので、扉の前に立って大きな声を出す。

 何度か声をかけながら、庭へと回ると慌てたように、白髪混じりの黒髪を引っ詰めた女性が出てくるところだった。


「ノアちゃん。ありがとね、重かったでしょうに」


 ノアの手から鍋を取り、ほらおいで、と手招きする。

 村の子供は少なく、大人達はみんな子供の親や祖父母のような存在だった。


 ユーナについて家へ上がると、リビングの椅子に座るよう促される。

 鍋を一度キッチンへ置いた後、ユーナは冷たい果実水と少し硬いクッキーをノアの前に並べた。


「アンナは?」


「まだ少し熱があってね。風邪を移しちゃ悪いから、ノアちゃんが来ても部屋に通さないで、って」


 ユーナの視線を追うと、固く閉ざされた扉が目につく。

 ユーナの孫で、ノアの幼馴染のアンナの部屋だ。


 いつもは扉は開かれていて、ノアが来たと知れば直ぐに飛び出してくる。

 ノアは飲みかけの果実水をテーブルに置いて、アンナの部屋に近づいた。


「アンナ。体調大丈夫?」


 閉ざされた扉を遠慮がちにノックして声をかけると、くぐもった声が帰ってくる。


「……ノア?」


「うん。熱が出たって聞いて」


 扉越しでわかりにくいが、少し掠れているようだ。


「……ごめんね、ノア。心配かけて」


「謝ることじゃないよ!早く元気になって、アンナ」


 申し訳なさそうなか細い声に、思わず祈るように返す。


 アンナは、体が弱いというほどではないが熱を出しやすい方だった。

 その度にノアは心配でたまらなくなる。


「ユーナおばさん、泉の水汲んでこようか?」


 扉の前から離れて、村の外れにある綺麗な泉を思い浮かべる。


 病や傷が癒えるという伝説のある、ヘレンの泉。


 癒しの女神ヘレンを祀ったとされる泉のそばには、慈愛に満ちた表情を浮かべる女神像がたっている。


 泉の水を求めて、こんな辺鄙な村を訪ねる人がいるぐらいには、その泉には効力があると信じられていた。


「ノアちゃん、今は村を離れないほうがいい。最近、魔物が多くなっているらしいからね。アンナはいつもの風邪さ。生姜たっぷりのスープを食べて、はちみつたっぷりのミルクを飲んで休めばすぐに良くなる」


 にっこりと笑うユーナに、ノアは「そうだよね。ユーナおばさんの料理なら、きっとアンナもすぐに治るよね」と頷き返す。


「さ、ノアちゃん。寄り道せずに帰るんだよ。最近は陽が落ちるのが早いからね」


 残りの果実水を飲み干して、クッキーを袋に詰めてもらう。

 じゃあまた、と手を振ってノアはユーナの家を離れた。


 この世界には魔物と呼ばれる悍ましく残酷な生き物がいる。

 彼等は動物に似た姿形をしていて、人や家畜などを食い物にする。

 その吐息は大気を汚し、その糞尿は土地を穢し、その死骸は次の魔物を呼ぶという。


 王都などであれば、魔物を倒す専門の集団だか軍隊だかがいるそうだが、そんな素晴らしい存在がこんな辺鄙な村に来るはずはない。

 時々魔物の群れに襲われ、一つの村が地図から消えてしまう。


 ノアの村は幸いにも魔物の群れに襲われたことはなく、近くを通った厄介な大型魔物に何人かの命が奪われるだけに留まっている。


 ノアの父親や、アンナの両親は魔物に襲われて死んだ。

 小さな村では、体力のある若者が魔物を退ける役目を担っている。

 小型の魔物であればある程度傷つければ怯んでどこかへ去っていくし、大型であっても罠を張って怪我を負わせれば逃げ帰る。


 倒すのは難しいが、追い払うのは困難なことではなかった。


「よし、泉に行こう」


 ユーナの家とノアの家の間にある畑を大きく迂回して、ノアは歩き出した。

 ヘレンの泉は村から出て直ぐの脇道にある。


 陽が落ちるのが早くなってきたとはいえ、暗くなる前には帰れるだろう。


 ヘレンの泉には、何度か行ったことがある。母が怪我をした時。

 アンナが風邪を引いた時。

 ユーナが腰を痛めた時。

 ほんの一口で、完全にそれらが治ったわけではないが、痛みが引いたり熱が引いたり、その時の苦痛が和らぐだけの効果があるのを知っている。


「ノア、どこか行くのか?」


「オーサさん。ヘレンの泉に行ってくるよ」


「アンナちゃんが風邪でも引いたか?」


「うん。そうなの」


「気をつけて行ってこいよ」


「ありがとう、シットおじさん」


「ヘレンの泉は近いし、陽が暮れるまでに帰って来りゃあ大丈夫だと思うが、魔物には気をつけろよ」


「うん、気をつけるよ」


 村を出るまでにすれ違う村人がノアに笑顔で声をかけてくる。

 その一つ一つに返事をする。


 時々、顔や腕に消えない傷があったり、片腕や片足のない人々もいる。

 その傷は、大抵が魔物によってつけられたものだ。


 村の出口に近づくに連れて、村人が少なくなる。

 見張りのオットーとドータに手を振って、ヘレンの泉へ向かう。


 脇道に入る頃には村人の姿は完全に見えなくなり、ノアはまた鼻歌を歌い出す。


 ノアは魔物を見たことがない。

 遠目でちらりと、あれが魔物だと教えられた記憶はあるが遠いところを飛ぶそれは、少し大きいだけのただの鳥に見えた。


 だからだろう、村人の酷い傷跡を見て恐ろしいと思うことはあっても、魔物への恐怖心というのは少ない。


 今日も魔物と遭遇することなくヘレンの泉に着いた。


 ノアはまず、癒しの女神ヘレンの像の前に立つ。

 女神像は泉の中央、小さな陸のようになった所に立っており、泉の真ん中で微笑んで両腕を緩く広げている。

 石でできた像で、腹部から下側には小さな亀裂が走っているし、泉の真ん中に立っているせいで誰も磨いたりすることができず、女神の足元から頭元まで蔦が絡んでいる。

 それでも女神は穏やかな、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。


 軽く頭を下げて両手を組み、

「女神ヘレン様、泉の水を少し分けてください。いつもありがとうございます」

 と小さく呟く。


 泉の水は濁りもせず、周囲の景色を反射するほど綺麗だ。

 森の中にあるが、この周辺だけ木々が少なく、木漏れ日が差し込んでいる。


 感謝の祈りを捧げたあと、泉の縁にしゃがみ込んで腰につけていた水筒を使って水を少しすくいとる。

 泉には大小さまざまに生き物が来ていて、近くで寛いだり水を飲んだりしていた。


 ノアの近くに降り立った小鳥が嘴をつけて水を飲むのを眺めながら、よいしょ、と立ち上がる。まだ日は暮れていないが、少し太陽が傾き出している。


「女神様、ありがとうございます」


 もう一度女神に向かって手を組んで頭を下げてから、ノアは森を抜けた。


 早足で村に戻る頃には、段々と空がオレンジ色の光に染まり夕暮れの顔を見せる。


 村の出入り口からは、ノアの家よりもユーナの家の方が近い。

 このまま泉の水を渡してから帰ろうと、ユーナの家に向かった。


 ユーナおばさんは畑に出ていて、歩いてくるノアを見るとびっくりしたように目を瞬かせながら立ち上がった。


「ノアちゃん!泉に行ってきたのかい」


 ノアが歩いてくる方向から、見当が付いたのだろう。


 ユーナは少し怒るように、顔を顰める。


「うん。でも、暗くなる前に帰ってきたし、魔物にも遭わなかったよ」


「それは良かった。でも、寄り道せずに帰るよう言ったろう」


「それはごめんなさい。でも、アンナが心配で……」


 水筒をユーナに差し出すと、ふう、とため息を吐いてノアの頭を撫でた。


「アンナちゃんが心配なのは伝わっているよ。でもね、ノアちゃん。ノアちゃんのことだって、心配なんだよ。毎回魔物に遭わないともう限らないし、ノアちゃんはまだ子供だ。魔物に遭っても、追い払うのは難しい。大の大人だって、やられてしまうんだよ」


 アンナの母親、つまりユーナの娘は魔物に殺されてしまった。

 その時の悲しみが透けて見えるようで、ノアも悲しくなる。


「心配かけてごめんなさい」


 しょぼくれたノアを見て、ユーナは表情を緩めた。


「分かってくれたんなら良いさ。これはアンナちゃんに飲ませておくよ。ありがとうね、ノアちゃん」


 ノアの手から水筒を受け取り、

「さあ、そろそろ帰りなさい」

 と促す。


 ユーナに手を振って、ノアは家へと帰った。


「おかえりなさい、ノア。お使いありがとうね」


 玄関まで出迎えに来てくれた母も、

「それにしても、遅かったわね。寄り道していたの?」

 と心配していたようだ。


「ヘレンの泉に行ってきたんだ」


「そう……。怪我がなくて良かったわ」


 ノアの目線に合わせるように、母はしゃがみ込んでノアの頬を撫でた。


「アンナちゃんの風邪、酷いの?」


 この村に医者はいない。

 老齢の薬師がいるが、村周辺ではあまり薬草も取れず薬は貴重なため、風邪ぐらいでは薬を出さないのだ。


「少し熱があるぐらいって、ユーナおばさんが。でも、部屋から出てきてくれなかったから会えなかったんだ。声が枯れてて、しんどそうだったけど」


「そうなの。泉の水で、少しでも良くなると良いわね」


 さあ夕飯にしましょう、と母に促され、ユーナの家に持って行ったスープの残りと、パンを食べた。


「そろそろ寝ましょうか」


 編み物をしていた母が言い、寝る準備を始めていた頃だった。


「母さん、なんか、外が騒がしいよ」


 さっきまで、窓の外にはぽつりぽつりと灯る家の灯り以外は闇の中だったと言うのに。


 ノアの横で外を除いた母が、「……火事?」と目を細めながら呟いた。


 森の方がオレンジ色に光っている。

 山火事にも見えるほど眩しく、広範囲だった。


「……ノアは家の中にいなさい。ちょっと様子を見てくるわ。森が燃えているのなら、この村も危ないかもしれないわね」


 母がノアの頭を軽く撫でて、寝巻きの上からカーディガンを羽織る。


「母さん、気を付けて……」


 子供の自分では、母の走りに追いつけない。


 扉の外に飛び出していく母を見送って、もう一度窓の外を見つめる。


 まだ火は遠い気がしていたが、段々と近づいてきている。

 森は木が密集していて、一度火がつくと広範囲に燃え広がりやすい。


 だが、なぜ火がついたのだろう。と、考えたところでノアの視界を何かが横切った。それから、次々と叫び声が聞こえてくる。


「魔物だ……」


 一気に血の気が引くようだった。


 遠くで見た鳥のような魔物。

 それが、直ぐ近くまで飛んできている。

 火が魔物の仕業だと気づいたのは直ぐだった。


 今まで少しも実感のなかった魔物への恐怖に足がすくみながら、玄関へと歩き出す。

 家の外に飛び出してからは、無我夢中で走り出した。


「母さん、アンナ、ユーナおばさん、……!」


 ノアの育った場所。

 ノアの大事な人。


 火の手が村の近くまで迫っているが、幸いにもまだ村の中へは入っていない。


 ノアの母と同じように様子を見に出てきた村人たちが、魔物の姿に怯えている。


「女子供は村の奥へ!村長の家に向かうんだ!」


「あの家には地下室がある!逃げろ!」


「力のある男は、武器になるものをもってこい!追い払うぞ!」


 声をあげているのは、普段門を守っている男達だ。

 だが、その顔は恐怖に引き攣っている。


 大型の魔物1匹にも脅威を感じ、なんとか追い払っているだけのこの村に、魔物の群れをどうにかする手段などないのだ。


「母さん、母さん……!」


 どこまで行ったのだろう。

 奥へと逃げる村人に逆らい、村を駆ける。


「痛いっ……」


 こんな時だというのに、頭の中に歌が鳴り響いている。

 頭の中の歌はどこまでも大きく、そのうちノアの頭を割ってしまうのではないかと思うほどだ。


 歌のせいで頭が痛い。


 走っていた足を止めて、頭を押さえる。


 ふうふうと息をしながら、目を開けて、間近に迫った鳥の姿に悲鳴をあげた。

 その声はそのまま、ノアの喉を使って勝手に旋律を作り上げる。


 気が付けばノアは、声変わり前の高い声で朗々と歌い始めていた。



「ギャァッ……!」




 なんの声だろう。

 ひしゃげた叫び声が響いて、薄目を開ける。


 ノアの目に映ったのは迫っていた鳥のような魔物が、ズタズタに切り裂かれて落ちていくところだった。


 訳のわからぬまま、ノアの口が勝手に動いてさらに大きな歌声を響かせる。

 その声は村中に響き、その声の届く範囲にいた魔物は目の前にいた魔物のように切り裂かれて無惨に落ちていく。


 村の中の光景は、さながら地獄のようだった。

 村を狙って突っ込んでくる大小様々な魔物達が、一定距離近づくと汚い悲鳴をあげて散っていく。


 魔物の血は人間と変わらず赤色をしていて、村中に赤い雨が降ったようだった。


 村人達は戸惑ったように頭上を見上げ、魔物の赤に汚されながらも、その血に怯えて屋根の下へと逃げていく。


 だが、悲鳴は一つも聞こえず誰も彼もが呆然としていた。


 魔物の襲撃は一晩続き、ノアは一晩中血の雨の中で歌い続けた。

 途中から、この歌が魔物を害していることに気づき、悲鳴のような歌のせいで痛む喉を酷使し続けた。


 頭痛は消え去っていた。


 頭の中に歌は響かず、絶えずノアの喉から振り絞られていく。


 やがて朝日が見えて、魔物の姿が全て地面に落ちて、ようやくノアは歌うのをやめた。

 というよりも、歌えなくなった。


 喉は掠れて声も出ず、体力が尽きて地面へ倒れ込む。


 ノアが最後に見たのは、こちらに駆け寄ってくる泣きそうな母の姿だけだった。


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